第三章 セーラー服と守り神 #3
「……落ち着いた?」
グラスに残った氷の最後の1粒を豪快に噛み砕きながら、二三香が声をかけた。
「すみません、もう大丈夫です。60年――正確には65年のツケがこんな形で出るなんて思ってもみなくて……」
ルイは照れくさそうに答える。
それでも5分やそこらで立ち直ってしまう図太さは大したものだ。普通の人間ならツケを払う前に精神を病んでいるに違いない。
と、その時。
「よーし、今なら言ってもいいよね?」
突然、謎の前フリを始める未波。
このタイミングで何を言い出すつもりなのだろう?
ルイと二三香も同じことを思ったらしく、
「何ですか?」
「何よ、いきなり」
「やだなぁ、ルイにゃんの服のことだよ。明日は土曜日で学校休みだから、みんなで買いに行こうって昼休みに話したじゃん」
「あ、そうだった! 危うく忘れるところだったわ」
「え、私の服……? 準さん、さっそく相談してくださったんですか?」
未波たちのやり取りを聞いて、ルイが目を輝かせる。
と、二三香が準に代わって明日の段取りを話し始めた。
「そうよ。まず、私が秋津駅で渡末君と待ち合わせて、未波の家に移動するでしょ?」
「はい」
「そこで渡末君はルイちゃんを呼び出して、一旦ベランダに出る。その間にルイちゃんは未波の中学時代の制服に着替えて、いざ出陣って流れよ。せっかくの能力だし、こういう時にこそ有効活用、もとい恩返ししないとね!」
「すごい……すごいです! ありがとうございます! 痛っ!」
勢いよく頭を下げすぎて、テーブルに額を強打するルイ。ゴン! と生々しい重低音が響いた。聞いている準の頭まで痛くなる。
「ルイ、とりあえず落ち着こうか。今ここで怪我でもしたら買い物どころじゃなくなるぞ」
「これが落ち着いていられますか! それに私なら平気ですよ。ほら、このとおり」
前髪をかき上げ、得意そうに鼻を鳴らすルイ。
あれだけ盛大な衝撃音を立てておきながら、その額には傷どころかアザひとつ作っていない。とんでもない石頭だ。
「……むしろテーブルの心配した方が良さそうだな」
「準さん、さりげなくひどいです」
* * *
暗闇の中、準は膝を抱えて座り込んでいた。
(何だってこんな所に押し込められなきゃならないんだ!)
学校帰り、未波・二三香と共に寄った喫茶店でルイを呼び出し、さっそく明日服を買いに行くと伝えた直後。
「もしよかったら、制服だけでもどんなのか見てみたいです」
ルイが突拍子もなく、そんなことを言い出した。
制服とは、昼休みに話し合ったように未波の中学時代の制服だ。
この申し出に未波が食いつかないはずがない。
「お? じゃあさっそく試着してみる?」
案の定、ノリノリで快諾されてしまった。「急に押し掛けても迷惑だから」と遠慮する間もなく。
さらには、二三香まで「そうと決まれば、善は急げよ」などと、ドヤ顔でルイを焚き付ける始末。
先ほど決めた段取りの第一段階が早くも前倒しされようとしていた。かと言って、未波の都合さえ問題なければ、特に反対する理由もない。
結局、3人に引っ張られるような形で未波の家を訪問する運びとなってしまった。
未波は準たちを部屋に通すとクローゼットの扉を開け、ハンガーに掛けられたセーラー服を取り出した。
「それじゃ準ちゃんはこっちね」
「?」
準は思わず耳を疑った。
なぜなら、未波の手が指し示す先は――
(クローゼットの中……だと?)
これからルイが着替えようとしている。それが済むのをクローゼットの中で待てと言うのだろう。
中は上下二段構造になっていた。仕切り板を挟んで、上段にはハンガーに掛けられた服がずらりと並んでいる。下段は夏物でもしまっているのであろう衣装ケースと、大手家電メーカーのロゴ入り段ボールがいくつか鎮座しており、膝を抱えてぎりぎり入れるくらいのスペースしかない。
ふと視線を感じ、準はそちらを向いた。
視線の主――未波のセーラー服を抱えたルイと目が合う。
ぺこり。
唐突に、ルイは懇願するような目で頭を下げた。
「ごめんなさい。さすがにちょっと恥ずかしいので、着替えてる間だけあの中にいてもらえませんか?」
実際に口に出して言われたわけではない。しかし、ルイの目は明らかにそう語っている。
もはや異論も疑問も差し挟める余地は残されていなかった。かくして、悟りとも諦めともつかぬ境地に達した準は、粛々と暗闇へその身を投じたのである。
そして――。
「よし、サイズはぴったりだね!」
「学校の制服って、着てるだけで何だか心が引き締まりますね。胸が高鳴ってきます」
「最初のうちだけよ。そのうち慣れてくるわ」
「やはり、キミも感じるかね? 青春の鼓動ってやつを!」
「はいっ!」
「いつからこの部屋は新興宗教の道場になったのかしら?」
理解に苦しむ会話がクローゼットの外から聞こえてきた。
(あいつら何やってんだよ!)
未波を起点に脈絡不明の会話が始まるのは、今や規定路線となりつつある。それ自体に異論を唱える気はない。
しかし、ここは狭い(単に空きスペースに余裕がないだけだが)クローゼットの中。いかんせん体勢に無理がある。
膝を抱えて背中を丸めれば肺や腹部を強く圧迫することになるわけで、正直言って息苦しい。
とはいえ、スライド式の扉の向こうではルイが着替えの真っ最中。いくら息苦しくても乱れた呼吸音を発するわけには行かない。何やら取り返しのつかない誤解を招き、社会的な意味で死亡フラグを立ててしまう可能性大だ。
(さっさと着替えてくれ……)
限界が刻一刻と近づいていた。
1度でいい。気道を確保して新鮮な空気を吸い込まなければ。
意を決し、膝に密着させていた顎を離す。
と、その瞬間。
「着替え終わったよん」
ガラガラと扉が開かれ、未波が顔を出した。
間一髪セーフ!
開いた扉から外に向かって手足を伸ばし、深呼吸を2~3度繰り返す。
そして、冬眠から覚めた蛇のようにクローゼットから這い出し――
「あ……」
準は驚きの声と共に、視線を奪われた。
セーラー服を身にまとったルイが、はにかんだ笑顔を浮かべて目の前に立っていた。
ほんの3日間とはいえ、ブルマ姿がルイのイメージとして定着しつつあっただけに、それは一際新鮮な輝きを放って準の目に映る。サイズもぴったりで違和感がない。
立ち上がるのも忘れて、準は嘆息した。
「すごいな……」
「それは制服に対しての感想? ルイにゃんに対しての感想?」
「そりゃもちろんルイに対してだよ。ってか未波、足を開いたまま俺の目の前でしゃがむんじゃない」
光の速さで体を起こし、未波に抗議する。瞬時に視線を逸らしたものの、白と水色のストライプはしっかり目に入ってしまった。
「ふえっ!? み、見えた?」
「見えな――って、おい!」
見えなかったから安心しろよ。
そう言いかけた瞬間。
焦って重心がずれたのか、体が後ろに傾いたかと思うと、未波は派手に尻餅をついた。再び、しかもさっきより露わになるストライプ。
「いったあ~い!」
もはや誤魔化しようがなくなってしまった。せっかくの嘘も台無しである。
「大丈夫かー?」
「何やってんのよ。床抜けても知らないわよ」
半分投げやりな準の問いかけに、二三香の冷たい声が重なる。
「それはさておき、よく似合っててびっくりしたでしょ?」
「ああ。まさか、ここまで似合うとは思ってなかった。これで学生鞄でも持ってれば普通の中学生と変わらないな。ルイ、着心地はどうだ?」
「すっっっごくいいです! 初めてなのでちょっと緊張してますけど、ずっと前から憧れだったんですよ」
「そっか、よかったな。これで明日は堂々と外を歩ける」
「そうと決まったら、時間どうしようか? じっくり見て回るなら、混まないうちに……できれば開店と同時に突入しちゃった方がいいと思うんだけど」
「店が開くのは何時だっけ?」
「だいたいは9時開店だから、その5分くらい前に秋津駅に集まればいいんじゃないかしら」
「分かった。俺とルイもその頃に行くよ。何かあったら携帯に連絡する」
「うん、よろしくね」
制服の試着を終え、明日の段取りも決まった。あとは言い出しっぺが寝坊しなければ万事OKだ。
「未波、制服ありがとう。本当に助かったよ」
「どういたしまして。そのままお払い箱になるよりも、誰かに着てもらった方が制服も喜ぶしさ。それに、これで制服プレイへのフラグが立ったと思うと、むしろこっちがお礼言いたいくらいだよ」
「お断りします!」
――未波、撃沈。
あまりのあっけなさに、準も開いた口が塞がらない。
「ルイも見かけによらず容赦ないな。何も笑顔でフラグへし折ることないだろ」
「準さん、それは違いますよ。自分の何らかのアクションに対し、相手が少しでも受け入れるような挙動を示して初めて『フラグ』と呼べるんです。未波さんのそれは単なる世迷い言です!」
「そ、そんなあ……」
ついに未波はぺたんと座り込み、涙とエクトプラズムを垂れ流しながら放心状態になってしまった。これはしばらく立ち直れないだろう。準は心の中で合掌する。
「え、えーっと……それじゃ私、そろそろ帰ろうかしら」
何ともわざとらしいタイミングで話を切り出す二三香。
「お、おい! 1人だけ逃げようったってそうは行かないぞ。俺たちも晩飯の支度しないとな」
「あら偶然ね。それじゃ駅まで送ってあげるわ」
「よろしく頼む。あ、ところでルイ、さっきまで着てた体操服一式はどうしたんだ? ここに置き忘れると未波が何をしでかすか分からないぞ」
「ご安心を。ちゃんと中に着てますから」
「ならいいけど……って、ちょっと待てよ?」
――――――中に、着てる? それは、つまり……
「まさか、制服は単に重ね着しただけなのか?」
「はい。それが何か?」
今度は準が生ける屍と化す番となった。支柱を爆破されたビルのようにへなへなと崩れ落ち、そして叫ぶ。
「俺、クローゼットに押し込まれた意味ねーじゃん!」