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西住の心臓が、ドクリと大きく波打った。
――事件はまだ終わっていない。いや、むしろ、これからなのだ。
脳がピリピリと痺れるような感覚に襲われた。
「いや、俺はそれでも構わない。気にしないでくれ」
身が引き締まる思いだった。
続けて、西住は小さく息を吐いた。坂口の抜け目のなさに感心するあまりの嘆息だった。
――コウは当初から、誰にも知られることなく、この事件の結末をずっと頭の中に描き続けていたのだ。
「コウは、立派な犯罪者になれそうだな」
思わず口を突いて出たのは、十数年前の事件のときと同じ言葉だった。すると、坂口は力強く言い放った。
「これは犯罪行為じゃない、正義のための行為だ」
その目は、自信に満ち溢れていた。
――そうだ。本当に悪いのは昭二おじさんと小室であって、ミサキはあくまでも被害者なのだ。
西住は、堂々たる坂口の後ろ姿に目を遣りながら、心に引っかかっていた疑問のうち、最後の一問を口にした。
「今回の件、ミサキにはどう伝えてあるんだ?」
「彼女には『小室は、会って話をしようと思っていた直前に、不幸な事故に遭って亡くなってしまった』と伝えておいたよ」
――よかった。
これでいいのだ。今回の件は、自分と坂口の胸の中に留めておけばいい。そして、美咲には今まで通り、素晴らしい作品を生み出し続けてもらえれば……。
――それだけで、俺は幸せだ。
「有り難う。助かったよ」
坂口は、軽く頷いた。いや、車の振動で、首が揺れただけだったのかもしれない。
だが、坂口の首の動きを見た西住は、肩の荷がすっと下りていくのを感じた。
「無罪放免になったとはいえ、さっきも話した通り、事件の捜査はまだ終わっていない。なので、ミサキとも俺とも、今後は連絡を取ろうとしないほうがいい。その代わり、ほとぼりが冷めたら、俺から連絡するよ。数ヵ月先か数年先かはわからないけどな。そのときはミサキと三人で、酒でも飲もう」
「そうだな」
一応、そう生返事をした。
しかし、そのような日が訪れることは決してないことを、西住は重々承知していた。
十数年前と今回の事件の真相は、三人だけの秘密として、墓場まで持っていかなければならない。したがって、これからの三人の人生に、接点があってはならないのだ。
美咲とも坂口とも、二度と会うつもりはなかった。
寂しさを感じないわけにはいかなかった。だが、その行為が美咲の幸せに繋がると考えると、嬉しくもあった。
自分が、救いようのないほどのお人好しだということは、よくわかっている。しかし、坂口のように自分の力で事態を打開する聡明さも、美咲のように光り輝く才能ももっていない西住には、こうすることしかできなかった。
いや、この際だから、うぬぼれ半分で言い換えてしまおう。
――これが、自分に託された大切な役割だったのだ。
西住は、そう自分に言い聞かせると、両の拳を固く握り締めた。
*
駅前に到着すると、西住は運転席に座ったままの坂口に向かって軽く頭を下げ、車を降りた。
言葉は、交わさなかった。
警察官と親しげにしている様子を周囲の人に見られるのはまずいというのが大きかったが、理由はそれだけではなかった。言葉を交わさないでも通じ合えているという安心感も、大きな理由の一つだった。
坂口も、同じ考えだったのだろう。前を向き、バックミラー越しに小さく頷いただけだった。
小さくなっていく車を見送り、駅の改札口を抜ける。階段を通ってホームに降り立つと、ちょうど到着していた電車に乗り込んだ。
そのまま一時間近く電車に揺られた西住は、最寄りの駅で降り、自宅へと続く道を歩いた。
ところどころ錆が浮いて、凹んでいるガードレール。
塗料が剥げかけた横断歩道。
アスファルトの割れ目から顔を覗かせている雑草。
苔むしたコンクリート塀。
見慣れていたはずの周囲の景色のすべてが、西住の目には新鮮に映った。
ほんの三週間ほど前まで、毎日のようにこの道を歩いていたという事実が、信じられなかった。
西住は、三週間というときの長さを実感しながら、歩を進めた。
自宅のアパートに到着すると、まず階段の横にある郵便受けに目が行った。
郵便受けには、郵便物やチラシが溢れ返っていた。一部は入り切れずに、地面に落ちていた。雨に濡れたのか、薄汚れてくしゃくしゃになっている郵便物もあった。
郵便受けの扉の部分には、黒い油性マジックで「人殺し!」と書かれていた。怒りと正義感に任せて書き殴った事実が一目でわかる、乱暴な文字だった。
――そういえば「SNSでの事件関連の情報拡散」について、確認するのを忘れたな。
坂口は喫茶店での打ち合わせ後、別れ際に「本人確認の必要がないプリペイド携帯を使ってSNSのアカウントを作成し、お前を糾弾するメッセージや警察の無能さを非難する書き込みを拡散させるつもりだ」と言っていた。捜査員たちの間に「西住を何としても送検する」という空気をつくり出すのが目的とのことだった。
先ほどの車の中で、本当にSNSに書き込んだのかふと気になったのだが、そのほかの情報量が多過ぎて、結局、確認するのを忘れてしまっていた。
だが、今、目の前にある郵便受けを見る限り、確認するまでもなさそうだった。
恐らく、メッセージは当初の予定通りに拡散され、それと呼応するように、インターネットで住所をはじめとする西住の個人情報が晒されたのだろう。
容易に想像がついた。
そして、一部の人は今も、釈放された西住を「何の罪もない善良な市民を殺めたにもかかわらず、まんまと社会に舞い戻ってきた極悪人」と信じ、糾弾しなければならないという正義感を持ち続けているに違いない。
それは、何もSNSやインターネットの向こう側にいる人々に限ったことではない。近隣住民やかつての知人などのなかにも、同じように思っている人が少なくないはずだ。
――いくらでも、俺を非難し続けるがいい。疑い続けるがいい。
そのような“見えない人々”による非難など、まったく気にならなかった。
――まだ、事件は終わっていない。
――俺には、まだやらなければならないことがある。
西住は郵便物を放置したまま、アパートの階段を上がった。




