その3
トモの言葉に颯希とマナは息を飲む。口を閉じ、耳をそばだてた。
キシッ……キシッ……キシッ……
(足音……!)
「やだぁ、来た……!」
「シッ、声立てないで!」
足音は徐々に迫ってくる。やがて廊下と教室を隔てるすりガラスに、犬の横顔のシルエットがヌッと映し出された。
「……っ!」
声を上げそうになったトモの口を、マナが押さえる。颯希も声を漏らしてしまわぬよう、自分の口を押えた。窓の外を、獣頭の少女はゆっくりと移動してゆく。ぎしりぎしりと床をきしませながら。
(お願い、早くどこかに行って! 通り過ぎて!! こっちに気づかないで!)
自分の心臓の音がドクドクとうるさい。耳元でドラムを叩いているかのようだ。
(落ち着いて心臓! あいつに音が聞こえちゃう……!)
颯希はブラウスの胸元をきつく掴み、身を縮める。その時だった。廊下を進むシルエットが、蝶の羽を広げたような形に変化した。
(パピヨン……!)
唐突に犬種を思い出す。そう、あの少女の頭部はパピヨンのものだった。
(シルエットがあの形ということは……)
『パピヨン』は横を向いていない。あっちを向いたか、それとも……
(この教室を、見ている……!?)
次の瞬間、目の前のすりガラスが派手な音を立てて砕け散った。
「キャアアアア!!」
耐え切れずトモが叫ぶ。割れたガラスの間から拳が突き出ていた。『パピヨン』は続けて拳をガラスに叩きつける。そこから覗くパピヨンの口元は笑っていた。
(このままじゃ教室に入って来る! どうしたら……!)
「こっち見んなよ、犬!!」
マナが椅子を掴み上げ、『パピヨン』に向かって投げつけた。ガラスの破片が廊下に降り注ぎ、椅子は『パピヨン』に直撃する。ゴッという音と共に、彼女は倒れた。
「逃げるよ、トモ!」
「えぇ!? マナ、でも……!」
気丈にもマナは叩きつけるように引き戸を開け、トモの腕を掴んで教室から飛び出してゆく。
「2人とも!」
後を追おうとした颯希より先に、『パピヨン』が立ち上がり2人を追って駆けだした。
「あ……!」
『パピヨン』が颯希を振り返る。ギクリとした颯希だったが。
「……」
颯希を見る『パピヨン』の眼差しからは、怒りや殺意と言ったものが全く感じられなかった。彼女はすぐに颯希から視線を外すと、逃げていった2人を追って消えた。
(何、今の……)
颯希はふらふらと廊下に出る。
(あの子、なんだか哀しい目をしていた……)
(これからどうしよう)
2人とはぐれてから、颯希は校舎内を1人でさまよっていた。『パピヨン』に追われて行ったトモたちのことは気がかりだったが、フリー状態の自分だからこそ出来ることがあると思い直した。
(まずは出口を探そう)
アヤの話では、この夢に迷い込んだ人間は「あなたは違う」と校舎を追い出されることで目覚めるというものだった。ならば、昇降口を見つけそこから出ればこの悪夢から逃れられるかもしれない。脱出口を確保したら2人を待って合流し、一緒にここから抜け出そう。颯希はそう考えた。
(それにしても……)
『パピヨン』のことが頭に浮かぶ。
(なんだろう。何かを思い出しそうで、ザワザワする……)
先ほど目が合った時に湧き上がった感情。
(懐かしいような……、切ないような……)
「あれ?」
階段を降りたところで異変に気付いた。先ほど見た表示は間違いなく『2F』だった。だから出口があるであろう1階を目指して階段を降りてきたのだが。
(ここ、『3F』って書いてある)
窓から外を見下ろす。やはり先ほどよりも地面から遠ざかっていた。その上、窓から見えていた校舎裏が、今は中庭になっていた。
(見間違いかな?)
一刻も早く昇降口に辿り着こうと、早足で階段を下りる。
(え……?)
今度は窓のない場所へたどり着いた。表示は『B1』、地下となっている。
(何なのここ!? 繫がりがめちゃくちゃになってる?)
急いで階段を駆け上がる。先ほどの3階へ戻るかと思いきや、今度は目の前のプレートに『2F』の文字が記されていた。教室前のプレートも「理科室」「視聴覚室」から「2-A」などになっている。特別教室棟から普通教室棟へ移動したようだった。
(落ち着いて。どこの階段を使えばどこの何階に繋がるか、ちゃんと記憶しながら移動しなきゃ……)