2話 あなたと私の3月31日
目が覚めると彼が覗きこんでいた。
「おはよう深雪。今日は3月31日だ」
「おはよ、悠月……」
昨日と同じように、彼は言った。
(ん? なんか今、おかしくなかった?)
頭になにかが引っかかった。寝起きの回らない頭で、その違和感をつかもうとする。
何かが変だ。何が変なのか。彼のどこが変なのか。彼の言葉の、どこが変なのか。
……昨日も3月31日だと言った気がする。
そうだ。昨日『3月31日は土曜日だ』と、彼は言っていたじゃないか。昨日が『3月31日』なら、今日も3月31日なんておかしな話だ。小説みたいにループしているわけでもあるまいし。
「……ねぇ悠月、今日は何日?」
「さっき言ったろ? 3月31日だ」
「ほんとに?」
「ああ。……何でそんなこと聞くんだ?」
「……仕事、大丈夫なの?」
「明日は行くよ」
彼は笑って言った。病院で起きた頃に感じた瞳の暗さは見間違えたのかというほど、彼は普段通りの目の色をしている。
昨日と今日は、私の認識が確かなら違う日だ。 ループなんて現実じゃあするはずがない。そんなことができるなら、私はどっちかって言うと、ループ能力なんかよりも念力が欲しい。
それに、昨日はたしか起きた時には曇っていたのに、今日は晴れている。雲なんかないくらい綺麗な青空だ。窓の外に見える桜は、昨日よりも散っている。
彼の言葉は矛盾してる。でも、彼はそう言った。彼がそうやって言ったなら、今日はきっと『3月31日』のはずだ。
だって彼は……………………
「っおい、深雪!?」
私は、そこで意識が途切れた。
◇
「……………き…ゆき…みゆき深雪深雪深雪、好きだ、好きなんだ。愛してる。深雪、深雪深雪深雪深雪深雪! お前がいなかったら、俺はどうしたらいいのかわからない。深雪。お前以外はいらないんだ。だから、深雪、俺を置いて消えないでくれ。なぁ深雪、好きだ深雪。愛してるんだ。起きてくれよ深雪深雪深雪深雪深雪」
目が覚めると、彼は私の手を痛いほどに握りしめ、小さな声で狂ったように私を呼んでいた。彼はもう大人になったのに、子どもの頃の泣き顔とかぶって見える。
そんな彼を心配させないように、手を握り返して、なるべく明るい声を出した。
「おはよう、悠月」
「っ深雪!? 大丈夫か!?」
「大丈夫だよ、悠月。私は、ちゃんとここにいるよ。……大丈夫。いきなり消えたりしないよ。ちょっと気を失っちゃったけど、大丈夫だから」
「っちょっとじゃないっっ 俺は、俺は本当にお前が、今度こそお前をっっ」
「大丈夫だって。たぶん貧血で倒れただけだよ。私起きたでしょ。大丈夫だよ。ね? ……ほら、深呼吸して? ヒッヒッフー、ヒッヒッフーだよ」
不安そうな彼を安心させるように片手で握り返し、もう片方の手で彼の頬を撫でながら言った。
私が彼の立場なら、彼のことをめちゃくちゃに心配するから。『大丈夫』なんて、気休めにしかならない言葉を彼に言う。
だから私は、『そんなに心配しなくても良いよ』なんて言葉は、彼には言えない。
「……はぁぁーーーーー、…………それは妊婦がやるやつだろ」
「ん、落ち着いた? それで、私どのくらい意識がなかった?」
「……たぶん、そんなに長く無いんじゃないか?」
「そっか」
「あまり、心配になることをしないでくれ。俺はお前がいなくなると、すぐに狂うぞ」
「ふふっ知ってる。私のこと大好きだもんねー。私も、悠月のこと好きだよ。 ……んー、善処はするよ。自分じゃどうにもならないこともいっぱいあるから。 悠月も気を付けるんだよ? 私もあなたがいなくなれば狂うからね」
「……知ってる。…………俺も、善処はする」
「ん、よろしい」
「…………ふっ、なんだよそれ」
「えへへ、やっと笑った」
私が起きてから、ずっと固かった彼の顔がほどけた。
悠月には、心配をあまりかけたくないんだ。私のせいで困った顔や、悲しい顔をされるのは好きじゃない。
できれば、私と一緒にいることで、笑ってくれたら、私はとても嬉しい。
彼も私も、どちらかがいなくなったら、同じように狂ってしまうだろう。
それだけお互いに依存してるし、そのことを私は昔から知っていた。
……だけど、私が目の前で気絶しただけで悠月はこんな風になるだろうか? 死んだ訳でも、ましてや怪我した訳でもないのに?
彼は昨日も、おそらく一昨日も『3月31日』と言っていた。だけど、私が『ものもらい』だ、とはあの時の一回しか言っていない。
私がものもらいってだけじゃ、彼がこんなにも心配する事に説明がつかない。私が記憶がない間になにかがあったんだろう。私の右目はものもらいなんかよりも、もっとすごいことになっているはずだ。
「ねぇ、今日は何日?」
「…………今日は、3月31日だ」
「ん、そっか。わかった」
彼が日付を覚え間違えているとか、そういうこともあるのだろう。そんな可能性も焦って失念していた。
だけどきっと、これは勘違いでも何でもなくて。たぶん明日も明後日も、その次の日だって、彼は『3月31日』だと言い続けるんだと思う。
悠月が『今日は3月31日』だ、と言ったから。私も今日が3月31日だということを受け入れよう。
今日は『3月31日』だ。昨日がいつかなんて、そんなこと関係がないじゃないか。
私は、そこで思考を停止した。
◇
ここで目覚めてから、今日でおそらく十三日目だ。
この十三日の間で、色々あった。
悠月は毎日来ていたし、両親が様子を見に来たり、大学からの友達の紗奈が見舞いに来たりした。悠月がなにか言ったのか、みんながみんな『今日は3月31日』だと言うようになったし、体調はそこそこ良いのによく気絶したり、警察が取り調べ来たりもした。
人生で警察に取り調べを受けたことがある人間はどのくらいいるのだろうか。少なくとも私はされたことがなかった。初めての取り調べだ。すっごい緊張した。
渋い五十代くらいの風間さんと、同じ年くらいに見えた東さんという警察の人たちが来て、ぼやかされていたけど、私が記憶を失った時の事について聞かれた。
思ってたよりも、右目はなんかヤバいらしい。
そうやって、なんかもう色々なことがあったからか、……寝てばかりいたからか、時間が流れていくのがあっという間だった気がする。
今日、私はこの病院から退院する。
「おはよう深雪ちゃん。今日退院だけど体調は大丈夫そうかな? はいこれ、お茶どうぞ」
「あっ、ありがとうございます。体調は寝てばかりいたからか少し身体が重たいですけど、元気ですよ」
「悠月がもう少ししたら来ると思うから」
「はい、わかりました」
「深雪ちゃん、悠月のことお願いするね」
「ふふっ 言われずともお願いされますよ。私は悠月の恋人ですから」
「うん、お願いね」
念を押すように言われた。
少し気まずかったので、もらったお茶を一気に半分くらい飲んだ。それをなぜか芳貴さんは、じっと見つめていた。それが少し不思議で芳貴さんの方を見ていると、
……なんだか、水の中にいるみたいに、音の輪郭が、ぼやけて…………
「………ね、深雪ちゃん」
その声を聞いて、最近こんなことばっかだなぁと考えながら、私の意識は闇に落ちた。
次回「軟禁、またの名を引きこもり生活(仮)」です。
やっとあらすじまでたどり着く。




