第3話:寄らば大樹の陰
失語の女王エアリは、
天啓を受けたかのような神懸かり的な進撃で、
オークの国「オナラギ」を呑み込んでゆく。
一度は敗北の嘲笑を浴びるも、
直後の再奪還作戦で見せた非情なまでの最適解と、
敵さえも包摂する「法」の慈悲。
その人知を超えた采配に、
強者を尊ぶオークたちは抗いようのない天命を悟り、魂を屈服させた。
絶望の淵で「救い」という名の支配を与えた彼女を、
民はもはや一介の王ではなく、
地上の運命を司る『静謐なる裁定者』と仰ぎ始めた。
1. 乱立する小邦と「空白」の影
神がこの地を去る際、自らの手で創り出したのは四つの種族
――平人、ドワーフ、エルフ、そしてオークのみであった。
彼らは神の息吹を色濃く受け継ぐ「人族」であり、
その各々に都市と繁栄の礎が与えられた。
しかし、神の配慮が及ばぬ場所にも命は芽吹く。
それらは「亜人」と総称される多様な種族たちであった。
神に選ばれた四種族のような強固な結束を持たぬ彼らは、
荒野や密林に小規模な集落を作り、
あるいは中規模の国家を築いては、
互いに相争い、歴史の荒波に消えていく存在だった。
エルフの女王エアリが統治する帝国「ヘイス」が、
今まさにその「人族」の枠を超え、巨大な影を落とし始めていた。
オークの国オナラギを併呑し、急速にその版図を広げたヘイス。
かつての「人口不足」という最大の弱点は、
幾度もの苛烈な進撃とその果てに
絶対的な救済を示したエアリを
『天意の代行者』と仰ぐオークたちの狂信的な合流によって、
急速に埋まりつつあった。
だが、隣国であるドワーフの強国「レイリア」や周囲の諸国は、
依然として冷笑を隠さない。
「空白の誇り」――彼らはヘイスをそう蔑んだ。
その版図の内側には、女王を『天意の代行者』と仰ぐ一部のオークと、
利を求めて協力する者や
奪われた故郷への怨嗟を抱く者が混在する平人たちが、
危うい均衡を保ちながら共存している。
ただ一人の「言葉を持たぬ女王」が示す圧倒的な結果と、
冷徹な軍事力のみによって繋ぎ止められた歪な結束。
他国から見れば、それは種族を超えた絆も歴史も欠いた、
実体のない「空白」の上に築かれた砂上の楼閣に過ぎない。
エアリが手に入れた栄光は、
一皮剥けば内側から瓦解する幻であるというのが、
周辺諸国の抱く共通の侮りであった。
だが、彼らはまだ気づいていなかった。
女王がその「空白」のなかに、何ものにも屈さぬ、
純粋なまでの「不屈の誇り」を刻もうとしていることを。
その一見無謀な統治の果てに、
彼女は自らの帝国を瓦解させるほどの、
あまりに巨大な精神の輝きと衝突することになる。
2. ゲンブロードの焦燥
オークの小国家の一つ、「ゲンブロード国」の王、
ゲンドルフは、自国の地図を前に深い溜息をついていた。
彼らの近隣には、
同じオークの同族でありながら武力による統一を
目論む大勢力「レガッカッカ」の脅威が迫っている。
呑み込まれるのは時間の問題だった。
「レガッカッカに屈すれば、
我らはただの兵卒か奴隷だ。だが、ヘイスなら……」
ゲンドルフの脳裏に浮かぶのは、同じオークでありながら、
エルフの女王に「慈悲」を与えられ、
対等な民として受け入れられたオナラギの同胞たちの姿だった。
ヘイスは今、人口不足を補うために、
降伏したオークを積極的に取り込んでいる。
「寄らば大樹の陰」――ゲンドルフは決断した。
彼はまず、かつてより交流のある中規模国家、
アルマジロ亜人の国「ライトロード」に声をかけた。
ライトロードもまた、周辺の情勢不安に怯える国であり、
二国間の同盟はすぐに締結された。
しかし、それだけでは足りない。
ゲンドルフは、沈黙の女王エアリに謁見を申し入れた。
「我らゲンブロード、およびライトロードは、
女王陛下の偉大なる威光を仰ぎたい。
共に戦い、周辺の不穏な亜人国家を平定し、
この地に真の秩序をもたらしましょう」
謁見の間に現れたエアリは、一言も発しなかった。
彼女はただ、翡翠色の瞳でゲンドルフを射抜き、
手元の地図を指でなぞった。
言葉を持たぬ彼女の代わりに、傍らの通訳の官吏が告げる。
「陛下は、この三国同盟を認められた。
ただし、ヘイスは物資の提供を主とし、派兵は最小限に留める」
ゲンドルフは歓喜した。ヘイスの膨大な軍需物資と、
何より「エアリの同盟国」というブランドがあれば、周辺諸国を圧倒できる。
こうして、エルフ、オーク、アルマジロ亜人という奇妙な三国同盟が成立した。
3. ヒツジの国と「沈黙」の戦果
同盟軍が最初の標的としたのは、
豊かな牧草地を持つヒツジ亜人の国であった。
戦いは一方的だった。ヘイスから提供された最新鋭の弓と、
潤沢な食糧支援を受けたゲンブロードとライトロードの連合軍は、
怒涛の勢いでヒツジの国へと攻め込んだ。
この戦いにおいて、
ライトロードのアルマジロ戦士たちは目覚ましい活躍を見せた。
彼らの国は戦場となったヒツジの国と国境を接しており、
地の利を活かした迅速な進軍で首都を包囲したのである。
一方、ヘイスの軍は、後方からの物資搬入と、
少数の精鋭による戦線維持に徹した。
エアリ自身は前線に姿を見せたものの、先のことを見越してか、
かつての時のように前線で戦うことはなかった。
戦争が終わった後、ライトロードの王は厚顔にも主張した。
「我が軍が敵首都を落とし、最大の被害を出した。
この土地の八割は我がライトロードが領有するのが妥当であろう!」
これに対し、ゲンブロードの王ゲンドルフは激昂した。
「ふざけるな! 我らはヘイスの女王陛下と共に、
オークの同胞が正当な報いを受けるために戦ったのだ。陛下の御前であるぞ!」
ゲンドルフは縋るような視線をエアリに送った。
沈黙を貫く女王の代わりに、通訳がヘイスの判断を宣告する。
「……女王陛下のお言葉を伝えます。
『ヘイスは、友邦たるゲンブロードの窮地を救うべく馳せ参じた。
その目的は、敵軍の排除によって既に果たされている』……と」
ゲンドルフの顔が喜びに明るんだのも束の間、言葉は非情に続いた。
「『ゆえに、戦後の領土配分についてヘイスは関与しない。
血を流し、その地を占領した者が権利を主張するのは、
この地の峻厳たる摂理である。
――ゲンブロード王よ、貴国がライトロード以上の戦果を示せなかった、
ただそれだけのことではないか』」
エアリの視線は、もはやゲンドルフを見ていなかった。
彼女が示したのは「慈悲」ではなく、
「戦果を出せない弱者に、分け与える椅子などない」
という冷酷な実力主義だった。
ゲンドルフは戦慄した。彼女は助けに来てくれたのではない。
自分たちが「無能」であることを証明し、
ライトロードという野心的な国を盾として、
あるいは矛として、この地域に固定するために利用したのだ。
結果として、ゲンブロードが手に入れたのは
自国に隣接する小さな二つの村だけだった。
一方、ライトロードは一気に領土を拡大し、
中規模国家から大国への階段を駆けつつあった。
4. 瓦解する信頼と残された恐怖
戦争が終わった後、ゲンドルフの心に去来したのは、
勝利の喜びではなく、底知れぬ恐怖だった。
ライトロードは、元よりゲンプロードを下に見ている節があったが、
今ではそれを隠そうともしない。
そして、何より不気味なのはヘイスだ。
エアリは一兵も失わず、
ただ倉庫に眠っていた物資を放出しただけで、
この地域の勢力図を塗り替えた。
彼女はライトロードという「新たな大国」を創り出し、
同時にゲンブロードをその影響下に閉じ込めたのだ。
「このまま同盟に留まれば、
我らはヘイスとライトロード、二つの巨人に挟まれて窒息する……」
ゲンドルフは、命を守るために結んだはずの同盟が、
自国の首を絞める縄になっていることに気づいた。
彼は逃げるように「同盟からの脱退」を宣言した。
エアリはそれを止めることも、責めることもしなかった。
まるで、最初からそうなることが分かっていたかのように。
ただ、退出するゲンドルフの背中を見つめる彼女の肩が、
微かに、本当に微かに、力なく落とされるのを側近は見逃さなかった。
その一瞬の意気消沈した姿を目にした側近は、
胸を打たれるどころか、得体の知れない薄ら寒い予感に総毛立った。
(……陛下は今、この世界を完全に見限られたのではないか)
信じられるのは己の力と、冷徹な計算のみ。
慈悲すらも戦略として使い捨てる。
そんな暗い決意が、彼女の落胆の裏側で研ぎ澄まされていくのを感じたのだ。
この先に待つのは、温かな共生などではない。
血も涙もない徹底した『支配』の時代が幕を開ける
――その不吉な予感に、側近はただ、
静まり返った謁見の間で立ち尽くすしかなかった。
同盟は解消されず、
結果として「ヘイス」と「ライトロード」の二国同盟として
継続されることになった。
世界地図の端と端に位置するこの二国が手を結んだことで、
大陸の広範囲をカバーする軍事ラインが出来上がってしまったのである。
5. 非情なる女王の決断
この戦争の結果、女王エアリの名声は、かつてないほどに高まった。
「戦わずして勝ち、友を助けて恩を売る」
その高潔で強力な姿に、周囲の小国たちは色めき立った。
「ヘイスの庇護を受けたい」
「我らも同盟に加わり、あの慈悲深い女王に守ってもらおう」
連日、同盟の党首であるヘイスの王宮には、各国からの使者が列をなした。
彼らは「寄らば大樹の陰」を求め、エアリに忠誠を誓おうとしたのだ。
そんな甘い考えの国の使者が多い中、
オークの国、グローリー国のみは使者にしては王者のような風格を感じられ、
ただ一人、媚びるような笑みも期待の眼差しも浮かべてはいなかった。
彼は他の使者たちがエアリの「慈悲」を求めて喚き立てる声を背に、
深い溜息をついた。
その瞳に宿っていたのは、救済への渇望ではなく、
この先に待ち受ける「必然の破滅」を予見した者の、
冷徹なまでの諦念であった。
謁見の間に現れたエアリの表情は、氷のように冷たかった。
現れた女王に対して使者たちの嘆願がある中、
オークの国、グローリー国の使者は、
ただ一人、媚びることも嘆願することもなく、
直立不動で女王の瞳を凝視していた。
その使者が発したのは、同盟の打診ではなく、
「確認」であった。
「我らは問う。貴殿が求めるのは、
共に歩む『民』か、それともただの『駒』か、と」
「貴様、使者ごときが何を言う。
陛下に対して無礼だぞ!」
エアリは側近を制し、窓の外を見つめ、
心の中で冷徹な計算を完遂していた。
(……ゲンブロードを見ればわかる。弱者は、利益がある時だけすり寄り、
己が危うくなればすぐに背を向ける。
それに同盟国を増やせば、それだけ内部の摩擦が増える。
それはやがて、私の民を削る毒となる)
だが、エアリは眼前のグローリー国の使者にだけは、
他とは違う「何か」を感じ取っていた。
その背後に透けて見えるグローリー王の影
――死をも厭わぬ不屈の精神。
それは、今のヘイスが最も欠いている「魂の重み」であった。
(……ただ、グローリー国だけは例外だったかもしれない。
彼らのような揺るぎない誇りを持つ者をこそ、
対等な仲間として迎え入れるべきではないか)
一瞬、彼女の脳裏にそんな迷いがよぎった。もし彼らと手を取り合えば、
計算や利害を超えた、真に強固な「国」が生まれる可能性があった。
しかし、エアリはすぐにその思考を振り払った。
今の彼女は、すでに「神の采配」のごとき効率性を追求する怪物と化していたからだ。
感情や直感による例外を認めることは、
彼女が自らに課した「最適解」という法を汚すことに等しい。
ライトロードという、物理的に離れた位置にあり、
かつ領土欲の強い駒さえあれば、世界各地への派兵の拠点は確保できる。
それ以上の「弱者」を抱え込むことは、将来的な敵を育てることと同義だった。
「同盟への新規加入は、一切認めない」
使者たちは絶望に打ちひしがれた。
「これより先、ヘイスの意志に沿わぬ国は、全て排除の対象とする」
通訳の声が響き渡ると、謁見の間は静まり返った。
それは、慈悲の女王が、真の覇者へと変貌した瞬間だった。
使者たちは追い出され、
彼らの前には、ヘイスという「空白の誇り」を抱えた巨人と、
野心に燃えるライトロードという二つの影が立ちはだかることになった。
彼らは知らなかった。
エアリが拒絶した本当の理由は、
彼女が既に「次の、より大規模な塗り替え」を
見据えていたからだということを。
そして、この時エアリが冷徹に切り捨てた
「弱者」が別の地で、
真の意味での「空白の誇り」の引き金となることも、
まだ誰も知る由がなかった。
エアリは静かに玉座に座り、
戦火の消えぬ大陸の地図を、ただ無言で見つめ続けていた。




