騏驎
「おじちゃん、大丈夫?」
幼子の声が頭上から降ってきた。その声のお陰か、疲労と空腹で朦朧としていた意識が少しだけ晴れた。
「もうすぐ日が落ちちゃうよ」
私はその幼子の声に答えようと、両腕に力を込め、ゆっくりと身体を起こそうとした。
「あ、ハオ!」
幼子の声と同時に、馬の鼻がぬっと視線に入り、私の顔をべろべろと舐め始めた。馬に舐められることで私の意識がはっきりしてきていることに気づいた。
やがて私の目は馬の顔と、その馬の背中に乗っている幼子が見えてきた。
「……これは、麒麟か?」
幼子を背中に乗せたその馬は、白地に斑模様の身体に、鬱金のたてがみ。角こそないが、知に富んだ友人が語ってくれた麒麟そのものだった。
「きりん? きりんてなに?」
麒麟とは、鹿に似て、毛は黄色く、身体には鱗があり、顔は竜に似、額に一本角があるという伝説上の聖獣だと、知に富んだ友人に教えてもらった通りに答えた。
「ふーん、でもハオはだだの馬だよ。おじさん、馬に乗れる? ハオがここから早く離れろって言っているよ」
「坊、馬の言葉がわかるのかい?」
「何となくだけど。今だって、ハオが連れてきたてくれたのだよ。そしたら、おじさんが倒れてて……」
さあ早く背に乗れ。とばかりに、ハオと呼ばれた白馬が四脚を折り曲げ、背に乗るように促した。
私はふらつく身体に鞭を入れ、幼子の後ろに乗った。と、白馬が立ち上がりながら荒い鼻息を鳴し、藪の方をにらんだ。
「うん、ハオ。やってみる」
幼子が弓を手に取り矢を放った。矢は一直線に藪の中に消え、布を切り裂くような悲鳴が上がった。
「おじさん、しっかりつかまって!」
矢を受けた正体を見なくてもよいとばかりに、白馬はその場から走り去る。その馬脚は今まで乗ったことのある馬のどれよりも速かった。
(この白馬は騏驎だ。やはり噂は本当だったのだ!)
騏驎。俊足の馬で、キリンと読む。そう、この役を与えられた時に助言を求めた知に富んだ友人の言葉がよみがえった。
事の発端はこうだ。
「西の辺境に麒麟が現れたときく。その話の真相を確かめ、麒麟を捕らえよ」
王の命を受け、その家臣が麒麟捜索を賜り、さらにその手下に降されて…… 結局、それを行うはめになったのが、この私だ。
麒麟など存在するのだろうか。と、疑問を抱き、知に富んだ友人の智恵を借り、僅かな手がかりを元に騏麟の捜索を続け、あてもなく彷徨い、遂に疲労と空腹で倒れ、これまでかと覚悟したのだが……
なかなかどうして。
それにこの幼子の弓さばき! 素晴らしい! この幼子が武学を学び成長したら、一体どんな若者になるのだろう。是非ともこの目で見てみたい。
その幼子の親御と対面するなり、私は附してこの幼子と白馬を私に預けて欲しいと懇願したのは、当然の成り行きだった。
白馬は私の主を通じて王に献上され、王の牧場へと送られたが、誰もその背に乗せようとせず、困り果てたわが主の命をうけ、何度もその牧場に参上することになった。
その留守の間、麒麟捜索に助言をくれた友人が、私に代わって幼子に武学を教えてくれるようになった。
もう、何度牧場へと往復しただろうか。思わず友人に愚痴をこぼした。
「おそらく、白馬は乗り手を選んでいるね」そしてその乗り手は幼子だ。と友人も私と同じ考えを口にした。
「あの子は、教えること教えること、あっという間に自分のものにしてしまう。俺の師に幼子のことを話したら、是非会いたいそうだ」
私と友人は酒を酌み交わし、幼子の成長ぶりとその将来を肴にして談笑しあった。
そんな日々も突如終わりを告げる。そう、その日も私は都へ呼び出され、幼子と友人に見送られ、その旅に出ようとした矢先だった。地平の彼方から土埃をあげてこちらに向かう影を認めたのは。
「ハオだ、ハオが帰ってきた!」
白馬は幼子の元に辿り着くなり、どうっと倒れた。
その白馬の身体は刀傷だらけで、泣きじゃくる幼子の膝枕で白馬は静かに息耐えた。
私達はその光景を見守ることしかできなかった。
どのくらいそうしていただろうか、幼子は涙を拭い、私達の瞳をじっと見つめ、都にはあがらない。と、きっぱり告げた。
「おじさん、ハオに醜い命を下した者の元に参上することはできません」
幼子と死んだ白馬が溶け合い、その姿を変えた。
鹿に似て、毛は黄色く、身体には鱗があり、顔は竜に似、額に一本角…… そう、麒麟がそこにいたのだ。
「……坊」
「ああ、何時になったら、この世にまことの王が現れるのでしょうか」
麒麟はそう嘆き、私達に礼と別れの言葉を告げ、一直線に空に向かって駆け出した。
私達は、ただただ見送ることしかできなかった。