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第七章
それは、事件が起こる二ヶ月ほど前の、ある日のことだった。
西住は、自宅の布団の上で目を覚ました。
――暑い。
カーテンの隙間から差し込んでくる日差しは、角度も強さも朝のそれとは明らかに異なっていた。
――今、何時だろう。
西住は、寝転がったままで右手を伸ばし、枕元に放置されていたスマートフォンを取り上げて時刻を確認する。
昼前だった。
昨日は、深夜までスマートフォンでゲームをしていて、そのまま寝落ちしてしまった。シャワーを浴びていないために体が汗で粘つき、着ているTシャツが纏わりついて気持ち悪い。
だが、シャワーを浴びるためには、起き上がらなければならない。体を目覚めさせる準備として、西住は横になったまま、床に転がっていたリモコンを拾い上げ、テレビのスイッチを入れた。
ちょうど、情報バラエティ番組のなかで、最近、新たに刊行された本を紹介するミニコーナーが放送されていた。ここで紹介された作品や作家は、必ずと言っていいほど、後に高い評価を得る。そんな先見性の高さや影響力の強さが、一部の本好きの間で評判を呼んでいるコーナーだった。
西住は、頭の中に靄がかかったような気分のまま、目だけをテレビのほうに向け、画面をぼんやりと眺めた。
新作を出したばかりの、若手の女性作家のインタビューらしかった。
作家の略歴が紹介される。今から五年ほど前の大学在学中に作家としてデビューして以来、ヒット作を連発し、最近は新進気鋭の若手作家として注目度が急速に高まっているという話だった。
目の前で、そんな褒め殺しのような紹介のされ方をして、恥ずかしく思ったりしないのだろうか。
――俺だったら、ご免だ。
どうでもいいことを考えながら眺めていると、インタビュアーがその作家の名前を口にした。
堀池美咲さんです。
――え?
遠い昔の記憶が、不意に蘇ってきた。心の奥底にある記憶の淵に、石ころを投げ入れられた感覚だった。小さな水面の盛り上がりが、円形の波となって水面に広がってゆく。
西住は、画面にアップになった女性作家の顔を凝視した。
間違いない。
当時よりもはるかに大人びた姿になっているものの、画面の向こうで微笑む顔は、“あの”ミサキにほかならなかった。
やや俯きながら、質問に対する答を慎重に考える仕草。一つ一つの言葉を確認するように、ゆっくりと丁寧に喋る語り口。口元を遠慮がちに、僅かに綻ばせる笑い方……。
何もかもが、あの頃とまったく変わっていない。
すべてが懐かしかった。
懐古の念に衝き動かされた西住は、番組のミニコーナーが終わると、すぐに本屋に走った。もちろん、美咲の新作を買うためだった。
駅前の書店に飛び込み、脇目も振らずに文芸コーナーに向かう。
久しぶりに入る書店だった。昔は、月に数冊ほどの本を読んでいた。が、大学を卒業してからは、気がつくとまったくと言っていいほど、本を読まなくなっていた。
インクと紙の匂いが、やけに懐かしく感じられる。
文芸コーナーでは、美咲の作品が何作も大量に平積みにされていた。
美咲がわずか数年の間に、こんなにも多くの作品を生み出していた事実に驚いた。同時に、そのことをまったく知らないでいた自分が、妙に恥ずかしく思えた。
西住は、決して多くない手持ちの金を注ぎ込んで、美咲の作品まとめ買いした。自宅に持ち帰ると袋から取り出し、早速、読みはじめる。
ある作品では、儚くも美しい男女の愛が、透明感のある筆致で描かれていた。ある作品では、再会した幼馴染が演劇の世界でライバルとして成長していく姿が力強く、かつ切なく表現されていた。
西住の記憶の中の美咲は、頼りなげでありながらも内面に確かな力強さを秘めている、不思議な女性だった。彼女の作品はいずれも、そんな美咲らしさに溢れているように思われた。
西住は、時間を忘れて美咲の作品を読み耽った。
数日後には、まとめ買いした数冊のうち、未読の作品は一冊だけになっていた。
西住は、最後の一冊を手に取った。『殺意の地平』というタイトルだった。
早速、ページを捲る。
主人公のユウキという少年が、理不尽な事件に巻き込まれて命の危険に晒されている幼馴染の女性を助ける物語だった。正義感に衝き動かされて行動するユウキの苦悩と葛藤を縦軸に、女性がユウキに抱く仄かな恋心を横軸に、胸が締めつけられるようなストーリーが織りなされていく。
美咲の作品のなかでは珍しい、ミステリー小説だった。
物語は「殺意は、連鎖する」という一言で締め括られていた。
読後の余韻に浸りながら、あとがきに目を通す。「初めてのミステリーに挑戦してみました」とあった。
西住は、『殺意の地平』を読み終わると、新しい作品を手に入れるために書店に走った。新たに購入した作品も読み終わると、以前に買った本を再び読み返した。
気がつくと、美咲の作品の虜になっていた。
*
美咲の作品を読むようになって、二ヶ月近くたったときのことだった。
西住はインターネットのニュースを通じ、電車で三十分ほど離れた町にある書店で、美咲のサイン会が開催されることを知った。西住は、期待に胸を膨らませてサイン会に参加した。
邪な動機などはなかった。眩いまでに輝いている今の美咲の姿を、ただこの目で直に確認してみたい。そして、陰ながら応援していこうという気持ちに揺らぎがないことを再確認しておきたい。思いは、それだけだった。
久々の遠出だったが、迷いや躊躇はなかった。
会場は、立錐の余地もないほどに混んでいた。さすが、超がつく売れっ子作家だけのことはある。慣れない混雑に居心地の悪さを感じながらも、西住は新刊を購入し、長蛇の列の最後尾に並んだ。
十分ほど待ち、人混みに対するアレルギーが臨界状態に達した頃、ようやく順番が回ってきた。
西住の目の前には、すっかり大人の女性らしくなった美咲が座っていた。
西住は緊張しながらも平静を装って、買ったばかりの本を差し出した。あくまでも一ファンとしての参加であり、美咲に素性を明かすつもりはなかった。
だが、その算段は美咲の一言で、いとも簡単に崩れた。
テーブルを挟んだ位置で西住から本を受け取った美咲は、本の表紙を開きながら「お名前は?」と口にした。
ここはサイン会の会場だ。本を差し出せば、為書きのために名前を聞かれることは当然と言えば当然だった。
だが、サイン会という催事に慣れていないことに加えて、美咲を前にして気持ちにゆとりをもてなくなっていた西住は、深く考えることもなく「西住雄太です」と、素直に答えてしまった。
その瞬間、美咲の手が止まった。彼女の大きな瞳が、目の前に立っている男を、ゆっくりと見上げる。
「ユウタ、君?」
美咲の顔が、ぱっと輝いた。太陽の光を浴びて咲くヒマワリのような、明るい笑顔だった。これほどまでに明るい美咲の笑顔を見たのは、卒業式の日におこなったプレゼント交換のとき以来かもしれない。
「懐かしい!」
戸惑いを隠すことができない西住は、美咲の言葉に対して「そうだね」と遠慮がちに答えるのがやっとだった。
そのとき、サイン会の関係者なのだろうか、隣に立つスーツ姿の男性が、小さく咳払いをした。その咳払いに、西住ははっとして、我に返った。目の前の美咲も、まったく同じ表情を見せていた。
そうだ。ここはサイン会の会場なのだ。友人との再会を喜ぶべき場ではない。何気なく振り返ると、自分の順番を心待ちにしている多くのファンの姿が見えた。
西住は、さっさと本を受け取ってこの場を離れようと、再び美咲に視線を移した。
美咲は、何事もなかったかのように見返しにペンを走らせると「有り難う」と言いながら本を閉じ、西住に手渡した。




