原風景8
スマホもない時代に派遣のバイトに行った男がひどい目に遭う話です。
あれから寝坊の心配なく、朝早く起きる事が出来たが、あえて会社へは行かない事にした。これから戦うためには、入門書のようなものを一冊読んだだけでは、とても足りないと思ったからだ。
戦うといっても、会社に残りたい気持ちなどはすでになかった。居残ったところで、ただ居づらいだけだ。居残りに見合うほどの給料も、一回だってもらった覚えはない。
それよりも、今後いったい何が可能なのかを探し、そして仮に辞めるにしても、次の展開をも見据えて動けるような、そんな準備が必要だと思われてならなかったのだ。
自殺する予定など当面ないのだから、まず生き抜くこと。
それこそが大事だ。
会社に電話をかけるため、こまごまとした身支度をして気持ちを上げていきながら、外に出た。歯磨きや洗面のの行為ひとつひとつが、なにかの儀式のように思えた。
五万もする電話権など持っていないから、公衆電話からかけるしかなかった。ケータイなどまだ出始めで、貧乏人には高嶺の花だった。もっとも持っていたところで、かけてくる相手などはいなかったが。
アパートから数分歩くと公衆電話のある商店街が見える。とたん、心とは関係なく、いつもの日常的な風景だけがひろがる。その日常ぶりの明るさかげんに、急に圧迫感を覚えた。
気負い、もしくはこれから展開されるであろう戦いへの不安が、そう強く思わせるのだろう。
そんな理屈をむりやり頭に並べて弱気を押し切り、かぶりを振って目指す場所へ向かった。
電話は商店街に出てから右に曲がってすぐのたばこ屋の、カウンターのようなところに置いてあった。電話の前に立つと、カウンターの向こうでどこにでもいるミセスタバコ屋的な老婆が老人力で佇んでいた。タバコを買うので顔だけは知っていた。他は名前も素性も知りはしなかった。
タバコを買うのだと勘違いされないようカウンターからなるべく体をずらして受話器を上げ、硬貨を入れてボタンを押した。現場が忙しいのか発信音がしばらく続き、もう一回かけなおそうかというところで声が聞こえた。
「もしもし――」
声を聞きああ、事務のあの人だとわかる。とたん心が軽くなった。
もし権藤が出たらと思うと。
それだけが心配の種だった。権藤が出たら、朝の大事な時間を、出勤しろだけの押しで必ずつぶされ、しかもちょっとでも気を強く持てなければ言うままに流されて、そして無意味な一日が過ぎる。
今となっては、そんな時間がただもったいない。
どうせ今日休もうが休むまいが、クビは決定的なのだから、割り切って考えるべきだと思った。
欠勤の電話を無事終えると家に戻って朝食を食べ、時間を見計らって再度外へ出た。
図書館へ行くためだ。
続きます。




