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夢の中にいるような浮遊感は、家に帰り着いても、なかなか拭い去ることができなかった。
その感覚は、夜、布団に入っても変わることはなかった。いや、変わらないどころか、ますます大きくなっていく感じさえした。
俺は、布団の中で背中を丸めながら、そっと目を瞑った。なす術もないまま、夢と現実の間を彷徨っている意識に身を任せる。
と、次の瞬間、思いもかけない記憶が、瞼の裏に鮮明に蘇った。
――めくれ上がったスカートの裾から覗いている、透き通るように白いミサキの太腿。
心臓が、激しく脈打った。
瞼の裏のミサキは、リビングのフローリングの上で、抜け殻のように横たわっている。上にのしかかった黒い影の蠢きに合わせて、膝上丈の茶色いプリーツスカートが上下に揺れる。そのたびに、ミサキの太腿が妖しく見え隠れする。
太腿を覆うきめ細やかな表皮を通して、青い血管が網の目のように透けて見える。
その光景は、昭二の背中に刺さった包丁や床に広がった血溜まり、そして死体を包んだビニール袋などとは比べものにならないほどの確かな現実感をもって、俺の心に迫ってきた。
心臓の鼓動が、先ほどにも増して、ますます速く激しくなっていく。
体じゅうの毛穴から、粘りけのある汗が噴き出す。
――ミサキ……。
その日、俺は布団の中で、ミサキの艶めかしい太腿を思い浮かべながら、いけないことをした。
*
翌日、いつもよりやや早起きした俺は、母親に聞いてみた。
「今日、この近所で何か事件がなかった?」
キッチンで朝食の準備をしていた母親は、自分から起きてきた俺に驚いた様子だったが、すぐに真顔に戻ると「いいえ、何もなかったわよ」と答えた。そして「変な子」とつけ加えて、笑った。
学校に行くと、ミサキはすでに登校していた。
廊下で、いつも通りの軽い挨拶を交わした俺は、教室に入ると何ごともなかったかのように、自分の席に着いた。
*
事件以降、ミサキが学校を休むことは、ほとんどなくなった。必然的に、ミサキと顔を合わせる機会は増えた。しかし、俺は以前にも増して、ミサキと話をしなくなった。
話をすると、事件に関する内容を無意識のうちに口にしてしまうかもしれない。そんな漠然とした恐怖心に加え、美咲が性的虐待をされている事実を知ってしまったという気まずさが、彼女と会話をする行為の邪魔をした。
恐らく、ミサキも同じ思いだったろう。
ただ、一度だけ、ミサキが事件後の様子について話してくれたことがある。
事件の翌日、帰ってきた母親の早苗には「お父さんは昨日の夕方、急に出かけて以来、帰ってこない」と伝えたそうだ。
大人である早苗には到底、納得してもらえないだろうと覚悟していたが、早苗は一瞬、驚いた表情を見せたものの、黙って頷いただけだったという。
その後は、叔母の葬式などで忙しく、その話題が出ることはなくなったとのことだった。
俺は思った。
早苗は、昭二が急にいなくなったという不自然さに気づいていながら、敢えて何も言わなかったのではないだろうか。証拠があるわけではないが、そんな気がした。
その思いは「最近、お母さんの笑顔が増えた気がする」というミサキの言葉によって、さらに強まった。
昭二は、それほどまでに周囲の人々を不幸にしていたのだ。
その数ヶ月後、ミサキは突然、転校していった。
比較的親しかった女子の話では、父方の伯父の名義だった家を出ることになり、隣のM市に引っ越していったとのことだった。今まで住んでいた家には、どうやら伯父が住むことになるらしかった。
あまりにも突然のできごとに、新しい連絡先を聞くこともできなかった。コウに確認したが、コウも聞いていないとのことだった。
連絡先を聞けなかったということは、ミサキも俺たちに告げる気がなかったのかもしれない。何となくそう考えた俺は、深く追求することが怖くなり、それ以上考えることを止めた。
ミサキがいなくなって以降、あの日のできごとは、以前にも増して急速に現実感を失っていった。
もちろん、思い出して不安や恐怖を感じる瞬間がまったくないといえば、嘘になる。だが、そんなときも、もう一人の俺が、いとも簡単に不安を振り払ってくれた。
――あの家にミサキと母親に代わって、伯父が住むようになっただけの話だ。住んだからといって、まさか床下に自分の弟の死体が埋まっているなどとは思いもしないないだろう。
俺は、自分でも驚くほど楽観的に、その想像を受け入れた。
そして、あの事件に対する不安や恐怖は、慌ただしい毎日の生活のなかで、少しずつ心の奥底に埋もれていった。それはまるで、沼に放り込まれた死体がゆっくりと、確実に沈んでいくかのようだった。
その後、俺も引っ越して町を出た。ミサキの転校から数ヶ月後のことだった。
あの事件以来、俺は殺人事件や身元不明の死体に関するニュースに、何となくだが注意を払うようになっていた。しかし、何年たってもA市の民家から死体が発見されたというニュースが流れることはなかった。
もはや昭二の死体は、あの土の下で無味無臭の骨だけになっているはずだった。それは、発見される可能性が、埋めた当初よりも格段に低くなっていることを意味していた。
――やはり、コウの判断は間違っていなかった。
俺は、遠い昔に見た夢を思い出すような心地で、そんなことを考えた。




