第1話 ブラック企業から逃げ出したら、もっとブラックな裏稼業でした
東京都内の某所、最寄りの駅から徒歩15分という微妙な立地にある、ツタの絡まった古びた雑居ビル。昭和の時代から取り残されたような灰色の外壁は所々ひび割れ、薄暗い階段にはカビと湿気の匂いが染み付いていた。
その3階に、高木乾三の新しい――そしておそらく強烈に後悔することになる――職場はあった。
錆びついた鉄扉には、マジックで乱雑に『安藤不用品回収』と書かれたプラスチックのプレートが針金でぶら下がっているだけだ。どう見てもまともな企業が構えるオフィスには見えない。
「本当にここか……?」
高木は30歳になったばかりの、長身でがっちりとした体格の男だ。学生時代からスポーツで鍛え上げた恵まれた体躯を持っている。しかし今、その広い背中は自信のなさからひどく丸まり、精悍だったはずの顔には隠しきれない疲労と睡眠不足の青白い色が濃く滲んでいた。ダボッとした安物のグレーのパーカーと、色落ちして膝の抜けたジーンズは、なるべく社会の風景に溶け込み、人目を引かないようにしたいという彼の切実な防衛本能の表れだった。
薄暗い廊下で深呼吸をして、扉の冷たいノブに手を伸ばす。
その瞬間、ジーンズのポケットに入っていたスマートフォンがブルッと震えた。
「っ……!」
ビクン、と高木の肩が大きく跳ねた。心臓が早鐘のように打ち始め、手のひらにじわっと冷たい汗が滲む。息を止め、恐る恐る画面に目を落とすと、それは単なるニュースアプリの号外通知だった。
それだけのことで、高木は安堵のあまり全身の力が抜け、その場にへなりと座り込みそうになった。壁に手をついて荒い息を吐き出す。
――トラウマだ。完全に。
つい1ヶ月前まで、高木はいわゆる絵に描いたようなブラック企業で働いていた。
毎朝午前7時には出社して掃除と朝礼をこなし、終電で帰れれば御の字。休日などという概念は最初から存在せず、深夜2時だろうが日曜の早朝だろうが、上司からのメッセージアプリの通知音が鳴れば即座に返信し、パソコンを開かなければならなかった。
『お前は本当に使えないな。給料泥棒め、死ぬ気でやれよ』
『お前の代わりなんていくらでもいるんだぞ。嫌なら今すぐ辞めろ』
『言い訳はいいから結果を出せ!』
毎日浴びせられる人格否定のシャワー。鼓膜を破るような怒声、理不尽な罵倒、そしてこなしてもこなしても無限に増殖していくタスクの山。
高木は元々、波風を立てるのが苦手な事なかれ主義だった。理不尽な要求に対しても「自分が我慢すれば丸く収まる」「ここで辞めたら他に行く当てがない」と歯を食いしばり続けた結果、心身はあっけなく限界を迎えた。
ある朝、駅のホームで通勤電車を待っている時に、文字通り足が1歩も動かなくなってしまったのだ。電車が目の前に滑り込んできても、体が鉛のように重く、視界が真っ暗になり、ただ涙だけがボロボロとこぼれ落ちた。
逃げるように退職届を内容証明郵便で送りつけ、会社関係の連絡先をすべて着信拒否にして、隙間風の吹くアパートで泥のように眠り続ける日々。しかし、失業保険の手続きすら億劫で放置していたため、なけなしの貯金はあっという間に底をつきつつある。生きるためには、家賃を払うためには、とにかく働かなければならない。
そんな時、ネットの怪しい求人サイトで偶然見つけたのが、この『安藤不用品回収』だった。
【事務員兼軽作業スタッフ募集。学歴・職歴一切不問。アットホームな職場です。高給優遇】
今冷静に思えば、「アットホームな職場」というブラック企業特有のキラーフレーズを全力で警戒すべきだった。しかし、「面接不要、履歴書持参で即日採用あり」という都合の良い謳い文句と、相場を大きく上回る破格の時給に釣られて、高木は藁にも縋る思いでフラフラとここまでやってきてしまったのだ。
「……行くしかないよな。家賃、払えなくなるし」
高木は己を奮い立たせるようにつぶやき、意を決してノブを回した。ギギギ、と油の切れた不快な音を立てて、重い鉄扉が開く。
「失礼します。あの、求人を見て……履歴書を持参した、高木と申しますが……」
おずおずと足を踏み入れた瞬間、高木はウッと喉の奥で息を呑んだ。
むせ返るようなホコリの匂い……ではない。もっと、何かひどく生臭くて、古びた油のような重苦しい空気が部屋の中に立ち込めていたのだ。
事務所の内部は、控えめに言っても「ゴミ屋敷の一歩手前」といった惨状だった。
壁際を埋め尽くす錆びたスチールラックには、文字盤の欠けた古びた掛け時計、ヒビの入った日本人形、誰が着るのかわからないカビ臭い時代遅れの毛皮のコート、顔が半分潰れたテディベア、画面の割れた大量のブラウン管テレビなど、統一感の欠片もない薄気味悪いガラクタが所狭しと詰め込まれている。床には得体の知れないガムテープでぐるぐる巻きにされた段ボール箱が山積みにされ、足の踏み場もろくにない。
しかし、高木がその場で立ちすくみ、激しく怯んだのはその尋常ではない散らかり具合のせいではなかった。
(なんだ、これ……気持ち悪い)
頭の奥が、鋭い針で刺されたようにズキズキと痛み始めた。胃の底から、冷たく濁った泥水がせり上がってくるような強烈な不快感。
高木は無意識に胸元を強く握りしめた。前職で極限まで精神をすり減らし、常に他人の顔色を窺い続けた結果、高木は他人の感情の変化に異常なほど敏感になってしまっていた。他人のイライラ、悲しみ、怒り、どす黒い欲望――そういった負の感情を、まるで自分自身の感情であるかのように直接受け取ってしまうのだ。ネットのオカルト系の知識を借りるなら、「エンパス」という体質らしい。
そして今、この薄暗い部屋にいるのは高木1人のはずなのに、そこかしこのガラクタから「誰かの強烈で淀んだ感情」がビリビリと静電気のように伝わってくるのだ。
特に酷いのは、部屋の中央にある古びた応接テーブルの上に無造作に置かれている、1つのスマートフォンだった。
画面はクモの巣状に割れており、裏面にはラインストーンで派手にデコレーションされたリングが取り付けられている。一見すれば、持ち主が落として壊れただけのジャンク品だ。
しかし高木には、そのスマートフォンからドロドロとした黒いタールのような不浄なものが絶え間なく滲み出し、周囲の空気をべっとりと汚染しているように感じられた。
(見られたい。私を見て。もっと、もっと、私を褒めてよ……! なんで私よりあの子のほうが『いいね』が多いの……!)
幻聴ではない。しかし、確かにそんな声なき絶叫が、頭の髄に直接響いてくる。強烈な承認欲求と、それが満たされないことへのどす黒い嫉妬と怨念の渦。
限界を超えた吐き気に襲われ、高木がその場に蹲りそうになったその時だった。
「勝手に商品に触らないでもらえますか」
凛とした、しかし絶対零度の氷のように冷たい声が、ゴミの山の奥から響いた。
ハッとして顔を上げると、奥に立てられた薄汚れたパーテーションの陰から、1人の人物が静かに現れた。
小柄で華奢な体つき。透き通るような白い肌に、鮮やかなブロンドの髪が肩口で揺れている。大きな瞳と整いすぎた目鼻立ちは、まるで凄腕の職人が精巧に作り上げたフランス人形のようだ。年齢は20歳そこそこだろうか。どこかの名門大学の学生か、あるいは人気のインフルエンサーだと言われても誰もが納得するほどの、際立った美少女だった。
しかし、彼女の瞳には微塵も人間らしい感情の揺らぎがなく、ただ冷徹に目前の対象を観察するだけの無機質な光を湛えていた。
「あ、すみません。触ってはいません、ただ、見ていただけというか……」
高木は慌ててテーブルから数歩距離を取った。相手が自分より10歳近く年下の小柄な少女であっても、染み付いた防衛本能は抜けなかった。
「あなたが求人に応募してきた高木乾三さんですね。私はここの代表を務めている、安藤まひるです。履歴書を見せてください」
安藤まひる――21歳。
彼女は高木が震える手でクリアファイルから取り出した履歴書を受け取ると、視線を落とし、高木を上から下まで値踏みするように見つめながら淡々と読み上げ始めた。
「30歳。独身。趣味は料理。前職は……ああ、なるほど。株式会社〇〇ですか。業界では有名なブラック企業ですね。平均離職率は驚異の80パーセント超え。あなたはそこで3年間も耐えた。素晴らしい忍耐力、あるいはただの思考停止ですね」
「えっ、あ、はい……」
「志望動機には『体力には自信があり、御社のお役に立てると思い』などと陳腐なテキストが並んでいますが、要するに『心身ともにボロボロで、面接なしで誰でも受かりそうな底辺の肉体労働を探していた』というところでしょう?」
初対面の、しかも一回りも年下の少女からの容赦ない言葉のナイフに、高木は絶句した。
すべてが図星だったからだ。彼女の言葉には一切のオブラートがなく、論理的かつ冷徹に高木の惨めな現状を抉ってきた。
「あなたのような『自己評価が低く、他人に依存し、反抗しない人間』は、使い潰す側からすれば最高の労働力です。前職の社長もさぞ喜んだことでしょうね」
――ズキンッ。
その言葉を聞いた瞬間、高木の脳裏に、あの日々が鮮明にフラッシュバックした。
『お前は本当に使えないな! 一生俺の言うことだけ聞いていればいいんだよ!』
顔を真っ赤にして怒鳴り散らす前職の社長の顔が、まひるの無表情な顔と重なる。心臓がドクン、ドクンと嫌な音を立てて跳ね、急激に息が苦しくなった。背中を冷や汗が滝のように流れ落ち、足の震えが止まらなくなる。
(まただ。また俺は、こういう場所に自ら足を踏み入れてしまったのか。逃げなきゃ、今すぐここから……!)
頭ではそう警鐘が鳴り響いているのに、恐怖で体がすくんで1歩も動けない。
「あの、やっぱり俺、帰っても……」
「待ちなさい」
震える声で何とか絞り出し、踵を返そうとした高木を、まひるの鋭い声が引き止めた。怒声ではない。ただ、逆らうことを許さない絶対的な静けさを持った声だった。
彼女はスタスタと歩み寄ると、先ほど高木が青ざめた顔で見つめていたテーブルの上のスマートフォンを指差した。
「高木さん。あなたが部屋に入ってきてからずっと、顔色を悪くしてこれを見ていたのを私は知っています。……これを見て、あなたはどう感じましたか?」
「どう、って……ただの画面が割れたスマートフォンですよね?」
高木は咄嗟にごまかそうとした。こんなオカルトじみた感覚を初対面の相手に話したところで、気味悪がられるか、頭がおかしいと思われるだけだ。
「嘘をつく人間は採用しませんよ。あなたのその無駄に大きな体が、本能的な恐怖で縮こまっているのは明白です。正直に答えなさい。何を『視た』のですか」
まひるの眼光の鋭さに射抜かれ、高木は観念したように荒い息を吐いた。どうせこのまま不採用になって追い出されるなら、思っていることを言ってしまおう。
「……そのスマートフォンから、なんていうか……ひどく嫌な感情がまとわりついてきて……うまく言えませんが、とにかく吐き気がするんです。誰かの凄まじい執着みたいなものが流れ込んできて、頭も痛いし、これ以上近づきたくないんです」
高木が投げやりな声でそう告げた瞬間。
まひるの氷のように冷たかった瞳の奥に、初めて微かな熱が宿ったように見えた。彼女は口角をわずかに上げ、ひどく満足げに頷いた。
「霊視ではなく、感情の残滓を直接嗅ぎ取れる『エンパス』……それも、特級の呪物を前にして精神崩壊を起こさない程度の強度を持った、かなり高感度な感知器ですね」
「センサー? 呪物? なんの話ですか」
まひるは高木の履歴書を無造作にテーブルに放り投げると、呆然とする高木に向かって、白く小さな手を差し出した。
「合格です、高木乾三さん。本日付けであなたを当社の正社員として採用します。試用期間はなし、時給は募集要項の通り。主な業務内容は、不用品の運搬、事務作業、私が食べる夜食の買い出し――」
まひるはそこで言葉を区切り、ニヤリと、どこかサディスティックな笑みを浮かべた。
「――そして、現代社会に蔓延る『呪い』を嗅ぎ分けることです」
「……はい?」
「ここはただの不用品回収業者ではありません。現代人の歪んだ情念、嫉妬、承認欲求が宿ってしまった『現代呪物』を極秘に回収し、無害化する……特級呪物処理請負業です。さあ、残業を始めましょうか、高木さん」
差し出された小さな手と、その背後にあるゴミの山、そして得体の知れない邪悪な気配を放ち続けるスマートフォンを交互に見比べながら、高木は限界に達した頭痛に顔をしかめた。
どうやら自分は、ブラック企業から逃げ出した先で、さらにブラックで、理不尽で、命がけの裏稼業に足を踏み入れてしまったらしい。
(でも……)
理不尽に怒鳴り散らされるだけの前職の地獄に比べれば、この冷徹で論理的な少女の言葉のほうが、変な話だが、まだ少しだけマシな気がした。
これが、ドSで冷徹な霊媒師上司・安藤まひると、高木乾三の最悪で数奇な出会いであった。




