悪夢のような日々1.5〜澪の過去〜
暫く頼んだ料理を突きながら他愛のない話をしていたが、少しばかり会話が切れたタイミングで俺は気になっていた事を澪に訪ねた。
「なぁ、澪は俺に初めて会った日や、2度目に会った日のことを覚えてるか?」
「?」
「澪、お前は俺に“また…”と言った。そして“逢えてよかった”って言ったろ? 俺は不思議で仕方がなかったんだ。何で見ず知らずの俺なんかに逢えてよかった……なんて言ったのか。」
澪は少し考えるとはにかんだように微笑んで応えた。
「……あぁ。覚えてますよ。 だってホントにそう思ったんです。
離人さんは最初に私の前に立ってずっと私の歌を聞いてくれていたときなんだかそのまま消えてしまいそうな……まるでホントはそこに存在してすら居ないんじゃないかって思うぐらい儚く見えたので……。“また……”って別れ際に言ってみたけど、もしかしたらもう二度と会えない人なんじゃないか……って思ってたから……。」
「そんなに俺は危うく見えていたのか……?」
「はい。なんだか自分を見ているような気分になりました……。」
「澪はそんなに危うくないだろ。」
澪は少し目を伏せ悲しそうに微笑んで片側だけ空になったラザニアの皿にカチカチとフォークを当てた。
「離人さん、ご両親が亡くなったって言ってましたよね……。」
「ああ。」
「私、両親と縁を切ったんです。」
「そうか。」
俺が特に何も考えることなく返事をすると澪はそんな俺の様子を見て少しばかり不思議そうに言う。
「驚かないんですね。」
「対して驚く話でもないさ。」
「離人さん。ちょっと私の昔話に付き合ってもらえますか?」
「ああ……構わないが。」
澪は少し微笑んで話を始めた。
私が物心ついたときには夕方になると母に手を引かれて毎日家を出ていたの。
「澪!行くよ。」
「はぁ〜い。」
母さんはそう言うと夕暮れの街を私を連れて歩いた。
「ママ、澪のことヨロシクね〜!」
そう言って、タイトなミニスカートを着た母さんは毎夜仕事に出かけていった。
母さんは十六で籍を入れ、十七で私を産み、十九で離婚した。
ニ十一になる母さんはまだ若く母親である前に一人の女だった……。
私を置屋のママに預け数日帰らないなんてことは日常茶飯事で私はママが居たからさほど寂しいとは思わなかったけど……そんな矢先だったと思う。
私が寝ている脇で母さんとママが話をしているのが聞こえてきて、子供心にいま目を開けちゃいけないって思ってそのまま寝たふりをして二人の会話を聞いてたの。
「零ちゃん。アンタ、澪のことどうする気だい?しょっちゅう出掛けては何日も帰らないで……そりゃ、澪の事は孫みたいに思ってるし、可愛いとは思ってるけど、家だってずっと澪の面倒見てやれる余裕はないんだよ?」
ママの言ってることは最もで、幼い私にだって理解できた。
「……解ってるわよ。私だって……。」
“私だって……”の後に続く言葉は彼女なりに言ってはいけない言葉だったのだろうと思う……母さんにとって私はたまたま出来てしまった子供で、養ってくれるはずの男が当てにならず私という存在を持て余していた……。
母さんはそれからきっと色々考えたんだと思う……それでも、自分一人で私を育てていくことは無理だと彼女なりに決断したんだろう……私は五歳になった年に施設へ預けられたの。
「澪……必ず、必ず迎えに来るからね。」
「うん。」
そう言って去った母さんは当時付き合っていた男の車に乗って去っていったのは今も覚えている。
別に期待なんかしてなかった……そこまで母さんに愛されている自覚はなかったから。
それより、置屋のママに会えなくなったことの方が私にとっては寂しかった。
それから五年。施設で何不自由なく育った。
多少の悪さもしたし大人に刃向かう事もあったけど、一般的な反抗期と対して代わりはなかっただろうと思うぐらいの事だったと思う。
その日はなんの前触れも無くやってきて、施設長に呼び出された私はなにか最近怒られることをしたろうかと考えながら施設長の部屋へ出向いた。
「澪。」
「何?」
「お母さんが澪の事を迎えに来たいと言ってるの……。澪はどうしたい?」
突然そんな事を言われたところで実感すらわかなかった。幼い頃に別れた母、たいして寂しいとも思わなかった自分、そんな母が迎えに来て今から一緒に暮らしたところで私は彼女を母親だと思えるのだろうか……
「私は親子が一緒に暮らせるならそれが一番良いと思ってるの。でも、決めるのは澪、あなた自身よ。
あなたが親元に居たくないと言うなら私達はあなたが独り立ちできるまで面倒を見ることは出来るわ。」
そう言うと施設長は少し考える時間が必要だと言って1ヶ月の時間を私に用意してくれた。
それから一ヶ月、施設長と何度か話をして私は母さんの元へ行くことを決めた。
きっとそれが私の選択ミスだったのね……。
「澪……!」
母さんは私の元へやってきてまるで感動の再会とでも言わんばかりに私を抱きしめた。
「母さん……」
「澪、ゴメンね……こんなに遅くなって。本当にゴメンね……。」
「ううん。大丈夫よ。」
「ええ、もう大丈夫。澪、紹介したい人がいるの。」
母さんはそう言うと振り向いて手招きをする。
「こんにちは。澪ちゃん。」
物腰のやわらかそうな母さんよりも五、六歳は上だろうと思う男性がそこに立っていた。
「こんにちは。」
「澪。彼ね……澪の新しいお父さんになる人なの。」
「……そう…なんだ。」
実際、お父さんと言われても実の父親さえ解らない私にしてみればなんの実感もわかない。
「あの、お母さん。取りあえず手続きを……」
施設長が会話に割って入る。
「あ!すいません。今行きます。」
母さんが施設長と手続きをしている間、私はお父さんになると言う人と庭の端に置かれたベンチに座り待っていた。彼は暫く黙っていたが沈黙の時間に耐えきれなかったのかベンチから庭を眺めながら話し始めた。
「澪ちゃん。お母さんは君の事ずっと心配していたよ。」
「そうですか。」
私が気のないような返事をしたせいか彼は少し苦笑いして話を続けた。
「いきなりお父さんだなんて言われても実感も何も無いよね……。」
「まぁ……そうですね。」
「俺のことは無理にお父さんと呼ばなくていいから……俺の名前は栄貴って言うんだ。よろしくな。」
「ハルキさん……。」
彼はとても優しそうに見えた……本当に、穏やかな話し方と笑顔……母さんは幸せになれたんだと。
そう思った……と同時にその幸せになった母がなぜ今更私を迎えに来ようと思ったんだろうと不思議にも思った。
「澪ちゃんはお母さんの事好きかい?」
「……はい。」
実際、好きも嫌いも何の感情も無かったけれど、“はい”以外に答える言葉が見つからなかった。
「なら良かった。俺もだ。」
母さんが手続きを終えて戻ってくると、栄貴さんは母さんに歩み寄り優しく腰に手を回すして、母さんも彼に寄り添うように身体を預けると優しく笑った。
「澪。私達の家に帰りましよう。」
母さんはそう言うと座ったままの私に手を伸ばす。
「うん。」
私は母さんの手を取り立ち上がり、それから施設にあった私物を持てるだけ持って出た。大きい荷物は後々、母さんと住む家に送ってくれるらしい。施設で一緒に育った兄妹たちの中には別れを惜しんでくれる子も何人か居たし、私もこの五年ここで苦楽を共にした彼らと別れるのは少し辛かったけれど、それが生涯の別れじゃないしいつかまた笑って会おうと約束を交わして施設を後にした。
彼の車に乗り母さんの家へと向かう。道すがら助手席に座る母さんは私が見たことのないような穏やかな顔で笑っていた。
「ねぇ、栄貴。澪……栄貴と仲良くできそうかしら……。」
「大丈夫だよ。俺も澪ちゃんも零の事を好きだから。」
彼はそう言って微笑む……。
そんな二人を後部座席から眺めながら私は多分、大丈夫……きっと上手くやれる。そう自分に言いきかせた。
家に帰ると私の部屋が用意されていて、必要なものはだいたい揃っていた事に少しだけ驚いたのを覚えてる。
「部屋は気に入ってもらえたかな?何か足りないものがあったら遠慮なく言ってくれな。」
栄貴さんは三十二歳、歳の割にはたぶん稼ぎは良いほうなんだろうと思う……。
でも、母さんも仕事は辞めていなくて夕飯をすますと栄貴さんが母さんを送って行く。
栄貴さんの仕事が終わって母さんが仕事に行くまでのほんの数時間その数時間でも二人はいつも寄り添い穏やかに微笑みながら何かを話していたし、私は別に自分からその会話に混ざろうとはしなかったけど、時折二人が私の事を傍まで呼んで三人で会話することもあった。
そんなニ人はきっと幸せなんだろうとも思えていた……。
「澪ちゃん、零の事を送ってくるから少しだけ待っててな。一人で大丈夫かい?」
「はい。」
小さい子供じゃないのだから数十分家に一人で居ることなんて何とも思いはしないんだけど、栄貴さんはいつもそう言って家を出る。
「じゃあ、澪。行ってくるわね。」
「うん。」
栄貴さんとも普通に話せるようになるまでそんなに時間はかからなかった。
転校先の学校もそんなに悪い環境でも無く、私が母さんと栄貴さんに引き取られて二年が経って、友達も出来て何となくなだけど普通の家庭のようになれたと思っていたそんな頃……。
「おめでとう|澪みお。」
「おめでとう。」
私は中学に入学し、栄貴さんと母さんは私の為にケーキを用意してくれて私もそれを素直に喜んだ……
「ありがとう。母さん、栄貴さん。」
母さんは仕事は辞めないものの、私の幼い頃のように戻ってこないという事はなく仕事が終わったらすぐに帰ってきていたし、栄貴さんも相変わらずの感じだった。
そんな普通の家族としての生活が続くと思っていた中学1年の夏だっだ……全ての歯車が狂い始めたの。
梅雨もそろそろ終わる……セミが鳴き始めた頃だった。
その日、栄貴さんはいつものように母さんを置屋まで送ってくると、自室にいた私のところに訪ねてきた。
「澪。少しいいか?」
「うん。いいよ。」
もう、一緒に暮らして三年目になる栄貴さんに私はなんの警戒心も無かったし、栄貴さんが部屋に訪ねてくること自体、別に珍しいことではなかった。
ベッドに寝転んで本を読んでいた私はそのままベッドに座る。
「どうしたの?」
隣に腰掛けた栄貴さんの顔を覗くと……
「澪……。」
「えっ……!何……⁉」
彼は私の腰に手を回しそのままベッドへと押しやった。
「ちょっ……!やめてよ……栄貴さん……⁉」
「澪……。」
大人の男の力になど適う訳もなかった……そのまま無理やり流されるように私は彼の愛玩に成り下がった。
事を終えた彼が私に言った言葉は私の選択の過ちと、未来への絶望しか思わせなかった……
「澪。俺はずっとお前を見てたんだ……この家に迎える事になってからずっと。
零に娘がいることを知らされた時は本当に驚いた。だけどね、零に案内されて何度か君の事を見に行ったことがあるんだ……。零は澪を連れて帰るのは止めようと言っていたんだ。澪、君は施設にいてもとても幸せそうに穏やかに笑っていたからね……。」
栄貴さんの口調は穏やかででもどこか冷たく私はただシーツに包まったまま言葉を飲んだ。
「………。」
「そんな澪を見ているうちに俺が澪……君と暮らしたいと思ってしまったんだ。
零を説得して、澪をこの家に迎え入れたとき……本当に嬉しかったよ……。
この事は零には言うなよ。澪と俺の秘密だ。解ったか?」
そう言った栄貴さんは軽く私の頭を撫でると部屋を出ていった。
それからというもの、母さんが仕事に行ったあとの時間はほとんど毎日のように栄貴さんは私の体を弄んだ。最初は抵抗していた私も彼には敵わない事はすぐに解った……。
「零の幸せを壊したくはないだろ?」
「澪は俺のものなんだ。」
「俺だけのものだ……。」
まるで暗示をかけるように何度も何度もそう言いながら私の体を貪る栄貴さんに恐怖しかなかった……
もし、抵抗したら……誰かに話したら……もっと酷いことになるんじゃないか……私の頭の中はそれしか考えられなくなっていたの。
そんな日々が続き学校に通っていてもどこか人とは違う自分がたまらなく気持ち悪く思えていつしか教室にも入れなくなっていった……だからといって家にいればいつまた栄貴さんの魔の手が伸びてくるかも解らなくて家にも居られず暫くは学校に行くふりをして人気のない公園のベンチで過ごしたこともあった。それでも学校へ行かなければ親に連絡が行く……仕方なく学校に行って教室に入れずに立ち竦んでいるとカウンセラーの先生が声を掛けてくれた。
それから毎日、生徒が登校し終わった時間を見計らって学校へ行き保健室の前を通ってカウンセリングルームに入る。
教室に行かない理由は誰にも言っていない、カウンセラーだと言う先生にも言わなかった。それでも彼女は何も聞かずとりあえず学校に来ているのならこの教室を好きに使って構わないから……とそこにいることを許してくれた。
「澪さん?まだ教室には行けそうにない?」
「はい……。」
「そう、何でも話してね……。秘密は守るから。」
教室には行かない、でもカウンセリングルームに居てもカウンセリングを受けようともしないそんな私に、五、六週に一度はカウンセラーの先生がそう言ってくる。もちろん彼女なりにどうにか私の悩みを解決しようとしてくれていたのかもしれないけれど、“家のことを学校で話したからと言ってなんだというの?何一つ状況なんて変わるわけがない。”そんな思いのほうが強かった私は、彼女に声を掛けられること、それすら嫌になりかけた時だった……
その日の朝は、たまたま外通路から保健室の前を通りカウンセリングルームに行こうとした。
「おはよ!」
「‼」
「あ、ごめん、ごめん。驚かしちゃったね。」
気まずそうに……でも、なんだか親しそうに笑う女の人。
着崩したように制服を着ている彼女は同級生……?保健室の窓に両肘をついて外を覗いていた。
「……おはようございます。」
「別に敬語なんで使わなくていいよ!ねぇ、あんたさ、隣にいるんだろ?」
「はい……。」
「今日は、こっち来ない?一人でいるとつまんなくてさぁ……。」
よくよくネームプレートを見ると、ニ-一と書いてあるのが見えた。先輩……。
しかも、見るからにまじめな部類ではなさそうな人だ……。なんだか厄介な事になりそうな気がした私は軽く作り笑いを浮かべてその場をやり過ごそうとした。
「先生にきいてみます……。」
「なんだよ……。マジメだなぁ……。」
そう言うと彼女は振り返って
「なぁ!藍ちゃん!今日、この娘こっちに居てもいいよなぁ?」
彼女は保健室の先生をちゃん付けで呼ぶと偉そうに言った。
「!!アンタ、また、窓越しにナンパしたの?」
私は“ナンパ”という言葉に若干の疑問を抱いたが、声を掛けてきた彼女もそう言っている先生も特に不思議な会話ではないように至って普通に会話を進めているところを見ると、こうして窓越しに誰かに声をかけるのは彼女の日常においていつもの事なのだろうと思った。
そう、私は彼女に“ナンパ”された。
「もう……解ったから、うるさくしないでよ……。」
二、三会話をした後、仕方なさそうに先生がそう言うと彼女は満足げに笑ってこっちに向き直す。
「いいって!早く入って来いよ‼」
「はい……。」
よく解らないまま二人の会話に流されるように私は保健室に向かった。
「失礼します。」
「いらっしゃい。」
保健室の先生は優しくそう言って微笑んだあと、付け加えるように
「ごめんなさいね……。嫌だったらすぐに隣に帰っていいからね。」
そう言って、少しばかり苦々しい顔をして私に微笑みかけてきた。
「藍ちゃ〜ん。人を悪者みたいに言うのやめてくんな〜い?」
そんな先生を後目に、そう言って彼女は座っていた先生の後ろから伸し掛かるように体をもたれかけた。
「重い、重い……。解ったからどいてちょーだい。」
二人のやり取りがきっとお互いを信頼し合っていての言動なんだろうということが手に取るように解って、見ているとなんだか仲のいい姉妹のようなやり取りに少しおかしくなった……。
「お!あんた笑うと可愛いね。」
「……!」
私はいきなりこっちを向いてニシャっとでも効果音が付きそうな顔で笑った彼女に何だか照れくさくて少し顔を伏せた。
「そういうこと軽々しく言わないの!保健室はナンパ禁止です!!」
「ちぇ〜〜。」
先生に窘められて、拗ねたように頬を膨らませた。
「なぁ、こっち座りなよ!」
六人掛けのテーブルの奥に座った彼女は自分の目の前の席を指差す。
「あ……はい。」
「そんなに畏まんなくていいって‼」
「でも……先輩、だし……。」
「あれ?あんた一年?」
「はい。」
「まぁ、いいや。どうせ毎日隣に通ってんだ、学年なんて気にすんな‼私は琳って言うんだ。あんたは?」
「リン先輩……私は澪……です。」
「ミオか。じゃあ、今日から私はあんたを澪って呼ぶ。あんたも私の事は琳って読んでな⁉」
「琳……さん……。」
「さんは要らねーって。」
琳さんは砕けた人で口は悪いけど、最初窓越しに受けたガラの悪そうなイメージとは逆に親しみやすい人だった。
それから私は毎日、外側の通路を通って登校し、毎朝琳さんに挨拶をするようになった。
たまに琳さんが暇していると、“こっちに来いよ!”と誘ってくれる。
琳さんがなぜ毎日私よりも早く登校していて、なぜ毎日保健室にいるのか、その時は理由は聞けなかったけど、ただ、彼女にとってはそれが当たり前のようで、周りの誰もソレをとやかく言う素振りはなかった。
私は琳さんと話しているのがなんだか楽しくて、誘われるのをいつも待っていたんだと思う。
不思議と琳さんの周りには人が集まり、教室に行っていないのに、保健室には琳さんを訪ねてくる生徒が毎日のように居て、稀に空き時間の先生までが彼女を訪ねてきては次の授業時間まで談話していく……彼女が保健室にいることを気に食わない先生も居たんだろうけど、琳さんは不思議と理解ある人を引き寄せる体質なのか、空き時間に教頭先生までが琳さんと世間話をしに来る程だった。そのせいもあってなのか、琳さん自体がそんな事は全く気にしません!って顔でいるからなのか、それを強く否定する先生はいなかった。
特に周りに嫌われているでもなく、イジメられているようにも全く見えないし、同じクラスの人達も休み時間になると琳さんのところに遊びに来たり……そんなふうに琳さんと関わるようになってから数ヶ月が過ぎた頃だったかな、琳さんがなぜずっと保健室に居るのか……なんとなく気になって私はその日琳さんに聞いてみた。
「琳さん。教室に行かないですよね?」
私の言葉な琳さんはいつもと変わらない笑顔を向けて答えてくれた。
「ああ、教室の雰囲気嫌いなんだよ。ウザいんだよなぁ……あの感じ。」
“あの感じ……”とはどんな感じなんだろう、とふと思ったけど、私の口から次に出た言葉は頭の中で考えていた事とは別の質問だった。
「カウンセリングルームには来ないんですか?」
きっと、毎日琳さんがカウンセリングルームに来てくれたら、私も毎日が楽しくなるかもしれない……そう思ったのかもしれない……。
琳さんは一、二秒間を開けると
「あ〜〜。イヤだね。辛気臭くてらんねーや。」
琳さんはカウンセリングルーム側の壁を怪訝そうに見やると“ゲェ〜。”とでも言わんばかりに口をへの字に曲げてみせた。
余りのあからさまな態度に私はクスクスと笑いが込み上げてきた。
「何笑ってんだよ。」
「琳さんらしいと思って。」
そんな事を話してると私の後ろに背を向けて座っていた藍先生が声を掛けてきた。
「リ〜ン!私ちょっと職員会議で席外すから一、ニ時間留守頼めるかしら?」
「あいよ〜。カワイイ藍ちゃんのためなら任されちゃうよ〜。」
そんな先生に手をひらひらと振って軽く投げキスをしてみせる琳さん。
「バカ言ってないで、病人きたら職員室に内線つないでよ‼」
「わ〜たよ。」
琳さんは軽く舌を出して私に肩を竦めて見せると、もう一度ひらひらと手を振って先生を職員室に促す。
「澪ちゃんゴメンね……。琳がウザかったら隣に戻っていいからね。」
先生は申し訳なさそうにそう言うと職員室に向かっていった。
「うるせ〜なぁ。」
そんなやり取りもなんだか楽しくて私はクスクスという笑いを堪えきれなかった。
「澪は微笑ってるとホント可愛いよな。」
「⁉そんなこと無いです。」
「ホントだよ。お前は可愛いよ。」
そう言って琳さんは私の頭をクシャクシャっと撫でて屈託のない顔で笑ってみせる。
その瞬間、何故だったんだろう……涙が流れて止まらなくなった。
そんな私に琳さんは何一つ焦った様子など見せずに、私の泣いている理由の何を聞くわけでもなく、ただ隣に座ると私を胸に抱いて泣き止むまでずっと頭を撫で続けてくれた。
途中、琳さんを訪ねて誰かが引き戸を開けた気がして泣き止もうとしたけど琳さんは相手に小さな声で“後でな……”と言って私の頭を撫でながら私にも優しく囁くように“大丈夫。”そう言って私の背中に回した手に少しだけ力を込めた。
たぶんニ十分以上経っていただろうと思う。やっと泣き止んだ私に琳さんはBOXティッシュを箱ごと渡すと
「疲れたろ?少し休め。」
そう言ってベッドを空けてくれた。
その頃の私は毎晩のように義理父に体を弄ばれ睡眠という睡眠が出来ずにいたせいか、何年ぶりかに思い切り泣いたせいか、私の横になったベッドの脇で琳さんが頭を撫ででくれたのがたまらなく気持ち良かったせいか……堕ちるように眠りについた。
ほんの一、ニ時間ほどだろうか目を覚ますと、琳さんは私が眠ったときと同じ様に頭を撫でて優しく微笑んでいた。私が寝ている間、まるでずっと傍でそうしていたかのように……いや、きっとずっと傍に居てくれたんだと思う。
「おはよう。」
「おはようございます……。」
琳さんは微笑んでくれたけど、私は何だか気まずくて少し目線をそらした。それでも琳さんはそんな事気にしてない様子で話しかけてきてくれて……
「少しは眠れたか?」
「はい。とても良く眠れました。」
「なら良かった。」
そう言った琳さんは本当に優しく微笑んでいて私はまた少し泣きそうになった……
私は傍に居てくれたそんな琳さんが私の涙の理由など全く気にしていないかのように見えたのが不思議で思わず訪ねた。
「どうしてか……聞かないんですか?」
「私は聞かない。話したくなったら話せばいい。
私はどんな澪でも愛しいと思ってるしどんな澪でも大切に思ってる事に変わりはない。だから、澪が泣きたいなら泣けばいい……笑いたいなら笑えばいい……話したいなら話せばいい……それ以上は何もいらない。澪は澪で居ればいい。」
私は初めて、今置かれている自分の状況を人に聞いて貰いたいと思った。
私はベッドに腰掛けたまま琳さんに今までの生い立ちと今置かれている状況を話すと、琳さんは私の頭を撫でながら“ありがとな……話すのも嫌だったろうに……”そう言って私を抱きしめた。
“ありがとう……”私の中でその言葉は意外なものだった。
“可愛そうだ”とか“汚い……”とかそんなふうに言われるとばかり思っていたから……。
そんな私の目を真っ直ぐに見た琳さんは強い意志のこもった口調で私の手を握りながら話す。
「澪。私は澪を可愛そうだと哀れんだり同情したりはしない。変えようと思えば変えられる状況にいることはわかっているか?」
「うん。」
そう……変えようと思えば変えられる。
カウンセラーの先生に相談をすればまた施設に戻る事もできただろうし……それでもそれをしないのは何も知らない母さんがそれを知ったときのことと、汚れてしまった自分が行ける場所なんてないと思っていたこと……
「澪がそれを解っていて変えようとしないなら、冷たいと思われるかも知れないが私はそれ以上何をするつもりもない。ただな……澪。私は澪が望むなら、多少なりともお前が楽になれる時間を作ってやりたいとは思う。いいか?」
「……うん。」
それから琳さんは私が栄貴さんと二人になるであろう時間、要は母さんが仕事に行ってからの時間、家にちょくちょく遊びに来るようになって、週末になると毎週のように家に泊まっていた。
琳さんは人当たりがいいこともあり、母さんも栄貴さんも私が友達を連れてくることを最初は喜んでくれていた。
その後も琳さんは平日は二、三日、曜日を問わず家に十一時頃まで居て週末は泊まりに来るという生活をしていた。琳さんの家は大丈夫なのかと何度か訪ねたことがあったけど、“私は家じゃ出来損ないの厄介者だから家に居なくてもなんてことは無い。”そう言って笑ってた。琳さんが家に来る日は私も栄貴さんの手から逃れる事ができた。
琳さんがよく泊まりに来るようになって暫くすると栄貴さんは琳さんを気にするようになった。
「澪。彼女はちょくちょく泊まりに来るけど、家の方は大丈夫なのかい?」
「うん。大丈夫って言ってた。」
「澪が友達と仲がいいのは嬉しいんだけどね……俺は君を彼女に取られたような気分だよ。」
栄貴さんは母さんを仕事に送って帰ってくるとリビングのソファに座り私を自分の膝の上に乗せると私の顔を自分の方に向き直させて顔は笑っているのに、笑っていないような瞳を向けてきた。
「………!」
怖かった……琳さんにこの人の魔の手が伸びるんじゃないかって。
私は琳さんにその話をして私から離れた方がいいと伝えた……もし、万が一にでも彼が琳さんに何かしたら……それを考えただけで怖くなったし、琳さんに私のような思いなんてさせられないから。
それなのに琳さんはそんな私の話を聞きながら眉間にシワを寄せて私の頭を軽く小突いてきた。
「は?バカじゃねーの?!何言ってんだ?」
「でも……あの人、何するか解らないから……。」
「だから?私がアイツに何かされたら何だってんだ?私がそんな事で澪を嫌いになるとか、見捨てるとでも思ったか?」
「だって……」
「気にすんな。私は私のやりたいようにやる。澪。何があったとしてもそれは決してお前のせいじゃない。私がそうする事を選んだ結果だ。何が起こったとしても、どんな状況になろうと絶対に自分を攻めたりするんじゃねーぞ。」
そう言っていつものように無邪気な笑顔で笑いかけてきた。
それから暫くしてだったの……琳さんは学年主任に呼び出されていた。
私は何となくだけど栄貴さんが何かしらの行動に出たんだということは何となくな解った。
「琳?大丈夫?」
保健室に戻ってきた琳さんに藍先生が心配そうに声をかけると琳さんはあっけらかんとした顔で笑って答えてた。
「あぁ、問題ない。藍ちゃんの気にすることじゃない。」
「でも……。」
後日、藍先生から聞いた話では琳さんの校外での素行の悪さが目に余ると匿名で学校側に連絡が入ったらしい。実際、琳さんはタバコも吸っていたし、お酒も飲み歩いていたらしい……どちらかと言えば不良と呼ばれていた人達とも仲は良かったし、喧嘩を売られる事も多々あったと聞いていた。
でも、同じ様にヤンチャをしていた人達には何のお咎めもなかったところを見ると、実名を上げて連絡を入れてきたのは栄貴さんだろう……私は憶測でしか無いそんな話を琳さんにして誤ったけど、
「澪。例えそうだとしてもお前は何も気にしなくていい。第一、バカ共に目の敵にされるのはいつもの事だ。今回に限ったことじゃない。」
って真剣な顔で言われてそれ以上何も言えなかった。そんな琳さんの事を心配そうに見ていた藍先生は肩を落としてなんだか少しだけ寂しそうに琳さんに声をかけた。
「またそんな事言って……」
「藍ちゃんも私を庇うようなこと職員室で言うんじゃねーぞ。あんな奴らに藍ちゃんが何か言われたらそれこそ私の寝覚めがわりーからな。」
琳さんはそういう人だった……保健室に琳さんを訪ねてくる人達は人に話したくない悩みや自分ではどうして良いのか解らないような事を琳さんに聞いて貰いに来ていたし、琳さんはその一人一人に向き合って共に悩み、寄り添い、少しでも心から笑えるように……っていつも誰かの支えになってて、そんな彼女を見ていると不思議とどんな状況に置かれていても何とかなるんじゃないか……と思えてしまう程だった。ただ、そんな彼女の行動を面白く思わない先生も居て、琳さんに相談しに来る生徒に対して“具合も悪くないのに保健室に入り浸るな!”とか“藍先生が甘いから生徒が入り浸るんだ!”とか言っていたけど、そんな目の敵にするような先生にも琳さんは臆しなかった……。
何度か、琳さんが保健室の入り口で学年主任にいちゃもんを付けられていたのを見たことがあるけど、その時も琳さんは“テメーらがそんなんだからここに来るんじゃねーのか?役に立たねーならさっさと職員室に帰りな!”と先生を追い返していた……。
それからも琳さんは私の家に遊びに来ていたし週末になると泊まりにも来ていた。
そんな日々が半年ほど続いた頃だった
「琳さん。ちょっといいかな?」
その日、泊まりに来た琳さんが食事を終え私と部屋へ行こうとしたのを栄貴さんが呼び止めた。
「ええ。」
琳さんは人当たりのいい笑顔で栄貴さんに微笑み返す。
「……栄貴さん?」
私が不安そうに栄貴さんに目をやり、その視線を琳さんの方を見ると
「澪、先に部屋に行ってていいよ。」
琳さんはそう言って私の方を見て微笑んだ。あまりにも穏やかなその顔に私は何も言えずに部屋に足を向けてダイニングを後にしたけど部屋に向かう途中でやっぱり足を止めた……栄貴さんが何を話すのか、彼が琳さんに何をする気なのか……それがどうしても気になって……。
音を立てないようにダイニングの扉の前に立って中を覗いたけど……でも、そこには二人の姿はなかった……
栄貴さんは私が戻ってくる事も考えていたんだろうと思う、自分の書斎に琳さんを連れて行ったようだった。
小一時間ほどたった頃。琳さんは何も無かったように私の部屋へ入ってきた。
「待たして悪かったな。」
「琳さん……。」
「そんな顔すんな。大丈夫だ。澪の心配するようなことは何もねーから。」
そう言って琳さんは私の頭を撫でる。
それから私が中学を卒業するまで、琳さんは週に二、三日は遊びに来ていたし、ほとんど毎週末のように泊まりに来ていた。
栄貴さんは琳さんが来ない日は相変わらず私の体を弄んでいたし、三年になる頃から母さんも何となく気が付いていたんだろうと思う……愛する人を奪った私に怪訝の目を向けるようになっていた。
琳さんは中学を卒業しても放課後の時間になると相変わらず保健室に遊びに来ていた。毎日では無いけれど週の半分ぐらいは顔を出していた。それを良く思わない先生達もいたけれど、藍先生を含め琳さんがそうやって学校に来る事を快く受け入れてくれる先生も少なからず居たのは確かだった。
そんなある日のことだった。
「澪。お前、高校に行きたいか?」
三年の夏、保健室でいつもの様に琳さんと過ごしていると徐に真剣な顔をして私にきいてきた。
「このままあの家に居て高校に行きたいか?」
私は数秒考えた後にその答えを出した
「……高校には行かなくてもいい。早くあの家を出たい……。」
それを聞いた琳さんもまた数秒考えると私の目を真っ直ぐに見て言う
「あの二人と二度と会えなくなったとしても……か?」
「うん……。」
琳さんは当時、琳さんのもてる全てのコネクションをフルに使って私が中学を卒業してすぐに一人暮らしできるようにと動いてくれた。
琳さんの育ての父親が保証人になってくれてアパートの初期費用を工面してくれた事で私はあの家を出て地元を離れることが出来たし、琳さんと琳さんの父親の紹介で中卒の私でも雇ってくれるという夜の仕事についた。そんな人の紹介だったという事もあって店の人たちは本当にいい人ばかりでママも私に目を掛けてくれて、私を娘のように可愛がってくれたし一人暮らしをする私の身の回りの事なんかも心配してくれて色々と良くしてくれた。
それからはなるべく身元を明かさないように生活してきた。
栄貴さんに居場所を知られないように……琳さんは“大丈夫だ。あの男はもう二度と澪には近づけさせない。私と親父がいる限り……絶対だ。”そう言ってくれたし、実際その後あの人の影すら感じなかった。
琳さんも、栄貴さんを警戒してたから地元を離れてからは連絡を取り合っても会いに来ることは無かった。
それでも、私は琳さんに守られていたことと、そして一人で過ごしていても離れた場所で私を気にかけてくれていることは解っていたし感謝しかなかった。
私が一人で暮らし始めて一年が経って生活も仕事も少しづつ慣れ始めた頃、琳さんは突然私のアパートに訪ねてきたの。
「琳さん!」
連絡も無かったから本当に驚いてとにかく色々話がしたくて部屋に上がってもらってお茶を出して……その日は泊まっていって貰おうと思ってた。
そんな私に琳さんは目を据えてこう言った……
「澪……。お前は親を恨んでいるか?
そうだな……親……と言っても母親を……か。
お前の母親はお前の置かれた状況を解っていながらお前を救おうとはしなかったし、むしろお前を邪険にしたような扱いをしていた……そんな母親を恨んでいるか?」
私は何も答えられなかった……恨んでいないと言えば嘘になるかもしれないけど、そこまで彼女の愛情を求めていたのかと言われればそうも思えなかったし……。
「………。」
手元のマグカップの中に視線を落とした私に琳さんは静かに話し始めた。
「世間一般から見たら本当に酷い親だったと思う。もちろん、恨む気持ちがあって当然の事をされてきたのは解ってるつもりだ。けどな……私が、親父が、お前を助けたのはお前が幸せになることを望んだからでお前がアイツ等を恨み憎んで生きていく為じゃない……時に人を憎むことをその仕返しをする事を生きる糧としなければ生きられない人間もいる。でも、澪、お前はそうじゃない。お前は彼奴等の歪んだ愛情を押し付けられて生活してきたかもしれないが、私も、藍ちゃんも、心からお前を愛していた……そして今お前に関わっているママや仲間たちももちろんお前のことを好いているはずだ。」
「……」
琳さんの話を聞き返事をしなきゃ……って思いながら、それでも私は何も言えなかった……
「アイツ等を許せとは言わない……ただ、憎み続けることはお前を苦しめるだけだ。
せめて、アイツ等は真っ直ぐに人を愛することができない可愛そうな奴らだったんだ……そう思えるようになってくれればいいと思う。」
琳さんは相変わらず優しくて、何も言えない私の頭をそっと撫でて抱きしめた。
「琳さん……」
私は何を言いたかったんだろう……“ありがとう……”なのか“ごめんなさい……”なのかとにかく何を言っていいのか解らなかった。
そんな私の顔を覗いて優しく微笑んだ琳さんは私の頬を拭っておデコに優しくキスをしてくれた。
「相変わらず澪は可愛いよ。だからそんな顔をしないで可愛い私の妹の笑顔を見せてくれないか?」
「……うん。」
私は精一杯の笑顔を作ってみせた。
「あぁ……。その笑顔が心からの笑顔になる事を信じてるよ。」
琳さんは涙を拭った手でそっと頭を撫でてまた私を抱きしめてくれた。
その日から私は琳さんを“姉さん”って呼ぶようになって、琳さんとは定期的に電話もしてたし年に数回だけど琳さんが私の様子を見に顔を出してくれるようになったの。
姉さんが結婚して子供が生まれてからはあまり会いに来れなくなってしまったけど、連絡だけは十年経った今でも続いているのよ……姉さんはこの十年私が努力して作り上げた今の生活も環境も全てが私が一人で頑張ってきたからだって言ってくれるけど、私は今もまだ姉さんに守られていて、今のこの生活は姉さんがくれたものだって思ってるの。
澪は一通り話を終えると“あースッキリした!”と言って背伸びをして畳の上に横になった。
俺は一気に詰め込まれた澪の過去に唖然とした部分もあったが彼女のどことなく儚げな寂しそうな笑顔の理由が分かった気がした。
澪は座敷に横になった体制のまま俺の顔を見ずに天井を見上げた。
「ねぇ、ビックリした?」
「あぁ、ビックリはしたが別に……。」
「へえ〜。大概この話をすると引かれるか、哀れまれるか……なんだけど。離人さん、どっちでも無さそうね。」
反応が薄かったというのは確かだろう……たしかに驚きはした薄情だと言われればそうなのかもしれない、ただ、彼女がこうして誰かに話している、誰かに話せるという事は今はその過去がそこまで彼女を苦しめてはいないという事なのだろう。
「あぁ、驚きはしたが今の澪がそれをこうして話しているなら、今はそんなに重いことだとは思っていないんだろ?
なら別に俺も気にする必要はないんじゃないか?」
「確かにそうね。」
澪はそう言うと勢いをつけて起き上がり、イタズラそうに笑った。
一通り飯を済まして澪の話も聞きふと時計を見ればそろそろ日付の変わる時間になっていた。
「そろそろ行くか?」
俺がそう言うと澪は小さく頷き立ち上がった。
「ねぇ、離人さん。」
部屋を後にして靴を履いていると後から澪が話しかけてきた。
「?」
「いつか私にも離人さんの過去を話してくれる日が来るんですかね……。」
「……どうかな。」
靴を履き終えた俺は少しはぐらかして階段へと向かう。
「……いつか……ですよ。」
そう言った彼女の方を振り返ると澪はそう言ってまるで銃口を向けるように靴べらをこちらに向ける。
「そうだな……いつかな……。」
そう言って俺は一足先に階段を降りる。
俺が会計をしながら、昇降機の事についておやっさんと話し込んでいるところに澪は階段を降りてきて俺の後ろに立つ。
「おやっさん、ご馳走さま。今度の休みにウチの機械屋よこすから、後で都合のいい時間連絡してくれ。」
「すまねーな。いくらぐらい掛かりそうだ?用意しとくよ。」
「金はいらねーよ。俺の個人的な依頼だ。たまには恩も返さねーとな。」
「お前もそんなこと言えるようになったんかい……俺も年取るわけだ。」
おやっさんは片口を上げてイヤミそうに笑う。
「ご馳走さまでした。とっても美味しかったです。」
澪が俺の後ろから顔を出すとおやっさんは屈託ない顔で笑う。
「ありがとな。お嬢さん!またおいでな!」
「はい。」
店を出て俺達は車に乗り込み澪のアパートへ向かう。
車内では特に何を話すわけじゃない、微かに彼女の鼻歌が心地よく聴こえていた。
アパートの前に車を停めて澪を降ろすと、助手席の開いた窓から彼女は顔を覗かせた。
「今日は付き合わせた上にご飯までご馳走してもらって……。」
「いいさ。俺も久しぶりにいい時間を過ごしたよ。ありがとな。」
次の約束をするわけでもなくそこで別々の道を行く。
最も俺にしてみれば誰かとともに何かをするなんて事自体が不思議で澪とこうして過ごした事でさえ俺にしてみれば現実味がない事実だった。