小さな約束2
週明け職場に行くと朝一で聖也に呼び止められる。
「離人、今日からまた頼む。今回は遠出もあるから少し長引きそうだ。」
「あぁ、構わない。」
聖也が言うように、今回は少しばかり長い仕事になりそうだ。
昼の仕事を早めに切り上げた俺は一度家に戻りシャワーを浴びて身なりを整え次の仕事に向かう。
ホテルの最上階ラウンジ……ガラス張りの夜景の綺麗なバーに入ると、グレーのパンツスーツを着こなしどことなく気品のあるその人はカウンターに独り腰掛けカクテルグラスの縁をなぞる。
「すいません。お隣良いですか?」
「えぇ……。」
彼女はこちらをちらりとも見ずに気のない返事をする。
「すまないがアフィニティを頼む。」
取り合えず酒を頼んで横に座る。
「お一人ですか?」
「ナンパなら他でして……」
声を掛けると彼女はこちらを見もせず怪訝そうにそう言った。
「いえ……そういうつもりでは……誰かと待ち合わせだったら隣に男がいるのはどうかと思いまして……。不躾なことを聞きましたね。申し訳ない。」
「いいわ。別に待っている相手なんて居ないもの……。気にしないで。」
俺は彼女の言葉通り気にせず彼女の隣に腰を掛ける。
「タバコを吸っても?」
「好きにしたら……。」
彼女は受け答えはするものの一度もこちらを見ようとはしなかった。ただグラスを傾けてはまた縁をなぞる。
うつむいた視線のまま、もうかれこれ二十分ほど経つだろうか……。
彼女の視線はずっとグラスの中に注がれ縁をなぞる指先が色気を放つ。氷が溶けていくと、彼女のグラスからは“カラン……”という小さな音が響く。俺は彼女の脇に座りなるべく音をたてないようにグラスを傾ける。彼女の視線の先にあるものがいったい何なのかそんなことを考えながら会話もなくグラスの中の液体だけが形を変えていく。
「ねぇ、ボーイさん。Angel Faceをくれる?」
「はい。ただいま。」
「お酒……お強いんですか?」
「別に。強くないわ。嫌いよ……。」
会話をしても一切こっちを向かずただ少しだけ瞳を伏せて言葉を吐き捨てるかのように答える。
「そうでしたか……。」
彼女は背筋を伸ばし凛としたままグラスに口をつけそっと戻す。また縁を撫で俯く。
会話も殆ど無かったが、そろそろ彼女が席を立つような気配を感じた俺は次の出会いに繋げるコンタクトを取る。
「よろしければ、ここは私に奢らせていただけませんか?」
「なぜ会ったばかりの貴方に奢られなきゃならないの?」
こちらを見ずに怪訝そうにそう答えるそんな彼女に対し俺は微笑みながら答える。
「いえ、私がそんな気分だったので。貴女がイヤでなければ……ですよ。」
「そうね……じゃあ、一杯だけ頂くわ……。」
そう言うと彼女は今飲んでいたグラスをこちらに傾けた。
軽くグラスの当たる音。
俺達はその一杯を飲み終えると会計を済まして別れる。
誰もいなくなった事務所に戻り明日の仕事の予定を確認する。明日も午前中は表の仕事が数件入りそうだな。
飲めない訳じゃないが、酒は嫌いだ……別に体調を崩すわけでもないし、二日酔いになどなった事もない、もちろん記憶を無くしたこともないし酒で失敗した事など一度もない。ただ、自分でも解らないが仕事じゃなければ飲みたいなどとは一切思わない。
そんな事を考えながら職場の掲示板を確認していると後からのしかかってくる重さ。
「リ〜ヒ〜ト〜さ〜ん。」
「! 何だ。まだ残ってたのか……。」
「“何だ。”はないじゃないっすかぁ……。離人さんが仕事終わらしてくるの待ってたのに……。」
そう言って頬を少し膨らませながら何かを期待したようにこちらを覗く。
「お前は俺の女か……何も無かったよ。ただ酒を一杯、奢っただけだ。」
「……まぁ、そんなとこっすよね。今回はどんな感じっすか?上手く行きますかね……?」
「あぁ、多分な。」
「なんかあったらすぐ連絡くださいよ……。今回は相手が良くないんだから、何かあってからじゃ遅いですからね。」
聖也は少し心配そうにまた俺の顔を覗いてくる。
「解ってるよ……。ほら、帰るぞ。 今日は飲んでるから自分で帰れよ……。」
「解ってますよ。離人さんも気をつけて帰ってくださいね。」
「あぁ。」
明日は、どんな偶然を装い必然を作ろうかと何となく考えながら帰り道を歩く。
部屋に入り、軽くシャワーを浴びてベッドに横たわる。
早めに目が覚めて軽く部屋の中でストレッチをしてからもう一度シャワーを浴びて、支度をして職場へ向かう。
「おはよう。」
「今日は何時から?」
「今日は午後から入ってるから、午前中にできる仕事で頼む。」
「了解。」
午前の仕事は簡単な仕事だ。手慣れた雑用をこなして事務所に戻る。
「今日はそのまま直帰だ。あとは頼んだ。」
「了解。」
事後処理を聖也に頼み、事務所を出る。
部屋へ戻りとりあえず汗を流して身なりを整える。
<|HOTEL Royal>
ここで開かれるとあるパーティーが今夜の俺の舞台になる。
もう大体の招待客は揃っているだろう多勢の中に滑り込むのはいとも簡単で、いざ、この場所で彼女一人を探し出すのは困難かと思ったのだが、事の流れはどうやらこちらに向いているようだ……と言うより、俺から見たら彼女はどことなく特有の雰囲気を纏って見えたのは確かだった。彼女は菫色のパーティードレスの上にショールを掛け、十センチは有るだろうかピンヒールを履いて、まるで何処かの女優の様に背筋を伸ばし綺麗に歩く。それほど身長は高くはないのに、周りの同じように着飾ったパーティー客の中で一際目を引いていたのは確かだった。見知った顔に一通り挨拶を終えたころ、会場の端のドリンクコーナーへと足を運ばせる彼女を呼び止める。
「こんばんは。」
「……えっと。」
「先日、ラウンジで。」
「あぁ、貴方も呼ばれた側の人だったのね……。」
「貴女も……?ですか?」
「ええ、そうね。」
グラスを傾け彼女に向ける。
彼女も軽くグラス傾けざわついている会場にグラスの当たる音が小さく鳴る。
「俺はこういう場がどうも苦手でして……軽く挨拶したらお暇させて頂きますので。楽しい時間を……。」
「そう。それじゃ……。」
彼女に軽く挨拶をして暫くは場に身を置きあたかも集団の一員のように振る舞ってみせた。
俺が彼女を気にしていたせいもあったのか、それとも彼女が俺を見ていたのか……彼女と数度目があったような気がした。
会場を後にして暫くロビーで腰を掛けてから最上階のバーラウンジへ向かう。
カウンターの昨日と同じ場所に座りとりあえずの酒を頼み彼女を待った。彼女がパーティーを抜けてここに来るなんて保証は無かったし、ここに来ると思っていたのは俺の感でしかなく……一、ニ杯飲んで彼女が来なければまた次の一手を考えなければいけない……彼女が来なかった時は次はどう接近しようか……そんな事を考えながらグラスを傾けていると一杯目を飲み干す前に彼女はラウンジへ姿を表した。
「昨日はどうも。居ると思ったわ。」
彼女はそう言うと当たり前のように俺の脇に座る。
「下はいいんですか?」
「私も好きじゃないの……上辺だけの馬鹿な大人の集まり。」
「そうでしたか。」
上辺だけの馬鹿な大人……か……。
彼女は俺のグラスを除きボーイに“同じものを……”と頼んだ。
「改めて乾杯ね。」
「はい。」
「そう言えば、名前を聞いてなかったわね。私は千絃。」
「チヅルさん……。俺は百久真と言います。」
「トクマさん。ねぇ、どんな字を書くの?」
俺が内ポケットにあったペンでコースターに書いてみせると、彼女もバックから万年筆を取り出し自分の名前をわきに書いてみせた。
「不思議ね……貴方が百で私が千。」
「そうですね。これも何かの偶然が招いた必然なのかもしれませんね。」
「貴方、意外とロマンチストなのね……。でも、そうかも知れないわね……百久真さん、お仕事は?」
「これは失礼、アパレルの仕事を少しばかり……」
彼女に|Sei glücklichと書かれた名刺を渡す。ドイツの服飾品を通販のみで取り扱っている個人のアパレル会社の代表という肩書だ。もちろんそんな会社は存在しないし、住所だってうちの会社持ちの空きビルの一角だ。
「千絃さんは?」
「私は美容師よ。」
そう言うと彼女も名刺を取り出し渡してくる。そこにはここらへんでは知らない人は居ないであろうと思われる市内だけでも六〜七店舗はくだらない美容室の名前とオーナーの文字があった。
「私にはコレしか無いのよ。」
少し酔ったように言うと彼女の瞳はどこか影を落としたように見える。
彼女は美容関係で組合の6県をまとめる支部長を任される実力と知性の持ち主。
旦那と子供がニ人、子供達は大学を出て就職し家を出て彼女は今、仕事に専念している。一見すれば順風満帆の幸せな人生を送っているようにも見えるこの女性が俺の今回の相手なのだが……
依頼主は彼女の肉親だった。
それなりに地位と権力を持ち暴言、暴力の絶えない夫、義理の母親から女の癖に家庭より仕事を選ぶ女だと罵られ続け、子供達が育つまではと耐え続けた彼女、子供達が家を出でもなお彼女はそんな旦那に縛られ続けているという……彼女が旦那に未練なく離れられる様に……との事だったが、いわば俺はかませ犬と言ったところだろう、そうして別れたところで俺もていよく身を引く人間、上手くそうなったとしてその後、彼女は一人で生きていくことを望むのだろうか。
そこまでの心配を俺がしたところでどうになることもないのだが、やはりそれを思うと心のどこかに棘が刺さる……。
仕事上のパーティーが嫌で逃げ出してきた俺達はお互いに仕事の話は早々に切り上げた。
「すまないがキールを一杯貰えないか?」
「はい。ただいま……。」
「私にも同じモノを。」
「かしこまりました。」
四杯目のカクテルを飲み終える頃には、お互いの何となくの素性も理解し、千絃は昨日出会ったばかりの俺にHOTELの部屋番を渡してきた……
アルコールにほだされたことと全く知らない相手だからこそ話せる話し。
自分を知っている人間には決して見せられない弱さ……
千絃が先に席を立ち、本当に酔っているのかまったく酔っていないのか、彼女は来た時と同じように気品のあるしっかりとした足取りで部屋に向かった。
俺は五分ほどその場に留まり彼女の後を追った。
千絃の部屋の前に立つと、さっき部屋番を書いていた万年筆を挟み隙間が開いたオートロックの扉。
扉を開け挟まれていた万年筆を手に部屋入るとショールを外し窓際で煙草を咥えた千絃が見えた。
「適当に座って……」
そう言った千絃の脇に歩み寄り万年筆をドレスの胸元に引っ掛けそのかわりに彼女が咥えていた煙草を手に取りひと吸いする。
「美味いな。」
「そうね……。」
タバコを消し千弦をベッドルームへと誘うと彼女は促されるままベッドへと足を運ばせる。
纏め上げた彼女の髪を解きドレスの肩紐へと手をかける。
そのまま流れに任せるように千絃は俺にすべてを預ける。
彼女は俺に抱かれながら縋る様に抱きついてくる一方でどこか冷めているような顔をする。
彼女自身、愛だの恋だのそんな感情が自分に無いことに気が付いているし、今こうしている事自体が何の意味を持たないことを解っているのだろう。
カーテンから薄く光が差し込み、千絃の髪を照らす。彼女が目を覚まし軽く顎を上げてこちらを覗く。
「おはよう。」
俺が傍らでそう言うと彼女は少しだけ恥ずかしそうに微笑んだ。
「ごめんなさいね……誘うような真似をして……。」
「いや。俺は独りだしどうなろうが何を気にすることも無い……。嫌なら誘われたって乗らないさ。
誘いに乗っておいてこんなことを言うのも何だが千絃は大丈夫なのか?俺は君の幸せを壊したくはないんだが。」
「……平気よ。幸せなんて遠に失くしたわ。」
そう言って千絃は俺の胸に埋まるようにシーツに潜る。
千絃の頭を軽く撫でながらカーテンの隙間から漏れる朝陽を眺めた。
それから数カ月、千絃の出張や県外の会合の都合に合わせ行く先々で二人の時間を重ね彼女の心を旦那との終幕へと誘う。
千絃には俺は結婚はしないし添い遂げる気も無いことは伝えていたが彼女はそれでいい……と言いながらたまに会う俺との時間を求めていた。
そんな付き合いが続いて半年が経った頃、千絃は旦那と別れ一人で生きていく道を選んだ。
それが彼女にとって正しい選択だったのかは未だにわからないが彼女の今が前よりは少しでも良くなっていることを祈ろう。