小さな約束3
そんな中、週に一、ニ度は彼女の歌を聞きに足を運んだがタイミング良く会えたのは三度に一度程度だった。
梅雨も終わり雨が降り続けることも少なくなっただろうか……
日々が過ぎる中彼女の装いも少しづつ替わる、仕事着の上に羽織っていたジャンパーはカーディガンに変わり彼女の華奢な身体が一層華奢に見えた……。
そんな彼女の歌は相変わらず優しい音色を奏ででいた。
歌い終わると彼女を家まで送り道すがらになんてことのない世間話をする……。
時に彼女のグチを聞き、仲間の相談に一緒に答えを探し、客の悲しみを自分の事のように語る……
会話を重ねる度に彼女の優しさや強さに触れ自分の汚さと愚かさに苛まれはしたが、そんな時間が幸せなんだと解ったのはずいぶん先の話だった……。
その日俺はいつもの様に仕事終わりに彼女のもとへ向かった。
彼女はいつもの様に華奢な身体にギターを抱えてきた。
「離人さん。ごめんなさい……。今日は歌えそうに無いんです。」
彼女が申し訳なさそうに言う。
「構わない。送っていくからこのまま帰ると良い。」
「本当にごめんなさい。」
そういった彼女が何時もとどこか違う雰囲気を纏っていたような気がした。
「何かあったのか?」
「いいえ……気にしないでください。少しだけ調子が悪いだけなんです。でも、いつもの事だから大丈夫、少し休めば良くなるので。」
そう言って彼女は儚げに微笑んだ……
「そうか……。」
彼女にギターを持とうか?と提案したが、彼女は“大丈夫。ありがとう。”そう言って微笑んでそれを手放すことはなかった。
「いつものことと言っていたが、頻繁にあるのか?」
「いいえ、たまにですよ……」
そう言う彼女の顔は何処か影を落としているように見えた。
俺は何時も彼女の歩くスピードに合わせ半歩ほど後を彼女の後ろ姿を見ながら歩く。
その日、彼女はあまり話さず数分歩くと足を止め振り返る。
「ねぇ、少しだけこないだの店に寄っていきませんか?」
「体調は?大丈夫なのか?」
「えぇ、少しだけ……。」
彼女の必死で作ったような微笑みがまるで何かに怯えているかのように見えてそれ以上は何も言えなかった。
|lucis ortusに入ったものの彼女はほとんど口を開かず少しづつハーブティーを口に運ぶ。
大丈夫なのか?この状態で仕事が出来ていたのだろうか……。
俺の頭の中で疑問だけが渦巻くようにぐるぐるとしていた。
そんな感情が渦巻いていた中、彼女からの質問で我に返った。
「離人さん、映画とかって見ます?」
彼女の何気ない会話。それに俺もいつものように応える。
「いや。ほとんど見ないな……澪さんはよく観るのか?」
「ええ。昼間は時間が空くことが多いのでよく観に行きます。」
「そうか。」
「離人さん、どんなお話が好きですか?」
「どうだろうな……そもそもがあまり観ないというのもあるがジャンルは気にしたことはないな。」
「そうなんですね。今度ご一緒しません?いつも一人だからたまには誰かと観たいじゃないですか。」
彼女はそんな会話をしながらもどこか伏し目がちな視線でカップの中に視線を落とす。
「何も俺なんかじゃなく友人や彼氏を誘ったらいいじゃないか。」
「彼氏なんていないんですよ。本当は友人も……」
彼女はそう言うと少し微笑んで目を伏せた。よく仕事仲間の相談事や客同士のいざこざの仲介をしていて、日中もそんな相談事やなんかで家にいることが少ないと聞いていた俺は少し不思議に思ったが、それを深く追求するような事でもないだろう。
「そうか。俺は構わないが、でも俺なんかで良いのか?」
「はい。お願いします。」
彼女は気が晴れたように微笑んだが、すぐにまたカップに視線を落とし静かなトーンで話し始める。
「離人さん。」
「?」
「変な事を聞いても良いですか?」
「あぁ、構わないが。」
「離人さんってご両親と仲いいですか?」
その質問に俺は数秒考えて応えた。
「……すまないが、両親はもうずいぶん昔に亡くなったんだ。」
「あ……すいません。いきなり失礼ですよね……。」
「いや別に構わない。もう昔のことだ、気にしてない。」
「離人さんって何だか不思議な感じがするんですよね。」
「そうか?どこにでも居るような人間だと思うが……」
そう言った俺の顔を少し不思議そうな顔をしてクスクスと笑う。そんな彼女の様子を見て俺は彼女の目に映る俺の姿はどんな人間に見えているのか気になってしまう。
「どこにでも……居ませんよ。離人さんみたいな人。」
二十分ほどだろうかその後も特に彼女の影を落としていた理由には特に触れることなく他愛ない話をしているうちに彼女の顔色はいつもの様子を取り戻していったようにも見えた。彼女は少し申し訳はなさそうに微笑んだ。
「付き合わせてすいません。」
「いや。構わない。」
「私、こう調子が悪い日は夢見が悪くなってしまって……。少し気分を換えたかったんです。」
「そうか。少しは気分転換になったか?」
「はい。とても。」
そういう彼女はさっき会った時とはまるで別人のように晴れやかな顔をしていた。
「じゃあ、そろそろ出るか?少しでもゆっくり休むといい。」
「はい。ありがとうございました。」
|lucis ortusを出て彼女のアパートの前までいつもより少しゆっくり歩く。
アパートの前に着くと彼女は思い出したかのように連絡先を聞いてきた。
「映画!見に行きましょうね!」
「あぁ。時間があったらな。」
「絶対です!約束しましたよ!」
「解ったから……さっさと帰ってゆっくり休め。」
「はい。」
彼女はいつものように微笑むと“おやすみなさい”そう言って振り向き部屋へ入っていった。