逃げてね(2)
クリスが私を追ってくる確信があった。
――私は彼の金蔓だから、彼はそう簡単に私を手放さないかもしれない。手放すぐらいなら、また殺すのかもしれない。
怖すぎる考えに、恐怖が背中からゾワゾワと襲ってきて、慌てて首を振って怖い予想を振り払った。寮の部屋を素早く出て、馬車乗り場に向かった。
だが、呆気なく見つかってしまった。
「フローラぁ!」
私とシャーロットが馬車に乗ろうとした時、大声で名前を呼ばれた。振り返ると、手を振って輝かしいブロンドを風に靡かせて私に駆け寄ってくるクリスの姿が見えた。クリスの横には笑顔のソフィアがいた。
「フローラお嬢さまぁ?」
「あれ?フローラ、ちょっと待てよ!」
2人がこちらに向かって走ってくる。
「シャーロット、行くわよ!」
私は顔がこわばるのを抑えられず、小声でシャーロットに強めに言うと、慌てて馬車の中に乗り込んだ。シャーロットがもたもたしているので、彼女の手を急いで馬車の中に引っ張り上げた。
扉を閉めてくれた御者に小さな声で囁いた。
「ウォーターミー駅まで大至急お願い!あの男に決して追い付かれないでちょうだい!」
私の剣幕に御者は目を見開いたが、すぐに頷いて御者席に飛び乗り、馬車は走り始めた。
今の時代、最も乗客が多いとされる最寄りのウォーターミー駅まで行けば、クリスも私を見つけられないだろう。
「お嬢様、クリス様と何かございましたか?」
馬車の中でシャーロットは慌てて私に聞いてきたが、私は無言で首を小さく振り、鋭い目でシャーロットを見つめ返した。
シャーロットは目をしばたくと、小さくうなずいた。
「わかりました。クリス様にはお会いしたくないのですね」
シャーロットは私の気配で悟ってくれた。
「そうよ」
――今は逃げるのよ、あの最低男から。
私たちが乗った馬車は急発進したために、クリスが走って私たちの馬車まで追いつこうとしても、彼は間に合わなかった。後ろを振り替えると、クリスとソフィアが別の馬車に乗り込み、こちらの馬車を指差して御者に追うように言っている様子が見えた。
私は両手の拳を固く握りしめていた。
――追ってくる気ね。
私は恐怖にたじろぎ、まっすぐに前だけを見つめて唇を噛み締めた。
途端に涙が溢れてきて、ハンカチで顔を隠した。
胸が痛くて、切なくて、怖くて、悲しかった。
――私がバカなのだろうか。
――同じ男に今世でも騙されていた……。
私の父は最近再婚したのだ。そのことを私はすっかり忘れていたことに気づいた。
継母に嫌な顔をされるのではないかと今になって思ったが、どうしても父に会いたい気分だった。
継母のことは今は忘れたい。
――おかあさまは、きっと怖い顔で私を叱責なさるわ……。
ガトバン伯爵である優しい父のところに行くには、鉄道で数日かかる見込みだった。父の領地はエイトレンスにはないのだ。
今から駅に向かって列車に乗れば、夜になるまでに父の領地にいくらかは近づけるはずだ。それだけを私は心の支えに感じていた。
いつも私を睨むように見る継母は、私が未来のオズボーン公爵と婚約破棄すると言えば、一体どんな顔をするのだろう。
私は泣きながらため息をついた。
「お父様のところに帰るわ」
「フローラお嬢様……わかりました。どこまでもシャーロットはついていきますから!」
シャーロットも泣き始めた。彼女の丸いほっぺは涙で濡れていて、いつも無邪気に微笑んでいる口元は細かく震えていた。
「もらい泣きしなくていいのよ。シャーロットには関係ないことだから」
シャーロットは私の言葉を聞いてもまだ泣き止まなかった。私の涙が止まらないからだ。
私は自分が着ている美しいサテン生地のドレスを見つめた。ガトバン伯爵令嬢としては幸せな人生を送るはずだった。それなのに、クズな男につかまっていたのがはっきりした。
――婚約解消するのよ。お父様に相談してすぐにでも婚約破棄してもらおう。
喜びに乱れるソフィアを抱きしめていたクリスの姿を頭から振り払おうとした。
――前世で最後に味わった深い闇が、私をまた飲み込もうとしているの?
――そうはさせないわ。クリスの思うようには今度は決してさせないから!




