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今から三十年ほど前になるだろうか。
当時、拝島は生活安全課に勤務する駆け出しの警察官だった。
ある日、いつものように交番に勤務していると、近くの線路で男性による飛び降り自殺が発生した。通報を受けた拝島は、すぐに現場に駆けつけた。
現場は複線の鉄道で、男性はその上にかけられた高架橋から線路に向けて飛び降り、電車に轢かれたとのことだった。
救急車や警察署から派遣されるはずの警察官は、まだ到着していなかった。拝島が線路脇の斜面を降りて周囲を確認すると、前方に電車が停止していた。
電車に近づくと、周辺にずたずたに引き裂かれた布や肉片らしきものが散乱していた。
生臭い臭いが鼻を突いた。あるいは、気のせいだったかもしれない。
だが、あまりの生々しさに、拝島は思わず吐き気をもよおし、目を背けた。
そのとき、視界の隅に、一台の乗用車が見えた。乗用車は、ほんの僅かな間、高架橋から線路に沿って延びる道路の端に止まっていたが、やがて猛スピードで走り去っていった。
――不審車両?
脈絡もなく、そんな言葉が頭をよぎった。
間もなく救急車が到着し、ほぼときを同じくして続々と警察車両が到着した。その後、拝島は現場での野次馬に対する対応などに忙殺されるあまり、いつしか乗用車のことは忘れていた。
自殺したのは、三十歳代の男性だった。借金で悩んでいたらしく、直接の動機は借金苦と考えられた。
ちょうど、すべての捜査が打ち切られようとしていたときだったろうか。拝島は刑事から、男性が勤務していた会社の社長の写真を見せられた。
その写真に、拝島の記憶が蘇った。
――あの車を運転していた男に似ている。
拝島は、その事実をすぐに刑事に告げ、任意で社長たちに事情聴取をするべきだと主張した。だが、ベテラン刑事は、交番に勤務する若造の巡査が口にする言葉に、聞く耳をもたなかった。
そのまま、そのできごとは事件性ありと見なされることはなく、単なる自殺として処理された。
それから十年ほどがたった頃のことだった。ある会社の社長が詐欺の疑いで逮捕された。その社長は、取調べが続くなかで、十年前に起こったとある男性の自殺に関して、自殺教唆をおこなったと供述した。
あの事件だった。
しかし、自殺教唆は事件から十年で時効となる。警察は時効がない殺人も視野に入れて捜査を進めたが、結局、立件を断念した。そのため、社長が十年前のあの事件で罪に問われることはなかった。
――あのとき、もっと強く自分の意見を押し通していれば……。
拝島は後悔するとともに、一つの教訓を得た。
――大多数の判断に、無条件に飲み込まれてはならない。ときとして、自分の見解を貫き通すことも必要だ。
*
拝島は、あの事件で感じた悔恨を、刑事となった後も、ことあるごとに思い出さずにはいられなかった。
――今回の捜査本部の状況は、あのときと同じだ。
小室殺害事件に関して、捜査の方向性に危機感を憶えた拝島は、その後も何度か、捜査本部長に対する進言を続けた。
「西住を真犯人と決めつけ、その方向ばかりを向いて捜査を進めていると、ほかの可能性を追う余力がなくなります。アリバイを崩すための捜査と並行して、協力者の存在も視野に入れて捜査を進めるべきだと、自分は思います」
だが、本部長が頑なな態度を崩すことはなかった。
「人員が足りないからこそ、もっとも可能性が高い見立てに沿って捜査を進めるべきだというのがわからないのか。足並みを乱すようなことを言うんじゃない」
拝島は、本部長の胸倉を掴んでやりたい衝動に駆られた。だが、現実問題として、そんなことができようはずもないし、実行したところで現状が何ら変わらないことは明らかだった。
できることと言えば、膝の上の拳を固く握り締めて、本部長を正面から睨みつけることぐらいだった。
「俺は、それでも拝島さんを信じてます。もし、俺にできることがあれば、何でも言ってください」
坂口は、何とかの一つ覚えのように、いつも同じような言葉を口にした。またかと思いながらも、気がつくとその言葉が、拝島にとって唯一といってもいいほどの救いになっていた。
*
会議室の椅子に腰かけたまま、遠い過去に味わった後悔の念、そして本部長との遣り取りで感じた苦々しい思いを反芻していた拝島は、ふと気がついた。
脳に微弱な電流が流れたような感覚だった。
――もし、西住に協力者がいたとしたら……。
――犯行時に着用していた服や靴を、西住が購入したのと同じネットショップで買い揃えた可能性があるのではないだろうか。
服についてはよく似たもので構わないかもしれないが、少なくとも靴は、同じ型番の同じサイズのものを用意しなければならないはずだ。
「おい、坂口」
拝島は、気がつくと傍らに立っていた坂口に、思わず声をかけていた。
「現場に残されていた靴跡は、どんな靴のものだった?」




