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出逢い

 三月も終わりに差し掛かりまだ寒さの残る春先のことだった……


 “……歌が……聴こえた……”


 あとニ、三時間もすれば夜が明けるであろう人の気配も疎らな裏路地で、行き場をなくし彷徨い歩く。

 通りでは疎らに酔いどれと仕事を終えた娼婦が歩く。

 そんな中、届いたその声に引き寄せられるように俺は彼女の前に居た……。

 積み上げられたビールケースの上に腰掛けて小綺麗なサマードレスに古びたジーンズのジャンパー、少し高めのヒールは脱ぎ捨てられて転がっていた。身体の大きさにはやや大きく見えるギターを抱えて、齢二十四、五と言ったところだろうか、どこか幼さの残る彼女は囁くように歌い続けていた……


 あの日いつもの様に仕事を終えた俺は生きる事に程々嫌気が差して目的もなく行き着く先もなく街を歩き続けていた。まともな人生を歩んで来たつもりは更々無いが得た物も失うものも何一つ無く思えて、もうそろそろ幕を引いてもいいんじゃないか……人を騙し、恨まれ、憎まれもうかれこれ……半世紀近く生きた俺には希望や夢なんて物は何一つ無いはずだった。

 もともと“生きたい”なんて思った事はない人生ではあったが、それなりに人に恵まれてはいたのだろうと思う。節々に俺を生へと引き止める出逢いがあったのだから……


 濃紺のストライプのスーツに肩まで伸ばした髪を後ろ手に縛りどこから見ても気質(かたぎ)じゃないであろう俺は彼女の歌を何となく聞きながらタバコを加えてビルの合間から見える、星の見えない空を眺めた。

 彼女はそんな俺にチラリと目をやったが特に気にする様子もなくギターを奏で歌い続けていた。俺が彼女の前に立ってから十五分ほどが経ち三曲ほど歌い終えると彼女は小さく“ふぅ”吐息をつき俺の顔をじっと見つめた。

「ありがとうございます……」

「いや……別に……」

 彼女は微笑みながら小さく頭を下げた。

 他に観客など居ない、煙草を咥えて、ただぼんやりと聴いていただけの俺に向けられたその微笑みがどこか寂しそうに見えたのは夜明け前の静けさのせいだろう……

 彼女は脱ぎ捨てたヒールを履くと天を仰ぎ背筋を伸ばし小さな身体にギターを抱え夜明け前の街へと歩き出す。

 街灯りの中に身を落とす数歩前で立ち止まり振り返った彼女はさっき会ったばかりの名前も知らない俺に

「また……」

 と一言残して歩き出す。


 そう……彼女の“また……”という言葉があの日の俺の命をつないだことは事実だった……


 それからの数日、俺は彼女を探しに夜な夜な街に出るようになていた……目的などない。

 彼女とどうにかなろうなんて気も更々無かった。ただ、彼女の囁くような優しく、そしてそこはかとなく寂しさを感じさせる、そんな歌がまた聴きたかった。

 夜明け前の静まり返る時間、あの日聴いた彼女の音を頼りに煙草を咥えながら路地裏をふらつき、あの日と同じ時間、彼女が歌っていた場所を訪ねる。来るか来ないかも解らずに毎日同じ場所で彼女を待った……。

 彼女はどこか夜の店で働いていたのだろうことは見て解ってはいたが、だからと言って彼女の働く先を探すほど気になってはいない自分がいたのも確かで、自分でも何をしたいのか……ただ、彼女の歌をもう一度聴きたい……そう思っていた。

 彼女の“また……”が気になって仕方が無かった……


 《万屋千離~よろずやせんり~》

 ここが俺の職場。表向きはなんの変哲も無い万屋だ。普通に何でもこなす便利屋。

 家電の設置、庭木の手入れ、部屋の片付け、引っ越しの手伝い、配達、祭りやイベントの出し物、遺品整理、人手不足の企業への派遣……

 だが……一歩、裏に踏み入ればそこは裏家業の世界だ。

 夜逃げ、別れさせ屋、捏造、偽造、取り立て、浮気調査、抹消……時には人の人生そのものに終止符を打たせるような仕事も入ってくる。社員の中には裏を知らない奴等もいるから面倒だがそれでもこの商売は仕事が絶えない……

 俺は表の仕事も無論するが、どちらかと言えば裏担当の人間。俺の仕事は基本、オヤジのシマで好き勝手やってる奴らの制裁や、女関係の仕事が多い。基本、女に興味のない俺なら後腐れなくやれるだろうとオヤジが始めに俺にさせたのがその手の仕事だったというのも大きいのだろう……自分でも世に役立つ人間ではないと解ってはいるし、平和だ平和だと言いながらそんな家業が成り立ってしまう世の中もどうかとは思うが、現実は綺麗事だけじゃ成り立たないことの方が多いのは事実だった。

 憎まれもすれば、恨まれもするし、裏の仕事をしていれば手傷を負うことも多々ある。

 それは仕方がない事で、俺はオヤジに拾われこの場所を与えられたのだからどんな仕事を任されようと拾ったオヤジが俺をどう使おうとオヤジの意に逆らうことなど俺には考えられなかった。

 俺にとってオヤジは数少ない心から信頼し総てを懸けても良いと思える人間だった。


離人(りひと)。仕事だ。取り合えず駅前で待ち合わせてあとは相手に合わせてくれ。

 ……なに、いつもと対して変わらない仕事だ。資料を渡しておくから事前に目を通しておいてくれ。お前が行けば大概の女は落とせる。よくできた才能だな。」

「あぁ……。」

 そう言って口の片端を上げて笑うコイツは一応、仕事上の上司で歳はだいぶ下だが、名目上、正式に組に属しているコイツの方が立場は上……と言ったところだろうか……。

 俺はもうこの仕事を三十年近く続けている。気分の良い仕事ではないが、天涯孤独の俺には性に合っている仕事だと思ってはいる。


 時計の針が午後ニ時を過ぎ昼食を済ませ人々が行き交う駅前、中央から少し外れた小さな銅像の立つ待ち合わせの場所で行き交う人並みに背を向け立っていると背後から声を掛けられた。

「あの……架月(かつき)さんですか?」

「えぇ。」

「あの……私……」

沙耶(さや)さん?ですよね?」

「はい……」

「そんなに緊張しないでくださいよ。あんなに電話で話したのに……参ったなぁ……。」

 そこに居たのは薄いベージュのロングスカートにブラウスを着て淡いピンクのカーディガンを羽織った見るからにおとなしそうな一人の女性。彼女は胸元まである緩いウェーブのついた髪をハーフアップに結び大きめのボストンバックを肩から下げてどこがオドオドしながら俺の顔をチラチラと覗き込むように視線を送ってくる。俺の目の前にいるこの女性が今回の相手だ。

 難しい話じゃない。依頼されたら見知らぬ誰かの相手をして依頼主が満足のいく結果を残せばいい。今回はたまたまこの女性と別れたいという男側からの依頼。

 本命の彼女と本腰入れて付き合いたいから相手に浮気をさせて、体よく後腐れもなく別れたい……まるで自分勝手でクソみたいな男だ……だが、今回は彼に依頼されている以上それをやり通すしかない。下処理となる彼女との出会いはあくまでSNSからで、架月(かつき)という人物になりすました職員が何度かコメントやメール、電話のやり取りをして会う段取りを付ける。俺はその内容を報告書で熟読し架月(かつき)という人物になりすまして相手をする。彼女もニ、三度の電話でこうして見知らぬ男に会いに来るのだから……彼に本気では無いのだろう……そんなことを考えながら話をすすめる。

 俺は無邪気に人の良さそうな顔をして彼女に話しかける。

「さぁ!お互いを認識できた事だし、今日はどこ行きたいですか?

 何か食べに行きます?それとも遊びに行きますか!?俺、遊園地とか水族館とか、もう何十年行ってないからあんまり詳しくないですけど……

 あ……ゆっくりしたいです?お弁当とか買って、どっか公園とかでのんびりします?なんか色々やりたいことあって迷うなぁ……。」

 一方的にやりたい事、やりたそうな事を連ねると彼女は戸惑ったようにはにかんで笑う。

「……あ……あの……。」

「?……あ……すいません……。いきなりべらべら話したりして……。でも、沙耶(さや)さんと会えるのホントに楽しみにしてたんですよ……。」

 沙耶(さや)は俺のバツの悪そうな顔を見てクスクスっと静かに笑った。

 こうして見たらなんの不備もないどこにでも居る、おっとりとした女性だ。

「あの……架月(かつき)さん、私、お弁当持ってきたんですよ。味に自信はないですが……。」

 沙耶(さや)は少し大きめのバッグをチラッと俺の方に傾けた。

「ホントに?やったぁ!

 俺、誰かにお弁当とか作ってもらうのって初めてかもしんない!沙耶(さや)さんありがとう!」

 俺は駅前の人目を気にせず彼女を抱きしめる。

「!え!ちょ……ちょっと……架月(かつき)さん⁉」

 彼女はそんな俺の腕を振り払うでもなく俺の腕の中で少し体をすぼめた。

「あ……ごめん、ごめん。あんまり嬉しかったから……。」

 沙耶(さや)を離して頭を掻くと、彼女は少し照れたように微笑みながらうつむいたが、俺の差し出した腕に細い腕を絡ませてくる。

 その日は二人で宛もなく街を歩きながらたまたま見つけた雑貨屋や路地裏の服屋、公園までの一時間程の道のりをゆっくりと歩いた。公園で沙耶(さや)の作った弁当を食べ、芝に寝転び……他愛のない世間話をして夕方まで過ごした……

 沙耶(さや)は“予定があるから……”と夕方のまだ陽の落ちない早い時間に別れた……その様子から俺は彼の所にでも行くのだろうと行動に伴わない無機質な感情で思った。


 それから数週間、沙耶(さや)と何度か待ち合わせて、いわばデートを重ねた……俺たちは傍から見たら見紛う事なきカップルだったろう。街を歩けば腕を組み、食事をしに店に入ればお互いのものをシェアしながら食べ合い、時折俺は沙耶(さや)の肩を抱く。沙耶もそれに従うように頭を胸に寄せて歩く……。

 アパートの一室、ここは沙耶(さや)の部屋。

 数度、外で会うと彼女は躊躇いもなく俺を自分の部屋に招き入れるようになった。

「ねぇ、架月(かつき)……私……貴方が好き。ホントなの……出会って間もないし、でも本当なのよ。」

「あぁ、解ってるよ。俺も沙耶(さや)の事好きだよ。」

「うん……」

 沙耶(さや)はまるで自分がウソでも言っているかのように“ホントよ”を繰り返す。

「おいで……。」

 その日、俺達はいつもの様に軽く食事をした後、沙耶(さや)の部屋へ行き体を重ね……“好き”だとか“愛してる”だとか……そんな事を言いあっていた。彼女はどこまで本気だったのだろうか……いや……俺が本気じゃないんだ。


 “ガチャ!”


 玄関の開く音と共に部屋に近づいてくる乱暴な足音。沙耶(さや)が俺の腕の中で身体中を強張らせるのが解った。

「おい、沙耶(さや)!玄関の靴……。

 ……おい……そいつ誰だよ。」

 入ってきた男は俺の姿を見るなり声色を変える。男には事前に知らせていたから俺が居ることも知っていて入って来ただろうに演技派だと思ったのは一瞬のことだった。演技で苛立っているのかと思ったが、様子を見れば見るほど奴は本気で苛立っているのだろう。とは言え……自分の依頼で当て馬を当てておいて実際その場面に出くわして苛立つなど身勝手にも程がある。

 沙耶(さや)の顔は瞬時に顔色を無くし俺の腕の中から離れ何も応えずに毛布に包まり小さくなる。

 俺はパンツ一枚の姿でベッドに腰掛けて取りあえず愛の営みに水を刺されたことに苛立つように男を睨みつける。

「おい!あんた、取り合えず着替えてくれねーかな。」

 男は下着姿の俺から少し目を逸らしながら苛立ちを抑えたように言う。

「あぁ。」

 服を着て彼と彼女の間に立った俺はまるで何事も無かったかのように男に尋ねる。

「で?おたくはどちらさん?」

「あ゛?テメーこそ誰なんだよ?人の女の家で何してんだ?」

 俺の平然とした態度は男の怒りを逆なでしたのだろう、男は声を荒げた。

「君の彼女……ね……俺は沙耶(さや)の彼氏だと思っていたんだが……。」

 チラリと沙耶(さや)の方に目をやる。

 沙耶(さや)はまだ毛布に包まり今にも泣き出しそうに俺と男を交互に見やる。

「おい!沙耶(さや)!どういう事だよ?!」

 男は沙耶(さや)に詰め寄ろうと踏み出すと沙耶は毛布の中で“ビクリ”と身体を強張らせる。まるで今にも殴られるんじゃないかと怯えているように見えたのは多分俺の所為(せい)ではないだろう……俺が沙耶(さや)と男の間に立ちはだかると彼は勢いに任せて俺の胸ぐらを掴む……

「邪魔すんじゃねーよ!殺んぞ!」

「殺ってみろ。お前に負ける気はしないがな……。」

 俺は男を睨みつけ男の手首を掴み力を入れて握り返す。

 自分で仕組んでおいてあまつさえ女に手を上げようなど、クソほど反吐(へど)が出る。男は少しばかり殺気立った俺に気圧(けお)されたのか掴んでいた手を離し数歩、後ずさりする。

「……そうかよ。沙耶(さや)、鍵は置いてく。もう、俺の前に現れるな。」

 そう言って机に鍵を放り投げて出ていった。

「……沙耶(さや)……」

 沙耶(さや)はベッドの隅で毛布に包まり膝を抱え顔を伏せて体を震わせている。

「………ごめんなさい………ごめんなさい………。」

「ああ……大丈夫だから少し落ち着け。」

 俺は沙耶(さや)の隣に座り肩を抱き何も言わないままただ頭を撫でる。出来るだけ優しく……沙耶(さや)の震えが止まるのを待つ。

 十分程そうしていただろうか……沙耶(さや)はその間ずっと謝罪を繰り返し一度も顔を上げることはなかった。沙耶(さや)の震えが止まり少し落ち着いた頃合いを見計らって俺はベッドから降りて声をかける。

沙耶(さや)……君の大切な人は俺じゃなかったみたいだね……。俺達もサヨナラしたほうが良さそうだ。」

 沙耶(さや)は少し頭を上げると縋るような目で俺を見る……まるで……“あなたまで私を捨てるの……”そう言いたげな顔で……。

 俺はそれを見て見ないふりをしてそのまま強引に話をすすめる。

「どんな理由があるにせよ、俺も君のそばには居られない……いつか君が本当に愛せる誰かと幸せになってくれる事を願うよ。幸せな一時と思い出をありがとう。」

 そう言って俺はできる限り優しく彼女の頭を撫で部屋を出る。

 その後、彼女がどうなったのかは知らない。実際連絡を取っていた携帯も職場から与えられていた物だしその日のうちに解約してしまうので一切の連絡手段は無くなる。

 その方がこちらは都合がいい……後々連絡が続くと必ず面倒な事に発展する……。


離人(りひと)〜。」

 職場に戻ると相変わらず軽い口調で俺を呼び止め肩に手を回してくる奴がいる。

 どちらかと言えばガラの悪そうなスーツに身を包み、少し色が入ったサングラスをかけて……まぁ、どこから見も気質(かたぎ)には見えない風貌のコイツは俺とは違い仕事はもっぱら裏専門でどちらかと言えば力に物を言わせるような仕事ばかりを好んでするような奴だ。

 普段は絡んでくることはほとんどない奴だが、俺が女関係の仕事をしてると何時もこんなふうに馴れ馴れしく声をかけてくる。

「なぁ、今回はどんな感じだったんだよ?」

 少しニヤつきながら俺の顔を覗き込んでくる。仕事を終わらせ帰ってくるとコイツはこうして俺の相手の事をニヤニヤしながら聞いてくる。

「……どうもこうも無い。いつもと変わらない。今まで通り修羅場を作っただけだ。」

 俺はなんの感情もなく応える。

「……そうじゃなくてさぁ〜。女は?女はどうだったって聞いてんだよ……。当たりだったか?今回は久しぶりに若い子だったじゃん!?」

 こいつの事を言えた義理じゃないのは解ってはいるが、コイツのこう言うところだけは未だに少し苛立ってしまう。まぁ、それがコイツの思惑(おもわく)なのだろう……正式に組みにも属さずそれなりの仕事と給料を渡されている俺に対しての些細な嫌がらせ……オヤジが千離(せんり)を企業させた当初からここに居る俺にコイツはそのぐらいの事しかできないのだろう。

 その後数日が経ち二人は別れ、男からは報酬が入った。


 仕事が立て込んでいたこともあり、彼女の歌を聴きに行かなくなって数週間。俺は彼女の事もどこか頭の片隅に追いやって忘れかけていた。

 仕事帰り夜明け前の街をふらついてると、探していた訳じゃないのに微かに聞こえた彼女の歌があの日の記憶を鮮明に思い出させた。

 歌が終わってしまう前に……

 聞こえなくなってしまう前に……

 必死で彼女の姿を探し路地裏を走る。

 息を切らして彼女の前に立ち、彼女の声を聞いた瞬間に力が抜けていくのが解った。地面に座り込み、煙草に火を付ける……。

 街灯りも消えかかった人のいない路地裏、ドレスにジーンズのジャンパー、かすかに響くギターと歌声、揺らぐ煙、総てがちぐはぐでまるでときの流れがおかしくなったようだ……。

 歌い終わった彼女は、あの日のように微笑(わら)って小さく頭を下げる。ヒールを拾って履き直すと、ギターをしまって振り返る。

「……また。逢えましたね。よかった。」

 彼女はあの日と変わらなかった。

 微笑みながらどちらかといえばガラの悪い俺に“逢えてよかった……”なんて言葉を向ける不思議な人だと思った……。

「良かった?俺を覚えていたのか……?」

「ええ……覚えていますよ。だってずっと聴いてくれていたでしょ?」

 彼女は当たり前だとでも言うように微笑んで首を傾げる。

「……。」

「何となくだけど……また来てくれるような気がしていたから……。」

 少し(うつむ)いたように微笑みながらそう言うと彼女はギターを抱えた。

「なぁ……近いのか?」

「え……?」

「行き先は近いのか?って聞いてんだよ……。」

 ぶっきらぼうに聞いた俺に彼女はまた微笑(わら)って答える。

「まぁ、歩いてニ十分ぐらいですかね……。この時間だし、タクシーを使う距離でもないので……」

 そういった彼女が歩き出す瞬間……俺は思わず彼女を引き止めていた。

「君が嫌じゃなければ、送る……。女が一人で歩くには物騒だ。」

「都会でもあるまいし、そんなに物騒でも無いですよ。」

 彼女はクスっと笑って答える。

 なんてバカなセリフだったのだろう、彼女はいつもそうして一人で帰っているのだから危険が無いことなど考えなくても解ることだった筈なのに仕事でもそんな赤ら様(あからさま)に誘うようなセリフは使わない。

 バツの悪そうに俯いた俺を見た彼女はクスクスっと笑いながら

「そうね……じゃあ、お願いしようかしら。」

 そう言って俺の顔を覗いた。

「ところで、貴方の名前……聞いてもいいですか?私はミオっていいます。」

「……俺はリヒト」

 唐突に名前を聞かれて俺は自分の名前を言ってから、その自分自身の言動に少しばかり面を食らった気がしていた。

 普段、本名は名乗らないようにしていたのに、思わず本名で応えてしまったのだから……。

「リヒト……さん。ねぇ、漢字はどう書くんですか?私は(さんずい)(あめ)(れい)(みお)。」

 彼女は自分の手に名前を指で書いてみせる。俺はそんな彼女の方を見ずに答えた。

「離れる人……。」

 彼女は考えるようにしてから自分の手に俺の名前を書き言葉を濁した。

「……なんだか少し寂しい名前。本名?」

 少し疑ったように聞き返してくる彼女に俺はまた仏頂に答える。

「あぁ。」

「ごめんなさい。人の名前を寂しいなんて、失礼ですよね……。」

 彼女は申し訳無さそうに眉を(ひそ)め俯いてしまった。

「別に気にしない。」

 俺がまた仏頂に答えると彼女は前を向き歩き始める。

 彼女を送る帰り道、少し距離を置きつつ、ほとんど会話もなく歩く。

 彼女の鼻歌が昼の陽気とは変わりまだ少し冷たい夜風に混じり流れてくる……普段、歌なんて聴かない俺にはそれが何の歌なのかは解らなかったが、晩春の夜風に乗るそのメロディーはなんだか心地が良かった。


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