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第三章


 その日、俺はK市の中心部にある飲み屋街の入口に立っていた。

 飲み屋街とはいっても、駅前の国道から一本入った狭い路地に、ひなびた居酒屋やスナックが寄り添うように集まっているだけという、典型的な田舎の町の盛り場だった。

 二十時を過ぎて、数十分がたっていた。

 俺は、周囲に人がいなくなった頃合いを見計らって、着込んでいたグレーのコートの内ポケットから細長いものを取り出した。

 古びた万能包丁だった。

 手に持った包丁に目を落とし、手袋越しに握り心地を確かめる。指に力を込めたとき、包丁の刃先が微かに傾き、キラリと鈍い光を放った。

 俺は、周囲に人がいないことを再度、確認すると、握り締めた包丁を急いでコートの中に戻した。

 ふうと大きく息を吐いて、飲み屋街に足を踏み入れる。

 両脇の店から、酔っ払いたちの騒々しい笑い声が漏れ聞こえてきた。盛り場に特有の焦げた肉のような臭いとアルコール臭が、混ざり合いながら鼻の粘膜を刺激する。

 雰囲気に飲み込まれないように警戒しながら進むと、やがて飲み屋街の外れ近くまで来た。この辺りまで来ると、もともと店の数が少ないうえに閉店してしまった店も多く、人通りもほとんどない。

 俺は、前方にある、とある二棟のビルの方向に視線を向けた。二棟のビルの狭い隙間の前に、一人の男が立っていた。

 紛れもなく、小室幸一だった。

 幸一は、十数年という月日の分だけ、確実に年齢を重ねていた。だが、その顔には、あの事件が起こった当時の面影が確かに残っていた。

 俺は、幸一の体を細部まで観察する。

 寝癖がついたやや長めの髪の毛に、顔の下半分を覆う無精髭。撫で肩で、右足を僅かに引き摺っている。

 その表情からは、人間らしく生きるために必要不可欠であるはずの、覇気や意志が感じられない。それでいて、何かに執着している。幸一は、そんな捉えどころのない雰囲気を全身にまとった状態で、本当にポツリと、そこに立っていた。

 俺は、周囲をさりげなく見渡す。

 ほかに人気がないことを確認すると、幸一に声をかけた。

「久しぶり」

 声に顔を上げた幸一の表情が、見る見るうちに驚きと恐怖に歪んだ。

 右手でコートのポケットから包丁を取り出した俺は、幸一に近寄ると、骨ばった肩を左手でビルの隙間に向かって強く押した。

 幸一は「ひっ」と声を上げて身を翻したかと思うと、右足を引き摺りながら、慌ててビルの隙間に走り込んだ。

 ――無駄だ。

 俺は、呟きながら幸一を追う。

 幸一は、目の前にあった突き当りを右に曲がった。俺も、幸一を追って曲がり角を曲がる。その視線の先には、自分の前に立ちはだかった壁を見上げながら、茫然と立ち竦んでいる幸一の後ろ姿があった。

 俺は、包丁を持ち変えながら、着ていたコートを脱ぎ捨てた。

「諦めろ」

 包丁を構えた姿勢で告げると、逃げ場がないことを悟った幸一は、ゆっくりと振り向いた。絶望的な、実に人間臭い表情をしていた。

 俺は、幸一の表情を確かめながら一歩一歩、近づいていく。幸一まで五十センチほどまで近づいたところで、包丁の先端を彼の胸付近に向け、しっかりと身構える。そのまま速度を上げ、体当たりをしながら一気に突いた。

 ぶつかった勢いを利用して幸一の体を壁に押しつけ、全体重をかけていく。肋骨を削りながら、刃先が筋肉を切り裂いていく感触が、包丁の柄を通して手に伝わってきた。

 傷口から、生温かい血液が流れ出た。

 さらに力を加えながら、刃先をぐいと押し込むと、溢れ出る血液の量が急に増えた。おびただしい血液が、一定の間隔で規則正しく、ドクドクと溢れてくる。傷が、心臓に達した証拠だった。

 恐怖と痛みに見開かれた幸一の目が、徐々に光を失っていく。力なく開かれた口から、赤黒い液体が、ドロリと流れ落ちる。やがて、力を失った首がガクリと折れ、頸部の筋肉に支えられていた頭部が、不自然に曲がった。

 俺は、包丁から手を放す。幸一は、糸の切れた操り人形のように、地面に崩れ落ちた。無様な姿だった。念のため、首に手を当てる。すでに脈拍は感じられなくなっていた。

 俺は、ハンカチで手の血を拭うと、幸一のポケットに手を突っ込み、財布を抜き出した。

 一応、中身を確認する。入っていたのは、千円札が四枚と数百円分の小銭、それに小さなメモ用紙だった。紙には、十一桁の数字が書かれていた。

 財布を自分のポケットに入れた俺は、シャツについた血を隠すためにコートを再び羽織り、その場を後にした。

 もと来た道を戻り、路地に出る。道の両側からは、先ほどと変わらぬ喧騒が耳に流れ込んできた。換気扇から噴き出される油の臭いと煙が、全身にねっとりと纏わりつく。

 俺は、急ぎ足で飲み屋街を離れた。

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