逃げてね(1)
――なぜ……!?一体なんなの?
今蘇った前世の記憶の中で私を殺した恋人クリス……私のメイドと愛を囁き合おうとしている私の恋人であるはずのクリス・オズボーンの顔はそっくりだった。
私は身慄いして後ずさった。
――私は前世でも裏切り者のクリスを恋人だと思っていて、今世でも同じクリスを恋人だと思って浮かれていたということなの?
――これは二度目の裏切りなのね?
体が震えてきた。怖い。
「愛している」
「私もですわ……だーいすき、クリスさま」
メイドのソフィアに甘く囁くクリスの表情は私が見たこともないほど艶っぽくて、透き通った瞳は情欲に溢れていた。彼は夢中でメイドに何度も熱烈な口付けをしていた。
「あぁ、素敵……」
メイドは躊躇いもなくクリスの愛を一身に受け止めて、私が見たこともないような恍惚の表情をしていた。2人の裏切りを物語っていた。
「今日は一段と綺麗だよ」
「嬉しい……クリスさまも素敵すぎてわたし……」
私は影から2人の様子を見た衝撃で、溢れる涙を抑えることができなかった。
ソフィアと私の恋人であるクリスが、一体いつから私を裏切っていたのかは分からない。だが、2人の親密な様子はこれが初めてではないと直感的に分かるものだった。
「俺は君だけを……ソフィアだけを愛しているんだ。親が決めたあんな小娘なんて愛せるものか」
親が決めた小娘とは私のことだ。
――親が決めたって何よ……クリスから私に近づいてきたんじゃない……私のことを追ってきたくせ……に!?
暗澹とした気持ちで奈落の底に突き落とされたようだった。私はクリスに騙されていたのだ。
不意にさっき思い出した前世の記憶がよぎった。
――お金?
――もしかしてクリスは私のお金が狙いだっただけなの?
――そういえば、オズボーン公爵家の資産を執事のテッドが調べてお父様に報告していたわ。
オズボーン公爵家の資産状況は苦しかったはずだ。今、前世の記憶を取り戻した私ははっきりとクリスの狙いを悟った。
クリス・オズボーンはお金のために私に近づいたのかもしれない。ガトバン伯爵の一人娘である私が相続する遺産は、国内第二位の資産であり、王家の資産を遥かに凌ぐのだから。
――私が裕福な女相続人だから、クリスに狙われたということなのね……。
「あいつは金だけ。あんなやつを相手にできるわけないだろう?俺は君を愛しているんだ。君は最高だ。あいつには情熱をかきたてられない。ぜっんぜん無理」
クリスはロマンチックな愛の言葉を囁いているようだが、隠れて聞いている私には地獄からの悪魔の言葉のように聞こえた。私とクリスは親密なことはまだしていなかった。
――彼の言う『あいつ』は私のことだわ。
私は唇を噛み締めて、震える手で扉をそっと閉めようとした。
「でもフローラお嬢様は……クリスさまにぞっこんですわ」
「やめてくれよ。アイツのことは今は忘れたい。素敵な君を前に考えたくもないんだから……ほら……君は俺のことだけを見ていて……俺は君の素敵な姿だけを俺の瞳に映したい」
「嬉しい」
「俺にはソフィアしか見えないんだ。フローラなんて冗談じゃない。相手にしてないのに、勝手に舞い上がってウザいったらありゃしない」
「ふふっ。ねぇ、もう一度言って」
「何度でも言うさ。俺にはソフィアしか見えない。フローラなんてごめんだ。あいつは金づるでしかない。可愛いぃな、ソフィア」
私はいちゃつく2人に吐き気がしたが、目をしばたいて涙を振り払い、視界をクリアにしようとした。
――ダメ。フローラ、すぐにここから逃げなきゃ……。
――前世で私はクリスの真実を悟ったときにクリスに殺されたのよ。
少しずつやらなければならない事に意識が戻り始めて、私は2人のいる場所から離れ始めた。
――クリスはまだ私が気づいたことを知らない。そうよ、今のうちに……逃げなきゃ。
――待って……。もしかして、ここで私が何もかも悟ったことがバレたら、クリスはこの塔から私を突き落として、私が勝手に落ちたことにされる……!?
ゾッとする考えが不意に頭に浮かんで慌てた。
最近よくソフィアが姿を消すのでこっそり後をつけてきたら、聖ケスナータリマーガレット第一女子学院の敷地内の教会の塔の中で、ソフィアと私の恋人であるクリスが密会をしている現場に遭遇してしまったのだ。
クリスはこの後、何食わぬ顔をして私を訪ねてくるだろう。いつものように「サプライズだ」と私を驚かせるつもりだろう。
彼の手のうちを予測した私は、ますます惨めで気分が悪くなった。
よろよろと塔を出た私は、教会の敷地を抜けたところで待っていてくれていたもう1人のメイドの姿を見つけてホッとした。
もう一人のメイドのシャーロットは少し変わっている。だが、何となくだが、彼女はおそらく私を裏切らないだろうという妙な安堵感をくれるメイドだ。シャーロットは食べ物に目がなく、いつでも隙があれば口に何かを放り込んで食べているが、全然太らなかった。
シャーロットは、のんびりと口をもぐもぐさせながら私を待っていた。彼女の大らかな振る舞いを私は嫌いじゃなかった。
今も、悲しみと恐怖でどうにかなりそうな私はシャーロットの姿で我に返ることができた。
「お嬢様、申し訳ねえです。おやつに持ってきていたイチゴを少し食べてしまったです」
ほっぺを丸く膨らませて憎めない顔をしたシャーロットはバツが悪そうな表情で私に謝った。だがすぐに私の様子を心配そうに見つめた。
「お嬢様は具合が悪いですか?」
私の腕をそっと支えて、シャーロットはうつむいている私の顔をのぞき込んだ。
「シャーロット、ここからすぐに逃げるわよ」
私はそれだけ小さな声で囁いて、寮の部屋めがけて走り始めた。
時は春で、まもなく社交シーズンの幕開けが新聞に大々的に発表されるだろう。私の心とは裏腹に他の娘たちには幸福が訪れているようだった。
華やかな賑わいに溢れている聖ケスナータリマーガレット第一女子学院の学内の敷地には花が咲き誇っていた。黄色い水仙の花、淡いピンクの桜、マグノリアの花、チューリップ、ミモザ……。
――私だけ、どん底の気分だ。
テニスやクリケット、自転車乗りで鍛えた体力を武器に、伯爵令嬢らしからぬスピードで私は寮まで駆け戻った。
時は1879年。ヴィクトリア女王の治世下で輝かしい発展を遂げるイングランドからは少し距離のあるエイトレンスで、私の失恋は確定した。
18歳の伯爵令嬢だが、今は大失恋のショックよりも命の危機に怯えていた。
「シャーロット、泊まりがけの準備をお願い!」
豪華なロビーを駆け抜けながら、私は後ろを振り替えって、後を必死に追いかけてきてくれているシャーロットに叫んだ。シャーロットは口の中のモノを飲み込み、走りながら真剣な表情でうなずいた。
部屋に戻り、クローゼットからトランクを取り出すと、入るだけの下着とドレスを投げ込んだ。貴金属とお金もだ。流行の帽子を被り、手袋をした。その時死に物狂いの形相で後を追ってきたシャーロットが部屋に飛び込んできた。メイド用の部屋に立ち寄り、自分の荷物はまとめてきたらしい。
ぜいぜいと息を荒くしながら、シャーロットは私がトランクに色々詰め込むのを手伝った。
「行くわよ、シャーロット!」
「はいぃ!お嬢様!」
ウェブリー製のリボルバーをそっとドレスの下に入れたことを私はシャーロットに気づかれていない。
――なぜ私が銃にこれほどまでに興味が惹かれるのか、今やっとわかったわ。
私はトランクの錠前をかっちりと閉めると、シャーロットに微笑んだ。
――前世で恋人に銃で殺されたから。
前世で銃の扱いに長けていたのも関係しているだろう。
――私は今度は絶対に殺されないわ。少なくとも、クリスには……!