その1
木造の古びた校舎の廊下の先。その暗がりに『彼女』は立っていた。臙脂色の縁取りの襟の紺ブレザー、胸元にはリボンタイ。なぜか下はスカートではなく、体操着のハーフパンツをはいている。そしてその顔はと言えば、犬そのものだった。
「ヒッ」
派手な顔立ちの女生徒が、栗色の髪を揺らしながら口を押えて後ずさる。笛の音のような彼女の悲鳴を開始の合図と受け取ったのか、獣頭の少女はこちらへ向かって猛然と駆けてきた。
「走って!!」
颯希が叫ぶと同時に、その場に全員がはじかれたように走り出した……かのように思われた。
「や、やぁ……っ」
か細い声に颯希が振り返る。幼げで小柄な女生徒が唇をわななかせ、その場に立ちすくんでいた。
「エニ! 走れ!」
ショートヘアの女生徒が叫ぶが、エニと呼ばれた小柄な少女は力なく首を横に振る。
「むり、あし、うごけな……」
次の瞬間、獣頭の少女の牙がエニの首をゾブリと捕えた。はずみで床に投げ出される小さな体。獣頭の少女は馬乗りとなり、喉元の肉を食いちぎった。
「キャアア!」
「走って、今は!!」
金切り声を上げる派手な顔立ちの少女に、颯希は叫ぶ。颯希の言葉に、ショートヘアの女生徒が震えながらうなずいた。
「トモ、逃げるよ!」
「マナ! あれ、エニの首……! いやぁあああ!!」
マナと呼ばれたショートヘアの少女は、派手な女生徒――トモの腕を掴み、その場から引きはがした。
(どうして……)
もつれる脚でその場を後にしつつ颯希は振り返る。ぐちゃぐちゃと音を立て肉を食む犬の頭部を持つ少女。彼女は顔を上げると、血まみれの口元をにたりと歪ませた。
喉元までせりあがるものを飲み下しつつ、颯希は走る。
(どうしてあんな好奇心に負けてしまったの、私……!)
斎条颯希がその噂を知ったのはほんの13時間前、昼食を終えた颯希は友人の渡井アヤと、放課後の英単語テストに向けて暗記をしていた時のことだった。
「さっつん、『夢現彷徨』ってホラーゲームの話知ってる?」
アヤが単語ブックから視線を外さず、口を開く。
「知らない。怖いの?」
「まぁ、ホラーだしね。でもゲームの内容よりも別の意味で怖いんだって」
「別の意味?」
「SNSで話題になってるんだけど、そのゲームをした人はみんな同じ夢を見るってさ」
「どんな」
「暗い木造の古い校舎の中で彷徨うんだって」
「こわ」
「でしょ? で、途中で誰か出て来て『あなたじゃない』って追い出されて目が覚めるってさ」
「誰かって?」
「分かんない。女の子らしいって噂」
「ふぅん」
「なんでみんなして同じ夢見るんだろうね。さっつん気にならない?」
「誰かの作り話にノリで合わせてるだけでしょ。SNSのお遊びあるあるだよ」
「だよね」
話はそこで終了した。そのまま忘れ去ってしまえばよかったのだ。だが颯希は帰宅後そのアプリをダウンロードし、プレイを開始してしまった。
(どうせくだらない噂でしょ)
毎日繰り返される進学校での勉強につぐ勉強。普段得られない刺激を欲する心が、噂を一蹴する気持ちにわずかに勝った。
(まぁ、普通かな)
タップで読み進めるタイプのノベルーゲーム。都市伝説をモチーフにした内容で、それほどの目新しさもない。ただ不思議なことにプレイ中は懐かしさのような感情が幾度も胸に突き上げてきた。それは郷愁の念に近いものに思えた。
(……もういっか)
30分ほどプレイしたところで飽きてしまう。画面を閉じ、颯希は明日の英語の授業のための予習を始める。そして日付が変わって一時間ほどしてから就寝したのだったが。