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4月2日から始まる3月31日  作者: 麩枕
彼女は起きて月に想う
6/9

5話 引きこもりの3月31日


 退院してから、大体、きっと、たぶん、おそらく半月くらいたった。外に見えている桜の木は、桃色だったのが緑に染まっている。


 あの日から私は、立派な引きこもりだ。


 読書はしていいけど、携帯やパソコンなどの電子機器は、すべて姿を消してしまった。テレビはつかなくなった。カレンダーもなくなった。


 普通とは違う鍵が二つ、いつの間にかついていて、自分じゃ外には出られない。ここはマンションの十二階の部屋だから、窓からも外には出られない。

 むしろ私が外に出ようとすると、悠月が外に出さないようにするので、私はあの日から外に出ていないし、悠月以外の人と会っていない。

 買い物などは悠月がしてきてくれるので特別外に出たい訳じゃないけど、散歩もできないのは運動不足になりそうだなと思う。


 仕事も止めてしまった。

 まあ、いずれは止めるつもりだったのだ。時期が早くなっただけとも考えられる。

 きちんと家事はするから、断じて、そう断じてニートではない。


 ……ニートでは、ない。(大切なことなのでもう一度)


 『3月31日』のせいで、日付感覚が薄れていった。毎日同じことを言われ続けると、狂ってしまいそうになる。狂ってしまったと、そう思ってしまう。


 だけど、引きこもっていれば日付なんかほとんど関係ない。時間は把握できないけど、曜日が分かればけっこうなんとかなるものだ。

 その事に気づいてからは、けっこう安心して毎日を過ごしている。


 軟禁されているようなものだけど、私にとってはやっぱり引きこもりなのだ。


 大体悠月のせいだけど、私は悠月がいるから、こんな毎日も苦ではない。

 悠月さえ居てくれれば、私は幸せになれるのだ。





「おかえり悠月。仕事、お疲れ様」

「ただいま深雪。今日は3月31日だ」

「うん、そっか」


 彼は朝起きた時と、仕事から帰ってきた時に『今日は3月31日だ』と、そう言うようになった。

 私は別に日付なんか気にしてないのに、そうやって言い続けるのは、きっと彼が不安だからだろう。

 彼が『3月31日』と言い始めたのは、確実に私の記憶がないところに関係している。その記憶を思いだそうとしても、濃い霧の中にいるみたいに先がまったく見えない。

 この記憶を思い出さない限り、この『3月31日』は続いていくんだと思う。



 

 テレビもスマホもないから、最近はご飯を食べた後に悠月の膝の上で本を読んだりすることが増えた。

 密着度が高いと悠月も不安定になることが少なくなるし、私が嬉しいので一石二鳥だ。


 彼はあんなに聞いていた音楽を、なぜか一切聞かなくなった。この家には音声を出すものが少なくなってしまったので、私達の話し声以外聞こえない時もあるし、二人とも黙っている時もあるので、とても静かだ。

 だけど、時間を当たり前のように共有できる存在だとそういう時でも気まずくはならない。


「あのさ悠月、」


 悠月にもたれかかるように言う。覗きこんでくれるから、下から逆さまの顔が見える。


「なに?」

「ふふっ、えっとね、私は幸せだよ」


 悠月は虚を衝かれた顔をした。


「俺は………………、いや、俺も、幸せだよ」


 そう言って悠月は笑った。


 一緒にいる。一緒に笑う。一緒にご飯を食べる。そんな昔からできた当たり前のようなことに幸せに感じる。

 言わなくても、たぶん伝わってはいるけど言わないと、悠月が独りで罪悪感に襲われてしまうかもしれないから私は言うのだ。

 この生活が、幸せだと。あなたといることができて、幸せなんだと。


 きっと悠月が好きなことを、再確認しているのだ。それとも私は、悠月にまた恋に落ちているだけかもしれない。


 毎日が狂っていても、外になんか出なくても、悠月と二人で、私は幸せだ。





「…………ん」


 まだ暗いのに、急に目が冴えてしまった。部屋は少し肌寒く、風が吹き込んでいた。


(うー、さむっ)


 周りを見回すと、窓が開いている。今日昼に開けたのが、開けっ放したんだろう。昼はけっこう暖かくなってきたが、夜はまだ少し寒さを感じる。パジャマを薄手の物に変えたのは、少し早かったかもしれない。


(……ん、よいしょっ)


 私を抱きしめて寝ている悠月の腕を、起こさないように静かにどけて、窓を閉めようと立ち上がった。足の裏がひんやりとする。

 悠月が起きないように気をつけて歩く。



 窓のすぐそばまで行き、視線を下から前に向けると、風でカーテンがたなびいた。

 その向こうに見えた雲が晴れ、光が覗く。


 ──────満月だ。



 今日は、月が、とても綺麗で。

 暗闇の中で、淡く輝くその満月に、なぜか私は、ひどく目を奪われた。



 それに引き付けられるままに、窓の向こうへ手を伸ばす。


(……いたッ)


 ズキリと、頭が痛む。

 心臓がうるさい。

 身体が、縫い止められたように動かない。

 足がすくむ。

 右目の奥が、熱い。

 だんだんと熱を持っていき、このままだと焼け切れてしまいそうだ。


 だけど、手を伸ばすことは止められなくて。


 ……月に目が吸い込まれてしまいそうだと。そう、思った。




「……あっ」


 突然腕が後ろに引かれ、身体が後ろから抱きすくめられた。カーテンが閉められる。


「……深雪、」


 身体の強ばりも、頭の痛さも、目の熱も、悠月を認識したとたんにふっと消えた。

 暖かな身体に包まれて、安心する。緊張していたことを、その時に気づいた。


「悠月……」

「…………どうした?」

「寒いから、窓を閉めようと」

「……そういうことじゃなくてさ」


 自分でだって原因がわかっていないのに、どうやって説明すればいいのか。『月から目が離せなくなり、次に頭が痛くなって、身体がなぜか固まってしまった』なんて言ったら、いろんな意味で心配されることは間違いない。

 この人に、私よりも不安定なこの人に、どうして心配をかけるようなことができようか。


「……起こしちゃった? ごめんね」

「いや、……深雪、…………大丈夫、か?」

「……ん」


 悠月がいたことで大丈夫になったのだ。嘘は言っていない。


「ほんとに?」

「……うん、なんでもないよ」

「…………そっか」


 悠月はそう言い、いきなり私を抱き上げた。


「えっ、ゆ、ゆづきっ?」


 すごくびっくりした。いきなりお姫様抱っこをするのが、最近の悠月の流行りなのだろうか。

 そのままベッドまで運ばれて寝かされた。頭の後ろがふわふわする。


「……眠いんだろ? 寝ろよ」


 頭を撫でて、布団を私にかけながらそう言った。

 言い方は少しきつい位なのに、安心する声色と動作で。さっきは目が冴えてしまったと思っていたのに、強い眠気に襲われた。


 ふわふわとした暖かさと安心に包まれる。目が暖かな手で隠され、なにも見えなくなった。



「お前は忘れたかもしれないけど、俺は覚えているから。お前のことを……よ。……だからな」



 悠月が言ったことを理解する前に、私はそのまま眠りに落ちた。




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