どうしてわたしを見捨てたの
幼馴染の少年が失踪したのは十年前のことだ。
彼と再会したその日、去りし歳月の長さを彼女は実感した。
季節は夏。盆の只中。
陽が沈み始めた夕景。
墓参りのため帰省した旅客に紛れて、当たり前のように彼は立っていた。
風貌は確実に老いている。もはや少年とはいえない。若い頃から苦労を重ねたような、くたびれた青年の出で立ちだった。
失踪当時の制服ではない。田舎者の風体ではない。都会人の恰好でもない。彼女の見識に見当たらない、奇妙な服装だった。
あの日の少年とは、何もかもが変わっていても。
それでも彼は彼なのだと、彼女は直感していた。
「……まさか、生きているとは思わなかったよ」
本当に、生きてくれているなんて思いもしなかった。
なんて感慨はおくびにも出さず、彼女は笑いかけた。
「……こっちこそ。まさかお前が、だよ」
ぶっきらぼうな返答。押し殺しているような声色。
照れを隠したみたいな様子に、やはり彼だと彼女は思う。
「元気にしてた……かはさておいて。どうにか生き延びたみたいでよかった」
間近で見ると、彼女が知る彼との違いはより明白だ。
年齢、服装、だけではなくて。やけに鍛えられている身体、あちこちに見え隠れする古傷。
「……本当に、いろいろあったみたいだね」
「そっちこそ、……いろいろ、あったみたいだな」
「まあ、ね」
少年が、青年になれるだけの時間だ。あの日の少女が、少女のままではいられないのもまた道理。
「なんたって、もう十年だから」
◇
彼と彼女の関係は、小学校に始まった。
小学一年生の春、同じクラスになった。それ以来からどういうわけか、ずっと同じ学級だった。
卒業しても縁は切れない。近郊の中学校は唯一だ。
三年目のあの夏の日までは、同じ教室で過ごしていた。
通算九年間の親交。
その関係は、やはり幼馴染と形容すべきだろう。
ただ一緒にいただけの間柄だ。ずっと一緒にいたというだけの関係だ。親友だ、なんて言いきれるほど互いに踏みこんではおらず、決して恋などしていない。それでも、単なる友人という枠には収まりきらない因縁があった。
彼の九年分を知っていた。食べ物の好き嫌いも、成績の良し悪しも、交友関係も、将来の夢も。
お人好しの善人だった。ことあるごとに誰かの世話を焼いていた。クラスの誰もに愛されていて、いつも遊びに誘われる。そのたび愛想良く応じて、楽しく賑やかに過ごして──最後には、彼女の隣に戻ってくる。
それが当然かのように。夫婦であるとか相棒だとか、からかわれても否定はできない。共に過ごした時間の長さは、厳然とした事実だった。
一緒にいたいと思っていたわけではない。そう考えたことはないけれど、一緒にいるのが自然だった。それが普通で、日常的で、当たり前で、身に馴染んでいた。
きっとこの先も一緒なのだろうと、思いこんでいた。
中学三年生の夏、彼はその姿を消した。
忽然と。
突然に。
その時期を境に、彼女の何かが狂った。
高校生の三年間は瞬きの間に過ぎていく。現実感が薄かった。生の実感が得られない。
彼の姿のない教室がどこまでも空虚に思える。
日々のふとした瞬間のたび、彼の思い出を思いだす。
回想を自覚してしまうたび、虚無感がまた加速する。
彼と一緒に過ごす時間はどこまでも普通の日常だった。
彼と一緒にいない現実が現実と思えなくなるくらいに。
このまま故郷で暮らしていたら、何もかも駄目になる。
彼の記憶に満ちたこの土地では、過去に溺れてしまう。
なけなしの意志を振り絞り、都会の大学への進学を選ぶ。
故郷を振り切るような上京。やけっぱちの大学デビュー。
田舎者だった自分を変える。自殺のように都会に染まる。
量産型の女子大生の姿なら、特別を忘れられる気がした。
気がした、だけだった。
過去の輝きを忘れようとも、現在が輝き始めたりしない。
ひたすら無為に映るだけの、灰色の日々が続いただけだ。
流されるままに大学を卒業。
十把一絡げの企業へと就職。
曖昧な意識で労働を続けて、そして。
◆
「そして、……まあ、仕事でちょっと失敗して。最期はこの町に戻された、ってわけ」
確かに、いろいろなことがあった。
いろいろなことが、何もなかった。
出来事は数多あるけれど、思い出に残る過去はない。
「……大変、だったみたいだな」
「そう、かな?」
敢えて語るほど大変なことはなかった。語るほどの出来事がなかった、ともいえる。
少なくとも容姿だけなら、彼の記憶する彼女とは大きく違うはずだ。都会で垢抜けた外貌は、田舎娘とは見違えるだろう。
けれど、それだけ。自慢できるほどの成長も、笑い話になる失敗もない。空虚でつまらない十年だった、と彼女は自認する。
「ただなんとなく生きていただけの話に興味もないでしょう。それよりわたしは、きみの話が聞きたいな」
失踪していた十年間に、果たして何があったのか。
「話してくれるよね?」
威圧を隠した微笑を見せると、彼もつられて苦笑する。苦々しくて寂しげで、乾いた笑顔。
「そこまで言われなくても話すよ」
その瞳が、遠くを見遣る。目の前に見える彼女より、ずっと離れているどこか。
「十年前──おれは、ここではない世界にいたんだ」
◇
その日、少年は見知らぬ空の下にいた。数瞬前まで、通学路を歩いていたはずなのに。瞬きの間に世界は様変わりしていた。
事態を彼が把握するまでにかなりの時間が要される。娯楽小説に疎い彼は、異世界という概念を知り得なかった。
不幸中の幸いか、召喚者を名乗る人型と出会ったのは数時間後のこと。術式が事故を起こしたために座標の誤差が生じたのだと、未知の言語で意思の疎通が行われた。
混乱があり、憤激があり、対話があり、逡巡があった。
異世界人を頼らなければならない窮地の説明があった。
被召喚者に付与されている特殊な能力の教授があった。
異界の言語を翻訳できる副産物的特典の言及があった。
地球人は潜在的に魔力を秘めているとの講釈があった。
異界人にしか異能を与えられない理屈の解説があった。
必要なら故郷に送還する用意もあるとの補講があった。
真摯に徹し誤解に配慮した姿勢で求める救援があった。
そのすべてが些事だった。
重要なことはただひとつ。
異界に召喚された少年はどうしようもないお人好しで。
目の前で困っている異界の少女を見捨てられなかった。
そうして彼の冒険が始まる。
異世界を救うための戦いだ。
唯一の武器は、召喚に際し授かった瞳。千里の先すら見通し、万物の真贋を見抜くという魔眼。
ただそれだけの、戦闘には役立たない力。
その帰結が、十年にもわたる苦難の旅路だった。
平和な日本に暮らしていた、ちっぽけな少年だ。いくら鍛えたところで、戦闘能力などたかが知れている。苛酷な異世界を生き抜くには、強者の協力が不可欠だった。
世界に名だたる実力者を訪問し、彼や彼女の助力を乞うべく思考を巡らせた。魔眼の力を駆使して周辺事情を把握し、世界の危機や平和や幸福で情に訴え、義理を求めて礼儀を尽くした。
でも、無力な少年少女には限界がある。
最終的に頼りになったのは、ごく平凡な少年の、当たり前の善性だった。
本来の運命ならば手を結ぶはずのない奇人変人が、しがらみの薄い異界の少年のもとへ集っていく。彼の善性に惹かれたり、死地を駆け抜ける胆力を認めたり、単に面白がったりと、理由は多岐にわたっていた。
結果として、事実として。
ちっぽけなお人好しの少年は、他者の力を借りに借りた果て、どうにか世界を救ってみせた。
召喚されてから十年。異界の命運を賭けた死闘や激闘の渦中を生きた少年が、くたびれた青年に成り果てたころだ。
振り返ると、彼自身も不思議に思う。魔眼の扱いに習熟し、長旅で多少は体が鍛えられたとはいえ、根本はごく普通の凡人だった。平凡な庶民が巻きこまれたなら木っ端のように散るだろう激戦の数々を、思い出しただけで肝が冷える。
よくもまあ生き延びたものだと、異界で親交を結んだ友人たちも呆れたように讃えてくれる。
どうして生きてこられたのか。
冴えた剣技が音速に迫り、魔法の余波が地形を変えるような異次元の戦場を、地を這ってでも生きてきた。
そこまでして生き延びようとした理由なんて、彼にはひとつしか浮かばなかった。
この十年。
ずっと彼女のことを考えてきた自分を、彼は自覚する。
失言ひとつで首が飛びかねない交渉の場でも、流れ弾ひとつで命が消し飛びかねない戦の場でも、冗談が数多飛び交う宴の席でも、異性の異世界人とふたりきりの夜でも。
いつでも心の隅に、幼馴染の少女が陣取っていた。
彼女の隣に帰ることが、彼の日常だった。
お人好し故に誘われ請われ、幾多の友人と親交を深め、果てなく遊び歩いた先で──あるいは路傍で泣いている誰かのために不良に挑み、殴る蹴るの立ち回りを演じ──最後には彼女の傍に戻るのが、彼の平穏だった。
だからずっと、考えていた。
世界を救ったら日本に帰りたいと願っていた。
どんな異世界であろうとも、どれほど非日常的な危機でも、彼女のことを想えるかぎり日常との繋がりは切れないと思えた。
その願いが自分を生かしたのだと、彼は思う。
彼女が自分を生かしてくれたのだ。
だから、帰らなければならない。
異界の友人には惜しまれた。好意を打ち明けてくれる子もいた。最初に出会った召喚士の少女には泣いて縋られた。
心が痛まなかった、といえば嘘になる。
なにせ、十年だ。
半ば誘拐されたのと変わらない巡り合わせだとしても、根本ではその在り方が違う異世界の民であっても。襲いくる数々の危機を共に潜り抜け、死の危険に震えながら寄り添うように歩いてきた十年間で、距離が縮まらないはずもない。
それでも、帰るのだと彼は告げた。
さんざん泣いて喚いた果て、渋々ながら少女は頷いてくれた。
役目を終えて帰還する青年は、数多の異世界人に見送られた。一度結ばれた人の縁には違いなどないはずなのに、どうしても彼らのことを「異世界人」としか思えずにいる自分を、彼は少しだけ淋しく思った。
この十年で出会い親しんできた仲間たちとの別れを惜しみ、最初に出会った少女が残る。
いよいよ日本に帰るのだと思うと、緊張が走った。
幼馴染の彼女はいま、何をしているのだろう。
そもそも、異世界と日本では同じ十年が流れたのだろうか。
仮にもしそうだとしたら、彼女はどんな大人になっているのだろう。
送還術式の準備を終えた少女と、最後の会話があった。
十年の思い出を語り、少しだけ涙に瞳を濡らしながら、最後の最後に交わした言葉は事務連絡だった。
一度異界の理に触れた彼は、地球に戻っても魔力が扱えること。
特に魔眼の力の扱いには気をつけるように、との無機質な声音。
それが出会ったあの日のようで、妙に懐かしくて。
別れを悲しみすぎない覚悟の少女に、胸が締めつけられて。
術式が起動する。
視界が暗転する。
身体に触れる空気の質が、明確に切り替わる。
戻ってきたのだ、と。
理屈以上に感覚で、彼は思い知らされていた。
彼女はどこにいるだろう。
真っ先にそれを思考する。十年来の悲願を思う。
とはいえ、行く先の宛てはなかった。
久方ぶりの故郷の記憶はおぼろげで曖昧だが、幼馴染の家の位置くらいは覚えている。しかし、いまも彼女がそこに住んでいるのかは不明だ。二十代ともなれば働きに出ていてもおかしくはない。
焼けつくような陽光と、騒々しく鳴く蝉の声が思考を妨げる。四季の移ろいというものがない異世界に馴染んでしまったからか、状況の意味を理解するのに時間が掛かった。
どうやら季節は夏らしい。
夏季休業の期間ならば、彼女は家にいるかもしれない。が、確証はなかった。
そこで頼れるものがある。
使い慣れている右の瞳を意識した。
少しだけ集中して、視る。
彼女と思しき反応を確認して、歩を進めた。
方向から察するに、彼女は墓地にいるようだ。
郷里の景色を懐かしむように眺めながら思いを馳せる。
戦闘には役立たないとはいえ、極めてみれば魔眼ほど有用な力もなかった。習熟すればするほどに使える機能も増えていく。……いや、それが魔眼の普通なのかはわからないが。
使い慣れるほどに機能が追加されていくこの瞳は、反則級と呼ぶに相応しい恩恵であったと思う。
彼女の居場所を探し当てたのも、索敵の魔眼の応用である。
墓地の入口に差し掛かると、墓参りらしい人影の多さが目についた。
少しだけ、気後れする。
様子からすると、今は盆の時期なのだろう。故人を偲ぶべく訪れている人々に混じって、ほとんど物見遊山で足を踏み入れるのは軽率な気がした。服装も、異世界の送別会で着せられた華美なものだ。極めて場違いではないか。
とはいえ、彼女に会えることに比べたら些細な問題だろう。
開き直って、墓場へと向かう。
一瞬だけ索敵し、彼女がいる方向を再び確認。日本で魔力を使いすぎるとどうなるのか不明なため、長時間の魔眼の利用は避けたかった。
やはり彼女はこの場所にいるらしい。墓石の中を縫うように進み、ときおり段差を上がりながら、胸が疼くのを感じる。
ただの幼馴染と再会するだけで、ここまで心が躍るものだろうか。
帰る場所、日常の象徴。そんな言葉だけでは言い表せない。
この気持ちを何と言うのだろう。
……ひとつだけ単語が浮かんだけれど、若々しく甘酸っぱいそれは、今の彼には似合わない気がした。
この十年間で魔眼のある生活に慣れきってしまったからか、無制限にはそれを頼れない状況が心細くなってくる。一度にひとつの機能しか使えないという弱点を除いても、極めて便利な能力だった。
千里の先まで見通す力は望遠鏡の代わりになったし、旅路の目的地を見定めるにも、戦場を偵察するにもうってつけだ。
万物の真贋を見抜く力は謀略の最中には欠かせなかった。
それらの基礎能力も目覚ましく活躍したが、旅を続けるにつれて更なる力に開眼していくことになる。
物品を鑑定する力は装備を考えるうえで非常に有用だった。
魔力を媒介して索敵する力は有能だし今も仕事をしている。
発言の真偽を判別する力の有用性は言うまでもないだろう。
視界の温度を可視化する力も意外と迷宮探索とかで役立つ。
そして霊体と生体を区別する力も、怨霊が襲い来る洞窟で、役に立っていて。
「…………」
最後の段差を登り終えた。
索敵の結果からすればこの先に彼女がいるはずだ。
感動の再会を前に盛りあがるべき場面のはずなのに。
どうしてか、肝が冷えている。
思いこみがあったのだ。
思い違っていたのではないか。
通り過ぎていく墓石の家名を、確かめながら歩いていく。
ある前提を自明視していた。
現代日本は平和だと思いこんでいた。
殺伐とした戦場を駆けた異世界に比べたら。
彼が過ごした寿命の縮む十年の、ある種の特別視。
自分が危険を潜り抜けたのだから同様のはずだ、なんて。
思いあがっていたんじゃないか。
夕陽の差しこむ墓地のなかで、見覚えのある姓を発見した。
その墓石の手前で止まる。
魔眼の力を意識する。
◆
幼馴染の少女の霊体が、そこに浮かんでいた。
きっと初恋だった感情の対象が、死んでいた。
◆
季節は夏。盆の只中。
祖先の霊が子孫を訪れるという時節。
死者の霊が現れ出ても不思議のない、時期。
陽が沈み始めた夕景のなか、当たり前のように彼女は浮いていた。
風貌は確実に老いている。もはや少女とはいえない。まるで生気を感じさせない、青白い肌の女性だった。
かつて着ていた制服ではない。田舎者だとか都会人だとかは無関係な、生者との縁を感じさせない白装束。
あの日の少女とは、何もかもが変わっていた。
それでも彼女なのだと、信じたくはなかった。
「……まさか、生きているとは思わなかったよ」
死人が笑う。死霊が笑いかけてくる。
まるで死んでなんていないみたいに。
「……こっちこそ。まさかお前が、だよ」
お前が、死んでいるなんて。
自分は生き延びてきたのに。
憤怒とも驚嘆とも悲哀とも言い切れない感情の混濁を、押し殺して言葉を吐いた。親愛すらも留めたせいか、少しぶっきらぼうな返答。
「元気にしてた……かはさておいて。どうにか生き延びたみたいでよかった。……本当に、いろいろあったみたいだね」
いろいろあった、ことは間違いない。紆余曲折の末に世界を救ったりしていた。単なる加齢以上に外見も変化している、とは思うが。
「そっちこそ、……いろいろ、あったみたいだな」
「まあ、ね」
肩を竦める彼女は、依然と笑顔を保っている。
それ以外を忘れたみたいな、機械的な微笑み。
「なんたって、もう十年だから」
その言葉を皮切りに、彼女の過去が語られた。あくまで自身の死には触れない、ただ普通に帰省したような口調。
応じるように、彼も自身の過去を話した。異世界に召喚されて、請われるままに世界を救ったこと。意図してなるべく淡々と、感情を込めずに。
それは自慢に聞こえただろうか。
手柄話に思われることはないか。
気に病む彼を気に留めず、彼女は魔法に興味を示した。求められるままに彼は、魔眼の話をした。
その機能を解説する営業のような口調で。
千里眼と、鑑定眼と、索敵能力と、嘘発見器と。
そして、幽霊を可視化する能力の話をした、途端。
「じゃあ、気づいてたんだ」
彼女の声音が、すっと冷えた。
醒めたような、冷ややかな声。
「わたしがもう死んでいるって」
「……魔眼のおかげで見えているのは本当だけど。お前の恰好は露骨に幽霊だろ」
「あ、やっぱり?」
冗談のような口調で返すと、彼女の冷気も消えていた。
「まあ、隠し通せるとは思ってなかったけど。最初からわかってたなら言ってよ」
「……いったい、何があったんだ」
問うてみても、彼女の表情は変わらない。
無垢で明朗快活な笑顔を保ち続けている。
「別にたいしたことじゃないよ」
なんでもないことみたいに言う。
「ブラック企業に勤めて二年。世間には過労死として報道されたけど、実際は自殺」
世間話のように語られる、それは。
自分のせいではないのかと、問おうとして喉が引きつった。
自ら死を選ぶほどの苦痛。
生を手放したくなる苦境。
そんな状況を知りもせず自分は、呑気に。
彼女を想って生き延びた、なんて。
「…………ごめん」
わけもわからないままに声が出た。それは何を意図する謝罪だったのか。
一緒にいられなかった悔恨か。
救えなかったことへの懺悔か。
そんなことは意にも介さない無機質な笑顔で、彼女は。
「どうしてわたしを見捨てたの──」
ずっと一緒に過ごした幼馴染を見捨てて。
見ず知らずの異世界人のために旅立って。
「──なんて、言うつもりはないよ」
それでも構わないのだと、言外に告げて。
「……どうして」
「そりゃ、きみの失踪が影響しなかったとは言わないよ」
傍にいるべき人がいない。
大切な日常が欠けている。
その欠落が自死の遠因ではないと、言うことはできない。
「もしもきみが傍にいたら、わたしは死んではいなかったと思う」
「それなら──」
「──けど、違う。きみと一緒なら生きていけたっていうのは、きみの不在がわたしを殺したって意味じゃない」
対偶と裏は違うんだよ、と彼女は笑った。
笑顔であることは変わらないのに、妙に悪戯っぽく見える。
それは、高校に通えなかった彼の知りえない論理。
彼が魔眼を得たように、彼女が学んだ知識の一つ。
彼女が異界を知らないように、彼も高校の数学を知らず。
魔眼が彼女を救えないように、何の役にも立たない知見。
「それに、事情を聞かされたら納得するしかないじゃん」
今度の笑顔は諦念だった。同時に呆れも宿した微笑。
「きみがいなくなって。死んだと思って──それだけで、生きていけなくなったなら」
──それはわたしが、弱かっただけのことでしょう?
「……そんなことはない」
「なくはない。だってきみは生きてるし」
「事情が違う」
「同じだよ」
彼も彼女も、突然に引き離されて、互いの生死すら知らず、生きていくことになった。
異世界の命運と過労という程度の差こそあれど、一定以上の危地に追われるに至った。
彼は生き延びて、彼女は生きられなかった。
「それはつまり、きみのほうが強かったってこと」
「────」
その残酷な対比を、咄嗟に彼は否定できない。
あくまで客観に徹した分析に、主観が追いつかない。
「……だとしたら、なおさらおれが悪いんじゃないか」
考えた末に導かれるのは、やはりそういう結論だった。
「お前よりおれのほうが強いとしても。おれならお前を助けられたなら。あの日のおれは、異世界よりお前を選ぶべきだった」
召喚士の少女に請われた程度で、世界を救おうと思うべきではなかった。
望むなら帰還することも許されていたのに。
「……それは無意味な仮定だよ」
彼女はやはり笑っている。困ったように、泣いているような。
「だってきみは、困っている誰かを見捨てられない」
それが初対面の、見ず知らずの異世界人でも。
幼馴染の彼女に比べてあまりに縁が薄くても。
「それでも見捨てられないようなきみだから、召喚されたのでしょう?」
「────」
異世界の人間に救援を求めるなら、相応の人格は最低条件だ。
世界を救ってくれる勝算がないならば、呼ばれるはずがない。
そんなことを──あの日の異世界人は、言っていただろうか。
「きみが召喚されたのは必然」
目の前に浮いているはずの彼女が、遠い。
すっかり陽の沈みきった墓地の暗がりに、消えていきそうな。
「わたしが死を選んだのも、必然」
無慈悲な論理的帰結が、彼女から彼を突き放す。
十年前は傍にいたはずの、どうしようもなく隔てられた相手。
「だから、お願い」
それが最期の言葉だと、眼前の幽霊は笑う。
その笑顔を記憶に焼きつけるみたいに笑う。
「どうかわたしに囚われないで」
彼は決して悪くないから。
彼女の死に彼の責はないから。
彼の力が及ばない領域のことだから。
「きみはみんなの英雄だから」
彼女を救えはしなかったけれど。
その『みんな』に、含まれない亡霊が笑う。
「だから、どうか──」
幼馴染の彼女の姿が霞んで、掠れて。
遺言代わりの言葉は、雑音に紛れて。
気づけば彼女は夜の闇に消えていた。
魔力はまだ、残っている。魔眼は変わらず機能している。
ならば姿が消えたのは、盆が終わったからなのだろうか。
どうでもよかった。
青年は独り、墓石の前に取り残されている。
墓地にはまるでひと気がなかった。そんなことにも気づかなかった。
青年はもはや行き場を喪っていた。
過酷な異世界を生き抜いた理由は、もはや消えていた。かといって、他に頼るあてもなかった。
友人たちは自分のことなど忘れているだろう。今更両親を訪ねようとも思えない。
幼馴染の彼女を喪って、生きる理由があるとしたら。
それは。
「……もしもおれが、ヒーローでいられなくなったら」
見ず知らずの誰かを助けようとは、思えなくなったなら。
「……そのとき今度こそ、おれがお前を見捨てたことになる?」
幼馴染の彼女を救えなかったことが、必然ではなくなる。
彼女を救える可能性を、見捨てていたということになる。
彼の咎であることになる。
彼女は赦してくれたのに。
「……本当に、赦してくれたのか?」
最期の言葉は聞き取れなかった。
「……お前は何を願ったんだ」
墓石に問い掛けても、答えは聞こえない。
いずれにしても、結論は出ていた。
墓前に祈りを捧げてから、その場をあとにする。
「……生きる理由がなくなったって、お前が思っていたようなヒーローでいるよ」
最後に残した一言は、悔恨と絶望に塗れた誓約だった。
いずれにしても決意を新たに、青年は歩きだす。
暗い昏い夜のなかに歩を進める彼の足下で、光が瞬いた。
※
端的に形容するなら、そこは王城だった。
豪華絢爛を極めた大広間。壇上には玉座が対をなし、豪奢な装いの男女が佇んでいる。左右には数多の騎士が控え、鎧姿で広間を取り囲んでいる。
中心には王女。
手に一冊の書物を携え、眼下の魔法陣を見据える。
人智を超えた脅威を以て襲い来る魔王から、王国の民を護る最後の一手を試みていた。
もはや他に打つ手はなく、世界の滅亡は目前。
古の時代に封じられた禁呪と知りながら、それでも異界召喚に頼らざるを得なかった。
彼らは助けを求めている。
たとえばそれは、得体の知れない魔王軍の正体を見破れる者。
たとえばそれは、魔王の呪縛から逃れる異界の魔力を持つ者。
更にその対象は、苛酷を極める戦場を生き抜く胆力を持つ者。
加えて望むなら、縁も理由もなく彼らを助ける善性を持つ者。
高望みとは承知していた。
ひどく微かな勝算だった。
それでも、運命は彼らを見放さなかった。
魔法陣が瞬いた。
祈りに応えて、救い主が姿を現した。
誰とも知れない青年の前に王女が跪き、騎士たちがどよめく。
構うことなく、彼女は請うた。
「お願いします、異界の勇者様──」
取り繕いも欺きもしない、純然たる懇願。
なり振りに構う余裕もない、無様な哀願。
「──どうか、この世界をお救いください」
いずれにしても、召喚された者の回答は決まっていた。
「……仰せのままに」
静かに応えて、青年は笑う。
その笑顔は、この世界にはいない誰かに似ていた。