凧あげの準備
地平線の奥から光がさしこむ頃、まだ早朝だというのにそれは上がった。
一人、ここに男がいる。
男はところどころに濁った汚れの目立つシャツをだらしなく着くずし、下には青色、とは言ったもののこの辺で想像するのはきっと夏の浜辺のような澄んだ海の色だろう。
しかし、実際のそれは青、というよりかは黒がたまたまそんな風に見えている。といった具合の色合いだ。そういう色の半ズボンを紐を垂らしてはいている。
そういう男がの河原の土手でただそれとなく立っている。
「聞いたかい」
「いいや聞いてない」
「商店街の加山のな旦那のほうが逝ったらしい」
「それはそうかい」
「そうなんだ」
土手の道には女が通った。どちらの方も主婦のようで、長ネギ飛び出た袋の入った自転車の籠、それを押しながら横に並んで談話していた。
人が死んだらしい、それもあの加山の人が。
「それで、上げたのかい」
さっきの聞き手がきいた。
「ああ、上げたらしい」
「それはそうかい」
「上がるといいね」
「上がってるだろう」
女は男を気に留めず通っていった。
「上がったんだ」
男の口から一言こぼれた。
土手の上。見晴らしがいいと聞かれれば頭をかくが悪くはない。現に見えはしている。旦那の凧が。
加山の方の女房だが、夫の方が逝ってから三日三晩は泣いていた。細かく言うなら二日籠もって三日目の朝、縄を買おうと隣のお宅へ向かってみたが
「草男の分まで生きておくれよ」
と、隣の夫婦に言われたもんでどうしようもなくなり、また籠もってその晩泣いていた。
今日というのは四日目の正午だ。
加山の方の女房は目の下に痣みたいのができていて、少々豊かであった体の方も、なんとなしに痩せて見えた。
それで飯を食っていたのだが、箸のやつを震わせながら白米を一粒一粒のっそり運んで口にして、口にしたら飲み込んで、それが終わったらまた運ぶ。なんてやっているもんだから到底元気に見えはしない。
それでも親戚共は久し振りに顔を見ることができたので内心ほっこりしながら、女房に話を振った。
「草男さんは残念だったね」
「、、そうですね」
「優しい男だったからのお」
「、、そうですね」
「五日も前はあんな具合だったのに」
「、、そうですね」
「急なことだったからね」
「、、ええ本当に」
「あんたも大変だのお」
「、、ええ」
「本当、急に死んじゃったからね」
「、、はい」
箸がもたついた、つまんでいた白米一粒机に垂れた。
「…ごめんね、草男さんの話は辛いだろうけど、これからのこともあるし、話させてちょうだいね」
「、、、いえ」
垂れた白米を箸でつまんで口にした。咀嚼の音はしないのだからしてないのだろう。口を開けたら白米がなくなっている。箸はまた茶碗に。
「…それでね、来週、上げようと思うの」
親戚の一人が切り出した。また箸がもたついた。今度はつまんでなかったので垂れなかった。垂れなかったがもたついた。
「、、そう、ですよね、すっかり、忘れておりました」
もたついた箸を、茶碗を、机に休めて手を膝にかけた。女房の声は静かながらも鈴虫の声のようにはっきりと聞き取れる。だからこそ、こんな時にも周りに気を使っているとわかってしまう。
親戚の一人が顔をしかめた。
親戚の人が口を開いた。
「仕方ないわよ、あんなことがあったんだもの。
でも、上げないと逝けないからね、草男さん」
「、、はい」
やはり女房ははにかんでみせる。机の下では硬くなる拳を膝にのせている。
「草男も、上げてやればまた会えるからのお。上げておいてやらんとのお」
「、、また。また会えるんですもんね。また。」
親戚の人が苦い顔をした。
女房の拳がいっそう硬くなったように感じた。
「…なんにしても上げないとね」
「、、、そうですね」
「それじゃあ…まだ心の整理がついてないと思うんだけど、早いうちに上げてあげたほうがいいと思うから。心苦しいと思うんだけど教えてちょうだいね。草男さんの好きな色ってなんだったかしら」
「、、青、です」
「青、ね、わかったわ。下地は青色にしましょう。絵は何にしましょうかね」
一つ間をおいてから親戚の一人がメモを取り出した。
ペンの上をカチッと鳴らし、青と書く。それだけのことが女房の下瞼に刺激を与えた。そして、目についた埃を払うように指でそこをなぞり、さっきよりも霞んだ声で女房がこぼした。
「うちは八百屋ですが、あの人はたまに魚を売っておりました。その魚がこれまた絶品だったようで、町の人から大の人気でした。ですから、皆さんにあの人の凧だと知ってもらうなら、魚の絵のほうが良いかと思います。」
鼻をすする声とひゃっくりで途切れ途切れであったものの女房はこんな風に提案をした。親戚も同意した。
「ありがとうね。魚の絵なのね。とってもいいわ、きっと街の人達も草男さんの凧だって分かってくれるわ。それで、どんな魚の絵がいいかしら」
親戚の人が優しく女房に聞いてみた。女房はその優しさに肩を寄せながら答えた。
「黒鯛がいいです。あの人が売っていたのは、釣り仲間と釣ってきた黒鯛でしたから。」
凧に黒鯛の絵がつく。そうしたら黒鯛はゆうゆうと天に登って行き、空を泳ぎ始めるだろう。そうすれば加山の夫の方も黒鯛にまたがって天まで連れて行ってもらえるかもしれない。とは、女房が先の話をした後に考えたことだ。だが、自分としては黒鯛はチヌとも呼ばれていて、なんだかシヌのようで縁起が悪いような気もするんだが、考えすぎなのだろうか。
どちらにしても凧の色と絵が決まった。あと必要なのは和紙と骨と紐と、凧を作る部位が色々とあるがそこは親戚が諸々決めてくれるという。なのであと必要なものはない。ない。普通はないがここではある、もう一つだけ遺族、女房が揃えなくてはならないものがある。それというのは、亡くなった者の形見である。
「、、あの」
「どうしたの」
「、、夫の、形見なのですが、」
川の土手の上、野球部らしい集団が草野球をしているのが見える。自転車を漕いでおそらく子供のもとへ帰るのであろう主婦らしい者が見える。言葉の交わせぬ存在を愛犬と呼び、微笑みながら揃って散歩をする者が見える。その向こうに橋が見える。その向こうには
、陽炎とともに揺れる一つの人影が見える。
「あ」
その人影に男は近づいた。
人影はやはりというか、それはそうなんだが人間で、自分より大きな男であった。男は物惜しそうにじーっと遠くを眺めている。あまり遠いのか目を細めすぎて力士のようになっている。そんな男に青い半ズボンの方の男が話しかけた。
「はじめまして。っていうのも変ですか、草男さん」
話しかけられた草男は男に振り返った。
眠たいので今日はここまでにしておきます。