その7
確かに人は、咄嗟に思わぬ行動をとってしまうことはある。けれどその行動には当人の心理が影響している。
「マナはトモの友だちだよね?」
初めに逃げ込んだ教室から逃げる際にマナは、当然のようにトモの手を引いて逃げた。友だちであるトモと共に生き残ろうと。だが。
――サツキ、今のうち!――
颯希にそう言った時のトモは笑っていた。
「……友だちを盾にするなんて」
「ウチら友だちだから」
トモは汗で額に張り付く髪をかき上げながら、口角を上げる。
「マナはウチを、身を挺して助けてくれたんだよ」
「……!」
トモの言葉に背筋が凍り付いた。
『サツキ、ウチと友だちになろ?』
そう言って指を絡めてきたトモ。ホルマリン標本の虫が動き出した時、彼女が自分を盾にしたことも颯希は思い出した。
(生物室でのマナとのやり取りも、まるで姫と家来のようだった。トモにとって、友だちって言うのは……)
ポーン……
突如、ピアノの音が一つ響いた。背後のピアノをふり返る。白々とした鍵盤が、薄明りの中青く光っていた。
「蓋……、さっき閉まってたよね?」
「……ウチ、覚えてない」
「……」
閉じようと颯希が蓋に手を伸ばした時だった。自動演奏ピアノのように鍵盤が動き出した。
「えっ、なっ……」
流れ出したのはどこかの校歌のような旋律。続けて、がなり立てるような声が音楽室に轟いた。
『輝ける 理想いだきて いざ歩まん 我らが道を』
(なにこれ!? メロディーも何もあったもんじゃない!)
ビリビリと空気が揺れる。颯希は両耳をふさいでしゃがみこんだ。耳を覆った手を通り抜け、歌声は鼓膜に突き刺さってくる。声を限界まで張り上げた叫び。おそらく歌なのだろうが、酷く耳障りなしゃがれ声がただただ続くばかり。
(耳が痛い、うるさい! 鼓膜が破けそう……!)
颯希がそう思った時、音楽室の扉が閉まる音がかすかに聞こえた。
(え?)
横を見るとトモがいない。どうやら音楽室から逃げ出したようだ。颯希も耳を抑えたまま、音楽室を後にする。
「トモ!」
階段を駆け下りようとしていたトモに追いつき、颯希は声をかける。呼びかけにびくりと肩を震わせ、トモはおずおずと振り返った。
「……」
その顔は紙のように真っ白で、唇が微かに震えている。
「あの、ト……」
「イケベ!!」
「!」
(また、イケベって……)
「もうやだ! あのブス、陰湿なんだよ!!」
「ねぇ、教えて。イケベって……」
「うるさい! もうやだ! やだやだぁ!!」
触れようとする颯希の手を激しく打擲し、トモは栗色の髪を振り乱した。
「答えて、トモ! イケベって誰なの? どういう人?」
「うるさい! 言うな! 黙れ!!」
「トモ、落ち着いて教えて! その名前って、さっき生物室で落ちてきた……」
コツ……コツ……
「っ!!」
階段を上ってくる足音に気づき、2人は息を飲んだ。
「……誰? 犬?」
「わからない、でも……」
ここから離れた方がいい。そう考え一歩踏み出そうとした2人だったが、判断が一瞬遅かった。血腥いにおいを漂わせた人影が、暗がりの中にぬっと現れる。ぺたりぺたりと足音を立てながら、一段ずつ階段を上がってきた。
「……ひっ!」
歯をガチガチ震わせながらトモがその場にへたり込む。こちらに向かってくる人物が、か細い声を発した。
「トモ、ちゃん?」