修羅場(2)
私は声も出せずに、そのまま立ち尽くすしかなかった。目を逸らすことも叶わず、真っ青な顔で今にも倒れ込みそうだった。
――気持ち悪い。
次の瞬間の言葉が、私の体のしめつけを解いた。
「列車事故が……だからさっソフィアも俺ももうしばらくの我慢……」
――なんですって!?
――今、クリスは『列車事故』と言ったわよね?
私の体は途端に金縛りが解けたように、スムーズに動いた。隠し持っていた銃を素早く取り出して、ぴたりとクリスの頭につけた。
前世でやりたかったことだ。
私はフローラ・ガトバン伯爵令嬢になる前、おばあちゃんの遺産を取られて、恋人のクリスにダンジョンで殺された18歳の女性だった。
――今回は失敗しないわ。
私を見たクリスは衝撃のあまりに固まったが、すぐに否定を始めた。
「なっ……フローラ!これは違うんだっ……違う違う違う……間違いだっ!」
焦ったクリスは叫んで、ソフィアの体から転がるように離れた。しかし、次の瞬間、クリスは私の首に手をかけてきた。
「お前に銃なんて使えないだろ?無理するなよ。死ぬ前に俺にひざまずくか?伯爵令嬢は公爵家にはひざまずけよ」
クリスは私の首にかけた手を緩めて私の頭を床に抑えつけようとしてきた。
――いやっ!殺されるっ!
「俺にしがみつくのはやめろ。さっさと俺にひざまずけ。お前とは相容れないんだよ」
クリスはもがく私の頭を抑えつけた。
――最低っ!
私は銃口をクリスの頭に固定した。
――いやっ!
「クリス!そこまでだ!」
アルベルト王太子が氷の貴公子然として私の隣に素早く立ち、クリスを私から引き離した。彼の腕をはがいじめにして、クリスが苦悶の絶叫の声をあげた。
「肩の関節を外しただけだ。ガトバン伯爵、婚約破棄は確定でいいですね?」
「あぁ、君には失望したよ。ソフィアもクビだ。2人とも出ていけっ!今後一切私たちに関わるな」
父であるガトバン伯爵は、胸のあたりを抑えていた。継母も一緒にいたが、彼女の表情は私には読めなかった。
――先に私が行って、2人をやめさせてからお父様をお呼びするはずだったのに……。
――情けないことに、私が、2人を前にして動けなくなったから、止めるのが間に合わず、お父様にとんでもない所を見せてしまった……。
私は気持ち悪さと情けなさでフラフラだった。
「これから起きる列車事故のことをクリスが知っていることは確実だな。捕まえて牢にぶち込んでおく。尋問はこちらでする」
アルベルト王太子が私にそっと囁いて私の体を抱きしめてくれた。
「ガトバン伯爵、お嬢様のことは私にお任せください」
どんな意味でアルベルト王太子がそれを父に言っているのか分からなかったが、父と継母はハッとした表情でアルベルト王太子を見つめた。
私にはよく考える気力が残っていなかった。
アルベルト王太子が父にしっかりと頷き、「お嬢様をお守りします」と耳打ちした声が私にも聞こえた。
「おぉっ」
父は安堵の表情を浮かべて私を見たが、私は気持ち悪さで立っていることもままならず、よろよろと塔を出て行った。
クリスが王家のお付きの者たちにひっ捕えられて連れて行かれるのを見た。
アルベルト王太子に抱き抱えられた私は、来た時に乗ってきた王家の馬車にそっと乗せられた。
「シャーロット、ジャックと一緒についてきてくれ」
「分かりました!」
アルベルト王太子は外で待たされていたシャーロットにそう言うと、ジャックに目配せをして馬車を出発させた。
馬車の中で、アルベルト王太子は私に静かな声でさとすように言ってくれた。
「フローラ、大変な目にあったな。だが、少なくとも俺がついているぞ」
私は目をつぶったまま、辛さのあまりにとんでもない事を口走ってしまった。
「浮気常習犯の氷の貴公子のあなたには、私のショックなどわかりませんから……」
そうなのだ。私はあまりに自分に余裕がないがあまりに、とんでもない言葉を口走ってしまった。
一瞬の間があり、アルベルト王太子が私の足元にひざまずいた。
彼は真剣な眼差しで私を見上げている。
「聞いてほしい。俺は二度と浮気をしない。誓う。反省して、心を入れ替えたんだ。愛する人しかキスもしない。これは本当だよ。だから、俺が君のそばにいることを許して欲しい。君を慰めて助けたいんだ」
彫刻のような美貌のアルベルト王太子は、ブルーの瞳に後悔の念をにじませて、私に懇願した。
彼が謝るべき相手は私ではない。
「ブランドン公爵令嬢には今の言葉は届きませんよ……私に言ってもあなたの最愛の人には届きませんから。謝っても遅いですから……あなたの最愛の人は、とっくに人妻ですから」
私のへらず口は止まらなかった。
アルベルト王太子に文句を言ったところで何も変わらないのに、私は彼に八つ当たりをした。
――なぜ浮気をするの?
――あぁ、そうか。クリスは特に私を愛してもいなかったんだった。じゃあ、浮気とも言えないのか。私が騙されていただけだからか。バカな私……。
勝手に八つ当たりをして、勝手にぐるぐる考えていた私は、どうにもならない感情に襲われて、ひどく疲れた。
私は泣き始めた。
「おいで」
私はアルベルト王太子の温かい胸に抱きよせられた。私は涙を流し続けた。
アルベルト王太子が私の手にハンカチが握らせてくれて、私はそれで涙を拭いた。
「気が済むまで泣いていいよ。よく頑張った。フローラ。今度の修羅場は乗り切ったぞ。婚約破棄は確定だ。証人がたくさんいるんだ。クリスが何を言おうと、あいつは牢にぶち込んだから、君に何もできない」
アルベルト王太子そう言われて、私の気持ちは少しずつ落ち着き始めた。
私は馬車の窓を開けてもらった。
あたりはすっかり夕暮れになっていた。馬車の中から、黄昏の春の景色を眺めながら、アルベルト王太子の胸に私は寄りかかった。
――この人のそばにいると安心できる。




