25
西住が釈放された日から三日ほどたった日の昼前、拝島は捜査員たちが出払っている捜査本部で、腕組みをして椅子に座り込んでいた。
傍らに座っている坂口は、横目でちらちらと落ち着きなく拝島の顔を見ながら、それとなく機嫌を伺っている。
拝島は、そんな坂口を無視して目を瞑る。
と、瞼の裏に二週間前のできごとが蘇った。
*
西住の釈放が発表された捜査会議の後、拝島は西住の最後の事情聴取を本部長に願い出た。
「お願いします。もう一度だけ、自分に取調べをさせてください」
本部長は、明らかに気乗りしない様子だった。だが、拝島のあまりの粘り強さに根負けしたのか、最後には首をしぶしぶ縦に振った。
アリバイを主張して以降、西住は取調べで相変わらず黙秘を貫いていた。
その段階では、釈放になるであろうことを、本人にはまだ告げていなかった。拝島は意を決して、西住に言った。
「実をいうとな」
西住は俯いたまま、反応を見せなかった。その姿は、決して血色がよくない肌の色と相まって、まるで蝋人形のようだった。
「包丁には、お前のものではない指紋が、一つだけついていた」
もちろん、嘘だった。
拝島は眉間に皺を寄せ、西住の反応を注意深く観察した。
もし、西住が真の実行犯だったとしたら、第三者の指紋は「自分はやっていない」という西住の主張を補強する証拠となる。西住にとっては、喜ぶべきできごとであるはずだった。
だが、西住は俯いたまま、目を落ち着きなく左右に動かした。明らかに動揺している態度だった。
――やはり……。
――西住は、第三者の指紋が見つかることを望んでいなかった?
西住の反応は、彼のほかに真の実行犯がおり、その実行犯の存在が白日の下に晒されることを恐れている可能性を示唆していた。
その後、拝島は自分の推測を確信に近づけるべく、質問を重ねた。
だが、その後の西住は、再び反応が鈍くなった。
どんな質問にも一切、顔色を変えず、会話に応じることもないその姿勢の裏には、何か強い信念のようなものが隠されている。
拝島には、そのように思えて仕方がなかった。
*
協力者がいるという可能性は、比較的早い時期に捜査の見立てからほぼ排除されていた。
――だが、西住は「包丁からもう一つ、指紋が見つかった」という言葉に、明らかな動揺を見せた。
強い違和感を感じた拝島は、その内容を捜査本部長に報告するため、すぐに捜査本部に赴いた。
捜査本部では、本部長と副本部長が、数人の捜査員たちと今後の段取りについて相談していた。
本部長は、拝島に気づくと露骨に眉間に皺を寄せ、捜査員たちに目配せをした。それを合図に、副本部長と捜査員たちは立ち上がり、拝島と坂口の横を通り抜けるようにして部屋を出ていった。
「今度は、何だ」
三人だけになった室内に、本部長の声が響いた。本部長の口調には、明らかに苛立ちが含まれていた。拝島は、そんな本部長の心情を無視して、強い口調で主張した。
「自分は、協力者がいる可能性についてもう一度、もっと掘り下げて調べる必要があると思います」
続けて、虚偽の情報によって西住が明らかな動揺を見せた事実を伝えた。
だが、本部長の反応は冷たかった。大きく溜め息を吐くと、拝島を厳しい目で睨みつけた。
「協力者がいるのなら、そいつはなぜ、わざわざ西住の財布や指紋がついた包丁を現場に残したというんだ? それだけじゃない。もし協力者がいるのなら、そいつとの遣り取りなどの記録が残っていてもよさそうなものだが、そのような状況証拠も何一つ残っていない。お前も知っている通り、このような捜査結果から、協力者がいるという可能性は捜査の初期段階で早々に排除されたはずだ」
「それは、あくまでも行きずりの犯行という前提に立ったうえでの判断です。しかし、怨恨などを動機とする計画的な犯行だったとしたら、協力者の存在や現場に数々の証拠が残されていた理由を、合理的に説明できるかもしれません」
「具体的には、どのような内容だ。説明してもらおう」
拝島は瞬間、言葉に詰まり、身を固くした。
拝島の主張は、現時点ではあくまでも予感めいた漠然とした考えに過ぎず、はっきりとした形を成しているわけではなかった。
「それをはっきりとさせるために、調べ直すんです」
もっとも、事件から三週間以上がたってしまった以上、仮に「怨恨などを動機とする計画的な犯行」という見立てで犯行現場を調べ直したとしても、新たな証拠を見つけることは容易ではないだろう。
初動捜査の段階で行きずりの単独犯と判断したことが、心底、悔やまれた。
一方の本部長は、苦虫を噛み潰したような表情を崩さなかった。
「いいか。例えばの話だが……。銀行のATMで現金を下ろした後、車を法定速度の二倍くらいの速度で走らせ続け、然るべき場所でJRに乗り換えれば、三十分ほどで殺害現場に着くことも決して不可能ではない。西住の釈放後も、検証実験や付近の防犯カメラの映像の解析などを通じて、その可能性について確認を進めさせるつもりだ」
拝島は、思わず本部長を睨みつけると、強い口調で詰め寄った。
「決して空いているわけではない二十時過ぎの下道を、法定速度の二倍の速度で走らせ続ける。しかも、目的は金銭目当ての行きずりの強盗……。本当に、そんな馬鹿げた推測を信じているんですか?」
「あくまで、可能性の一つということだ」
有り得ない想定だった。
有り得ないのは、仮説だけではなかった。以前おこなわれた防犯カメラによるリレー捜査で、有力な証拠は見つからなかった。今さら、防犯カメラを確認し直したところで、新たな事実が浮かび上がるとは思えなかった。
「あるいは、事件現場となった飲み屋街の防犯カメラに映っていた人物は、たまたま映り込んだ無関係の人物で、西住はもっと遅い時間に、何らかの方法を使って防犯カメラに映らないように飲み屋街に出入りしたのかもしれん」
三台の防犯カメラの設置場所から考えて、カメラに映らずに飲み屋街に入るのがほぼ不可能であることも、周知の事実だった。
――捜査の方向性が、おかしくなっている。
本部長の態度の裏に「この事件を未解決事件では終わらせたくない」あるいは「昨年、県内で起こった誤認逮捕事件と同じ轍を踏みたくない」という焦りがあることは明らかだった。
――真相の究明よりも、県警の上層部や県民に対するアピールのほうが重要なのか。
そんな拝島の苛立ちを推し量るでもなく、本部長は続ける。
「そもそも『新たな第三者の指紋が見つかった』という虚偽の情報を伝え、そのときの容疑者の反応を観察しただと? そんな手法は取調べの正当性の観点から鑑みても、決して褒められたことではない。そんなことは、お前も知らないわけじゃないだろう」
本部長は眉を顰めると、拝島に向かって言い放った。
「まあ、よほど決定的な内容であれば、証拠として採用される可能性もゼロではない。しかし、お前が今、私に報告した情報は漠然とし過ぎていて、決して決定的な内容ではない。今は、取調べにも透明性が求められる時代なんだ。勝手なことは自重してもらいたい」
本部長が語る反論には、確かに一定の説得力があった。言い返す言葉を準備していなかった自分の迂闊さに気づいたが、手遅れだった。
拝島は、唇を噛み締めた。不快そうな表情で立ち上がった本部長が、拝島に背を向けた。
「アリバイを除くすべての証拠は、西住が犯人であることを示唆しているんだ。西住のアリバイには、きっと穴がある。その穴を見つけ、西住の犯行を立証するのが、私たちの役割だ」
そう言い残すと、本部長は会議室を出ていった。本部長が退出して二人きりになった会議室で、拝島は毒づいた。
「あんな奴がトップにいるようじゃ、この組織もお仕舞いだな」
坂口が、眉をハの字にし、困った表情で言った。
「まあ、ほかの人たちも、そのうちわかってくれるんじゃないでしょうか。少なくとも俺は、拝島さんのことを信じてますよ」
坂口が、戸惑いながらも同情してくれたのが、せめてもの救いだった。だが、同時に若造から救いの言葉をもらう自分に対する苛立ちも感じた。
拝島は、やり場のない怒りを振り払うように、壁を拳で殴りつけた。
――あのときも、そうだった。




