18
美咲に頭を下げて会場を出た西住は、人気が少ない場所で何気なく本を開いた。本の見返しには、
西住雄太さんへ
堀池美咲
と、書かれていた。
少し丸みを帯びた、見慣れた文字だった。西住は、懐かしさにささやかな喜びを味わいながら、サインを眺めた。
と、サインの下に書かれた小さな文字に目が留まった。二人の名前とは関係のない、サイン本にはおよそ不似合いな一言だった。
外のカフェで待ってて
まるで、他人に見つからないように、こっそりと書いたような、遠慮がちな文字だった。
――どういうことだ?
西住は頭を捻った。
――俺との再会を喜んでくれている?
一瞬、嬉しく思いそうになったが、果たして単純に喜んでいいものかどうか判断に困り、もう一度、文字を眺める。
――冴えない身なりの俺を見て、心配になった?
――あるいは、二度と目の前に現れるなと言うつもりとか……?
さまざまな可能性が、頭の中に浮かんでは消えていく。
西住は悩みながら、建物の外に目を遣った。アメリカ発祥であることで知られる大手コーヒーチェーン店の看板が見えた。
たとえどんな内容であるにしても、美咲は西住と話をしたがっている。その願いを無下にするわけにはいかない。
気がつくと、足が勝手にその店に向かっていた。
店内に入った西住はアメリカンを注文すると、奥の目立たない席を選んで腰かけた。アメリカンのほかにも興味があるメニューがないではなかったが、商品名やサイズの複雑さに戸惑うあまり、ほかの商品を注文することはできなかった。
奥の席を選んだのは、自分がこの店に似合わないように思えて気後れしたのもあったし、美咲のためにも目立つ席は避けたほうがいいだろうという考えもあった。
ただ、席の位置に関係なく、数年ぶりに入るカフェは落ち着かなかった。
地に足がつかないような居心地の悪さを感じながらコーヒーに口をつけていると、入口から入ってくる美咲の姿が見えた。
慣れた様子で注文を終えた美咲は、横にあるカウンターで商品を受け取り、店内を見渡す。すぐに西住に気づいた様子で、無防備なほどの笑顔を浮かべながら歩み寄ってきた。
何の躊躇いもなく西住の向かいに座った美咲に向かって、西住は「久しぶり」と無表情を装って挨拶した後、素朴な疑問を口にした。
「いいのか?」
サイン会を終えてすぐに会場を離れて大丈夫なのかという意味もあったし、売れっ子の作家がこんなにもオープンな場所で冴えない男と会っていて大丈夫なのかという意味もあった。
「うん。『寄る場所があるので、今日はもう失礼します』って言ってきたから」
美咲は、屈託なく笑った。
こうして改めて近くで見ると、かつての美咲がいつも纏っていた翳りのような雰囲気は、すっかり影を潜めている気がした。
考えてみれは、お互いに疎遠になって、十数年の月日がたっているのだ。その間に、美咲はきっとさまざまなできごとを経験し、それらを通じて自分なりの強さを身につけてきたのだろう。
それが成長というものだ。
西住は、眩しい景色を見るような心持ちで、美咲を眺めた。尊敬と同時に、羨ましさに似た感情を覚えた。
美咲がすっかり変わった一方で、自分は何も変わっていない。いや、あの頃よりも駄目な人間になってしまったといってもいいのかもしれない。
何を話せばいいのかわからないままカップを口に近づけると、美咲がサイン会場のときと同じ言葉を口にした。
「懐かしいね」
「ああ、十数年ぶりかな」
「中学二年生のとき以来だから、十四年ぶりだよ。それにしても、会場で見かけたときは、びっくりしたなあ」
そう話すと、美咲は悪戯っぽく笑った。
「ひょっとして、私のファン?」
「そういうわけじゃないけど……。ミサキの本は、だいたい読んだよ。どれもいい話だった」
「有り難う」
本当に嬉しく思ってくれているようだった。西住も、嬉しくなった。
「実は、小説のなかにユウタ君も登場してるんだよ。知ってた?」
まったく気がついていなかった。西住は「いや」と言いながら、カップを持った手を止めた。
「『殺意の地平』に、幼馴染を助けるために奔走するユウキって子が登場するでしょ。あの子、ユウタ君がモデルなんだ」
美咲がカップを両手で包んだまま、遠くを見る目をした。
「私が運動会のリレーで転んで、うちのクラスの順位が下がったことがあったの、覚えてる? 小学校四年生のときだったかな。そのとき、ユウタ君は私をかばってくれた。『殺意の地平』のなかのユウキは、そのときのユウタ君のイメージ。勝手に登場させちゃって、ごめんね」
美咲は、西住がとうの昔に忘れてしまっていた思い出を、目を細めながら懐かしそうに語った。十数年も連絡を取り合っていなかったとは思えないほどの、ごく自然な話しぶりだった。
だが西住は、美咲の嬉しそうな表情の奥に何か陰のようなものが見え隠れしていることに、先ほどから気づいていた。それは、少女だった頃の美咲が常に纏っていた陰とは別種のものに思えた。
「何か、話したいことがあるんじゃないのか?」
西住は、試しにそう言葉をかけてみた。その言葉に、美咲の顔から、今までの、不自然なまでに弾けていた笑顔が消えた。
美咲は、こわばった表情を浮かべたかと思うと「相談したいことがあるの」と唇を噛んだ。
西住は、思わず息を飲んだ。
――余計なことを言ってしまっただろうか。
そう考えた。
気がつくと、今まで耳に流れ込んでいた周囲の喧騒は消えていた。
美咲は、小さく息を吐くと、意を決したように話しはじめた。
それは要約すると、おおよそ次のような内容だった。
*
美咲によると、父親である昭二は、死から七年後に失踪宣告が出され、死亡扱いになったとのことだった。そのとき、昭二の親族との関係は完全に切れた。そして二年後、美咲が作家デビューした直後に、母親の早苗は事故で亡くなった。
ところが、それから五年がたった先日、美咲の前に一人の男が現れた。
男は、美咲のサイン会で彼女の前に立つと、こう言ったという。
「お久しぶり」
最初、美咲はその男が誰なのか、わからなかった。
美咲が戸惑っていると、次の瞬間、目の前に立っている男の口から、驚くべき言葉が飛び出した。
「忘れたのかな? 俺だよ。小室幸一。今日は、十数年前のあの日の事件に関して、ちょっとばかり相談というか、取り引きしたいことがあって来たんだ」
小室の名を聞いた途端、あの日のできごとが昨日のことのように美咲の脳裏に蘇り、血の気が引いた。
美咲は、思わず腰を浮かせた。椅子の足が勢いよく床とぶつかる音が室内に響いたが、すぐに喧騒にかき消された。
小室は、美咲の激しい動揺を気に留めるでもなく、平然とした様子で一枚のメッセージを手渡した。
この会場の外にあるカフェで待ってる。
サイン会の後、美咲はどうするべきかもわからないまま、小室に指定された通りにカフェに向かった。ドアを入って落ち着きなく視線を彷徨わせていると、右側の奥まった席に小室の姿が見えた。
美咲は震える足でよろよろと小室に歩み寄り、向かいの席に座った。
小室は、血の気を失っている美咲の顔に自らの顔を近づけると、わざとらしい笑顔を浮かべながら、囁いた。
「来てくれて、有り難う。まあ、来ざるを得ないんだろうけどね」
距離の近さに、美咲は身を硬くした。




