2人だけ(2)
「ジャックはああ見えて信心深い。教会や寺院を巡るのが大好きなんだ。日曜日の朝はいつもザットルー寺院にいるぐらいだ。寂れた寺院だが、神聖な力があると密かに話題の寺院だぞ。その時計の話をしたら、きっとジャックは面白がる。だってその時計は、クリスによる危険が迫っていることを君に知らせる役目を果たしたんだろ?」
「えぇ。まあ、そうですが。それにしても、王太子つきの秘書官がそんなに信心深い?」
くすくすと笑いながら、私はテーブルの上に出した翡翠の石が埋め込まれた時計を眺めた。時計をそっと手に持って、しばらく眺めていた私は慣れた手つきで時計を腕にはめた。
――懐かしいわ。この感触をどこかで覚えている。
その瞬間だ。
ドン!
ギーィイィ!
耳をつんざくような轟音が鳴り響き、列車が激しい衝撃を受けて横転した。私に手を差し伸べたアルベルト王太子の手を、私も反射で掴んだ。私たちは互いに抱き合ったまま、横転して線路から脱線した列車の外に投げ出された。
悲鳴と怒号と泣き叫ぶ声がした。
列車から火が上がったように思ったが、私はアルベルト王太子と抱き合ったまま、気を失ったのだ。
***
目が覚めた時、私は病院のベッドにいた。
メイドのシャーロットは亡くなり、彼女と一緒のテーブルにいた秘書官のジャックも亡くなったのを知ったのは、3日後のことだった。
ソフィアとクリスが私の見舞いにやってきて、シャーロットが亡くなったことを私に教えたのだ。
「シャーロット!おぉ!」
私は叫んだ。
私が周りを見ても、裏切り者のクリスとソフィアしかいなかった。
輝くような笑顔を浮かべるクリスは、私に甘い言葉を囁き続けたが、私の心は死んだようになっていた。アルベルト王太子はまだ意識が戻らないと聞かされた。
大きな列車事故で621人もの死者が出たと聞かされた。新聞の号外が飛び交い、世間はてんやわんやの騒ぎになったようだ。食堂車にいて生き残ったのは、私とアルベルト王太子だけであり、アルベルト王太子も意識が戻らず、絶望的だと聞かされた。生き残った人の方がほんのわずかだったと聞かされた。
父と継母が私のところにたどり着いたのは、その2日後だった。
「フローラ!生きていてくれてありがとう!」
父は私を泣きながら抱きしめてくれた。
継母は父の視界から外れたところで、汚いものでも見るような目で私を見た。
「まぁ、これからが大変ですわ……。お世話も大変……」
私は車椅子で生活をせざるを得なくなっていた。
だが、クリスは私への変わらない愛を父に必死でアピールしていた。メイドのソフィアも輝くような笑顔を振り撒いていた。
クリスが私を愛していないのを知っている私は、何度か父に婚約をやめたいと切り出そうとしたが、その度にクリスやソフィアが邪魔をした。継母ですら、私の邪魔をしているように思えた。
「お父様……「伯爵!そういえばですね、今度……」」
「お父様、あの……「あなた?フローラの車椅子ですが……」」
「本当に、フローラが生きていてくれて良かった!僕はフローラを生涯愛し続けます。早く結婚したいと思っています」
――私が生きていて良かったのは、結婚して財産が自分に移るように画策してから殺すためよね?
私は何もかもわかっていた。車椅子生活になると、冷静に彼らのことがはっきりと見えた。
――ソフィアは隠れてクリスとよろしくやっているのね。
――確信できるわ。クリスは私と結婚したら、必ず私を殺すわね。
私は父とだけ話したいと伝えた。
だが、クリスと継母が食い下がり、なかなか父と2人きりにさせてもらえなかった。頭がまだクラクラするし、すぐに眠くなる私は、その日は父と会話ができなかった。
――お父様に婚約解消を伝えなければ。
夜、皆が帰った後でメイドのソフィアも帰り、私は窓の外をぼんやり見つめていた。
――アルベルト様はどうなったのかしら?
――同じ病棟にいるはずだわ。
私は動かない足を引きずり、必死で腕の力だけでなんとか車椅子に座った。部屋の隅に置いてあった箒の柄を使って腕で床を押し、ギリギリと車椅子の車輪を動かして部屋を出た。ゆっくりと廊下を進む。
――会いたい。アルベルト様に会いたいの。
翡翠の石が埋め込まれたあの時計を私はまだ腕つけていた。ドレスは脱がされて服は着替えさせられていたが、時計は外したくないと言い張ったのだ。
――本心を話せたアルベルト様に、どうしてもあって、もう一度話をしたい。
私は決死の思いで病棟の廊下を進み、ギシギシと音を立てて床が鳴るのも構わず、真夜中の病棟の廊下を車椅子に乗って箒の柄を使って進めた。
床を箒の柄で漕ぐように進む私は、半泣きだった。
1つだけ、護衛がついている病室があった。護衛は椅子の上でぐっすり眠っていた。
――きっとここだわ。
ドアをこっそり開けて中を覗き込んでみると、そこは豪華な病室だった。ベッドの中央に眠っているアルベルト王太子の顔が見えた。
――生きてらっしゃる!よかった!
そのまま車椅子を自力で移動させて、アルベルト王太子に近づいた。病室にはシャム猫がいた。
「ユーリー?」
私が猫に小さな声で囁くと、シャム猫が「ニヤオ」と小さな声で鳴いた。
「アルベルト様?ユーリーと一緒にあなたのそばにいます。お願いだから目を開けて。死なないで」
私はアルベルト王太子の耳元に口を近づけて囁いた。
その瞬間、ぴくりとアルベルト王太子が動いたように思った。
――あっ!動いた!
もう一度、耳元に口を近づけて囁いた。
「起きてくださいますか。あなたには死なないでほしいの」
アルベルト王太子の眉がわずかに顰められ、瞼がぴくりと動いた。
――もう一度!いいわよ!
「起きてくださいな」