1話 始まりの3月31日
「…… 知らない天井だ 」
目が覚めると、シミ一つない天井が見えた。部屋の中が暖かな茜色の光で満たされている。
消毒液の鼻につく匂いと、どこか安心する香りがした。
ここは、どこだろうか。眠った記憶がない。
頭がぼんやりとしていて、身体が重たい。右目に違和感があり、触ってみると布のようなものがあった。包帯でも巻いてあるのだろうか。
身体を起こすと、彼がいた。
私の幼なじみで、恋人の彼。私にとって、なにより一番大切な人。
眠っている彼のサラサラとした黒髪が、赤い日の光に透けて綺麗だった。
私の中途半端な茶色と、日本人離れした青みがかった濃い灰色とは違って、彼の髪と瞳は純粋で、綺麗で、宝石のような黒。私はそんな彼の柔らかな闇がいとおしい。
頭を撫でると、艶やかな黒髪が、とても手に馴染んだ。
私が朝に弱いせいで、あまり見ることができない寝顔をじっと見る。
幼い頃から見飽きてしまうほど見ているはずなのに、見つめてしまうのは、私がこの人に惚れているからなんだろう。
よく見ると、やはりこの人はまつげが長い。
切れ長のシュッとした目も、黒い宝石のような瞳も、通った鼻筋も、整った眉も、顔以外の所だってこの人の全部が好きだ。
彼が私を見たときの優しくて、溶けてしまいそうな瞳が好き。ほどけるような笑顔が好き。苦笑いも、呆れた顔も、怒った顔だって好き。低くて綺麗な声が好き。ケンカしても、私に呆れても、結局隣にいてくれるところも好きだ。
彼と一緒にいると、毎日好きが重なっていく。これ以上好きになることはないと思っても、それ以上に好きになってしまうんだ。
目元の隈をなぞる。いつもよりやつれているようで、心無しか顔色が悪かった。
彼から視線を外し、あたりを見回すと、ここは病院のようだ。
「ねぇ、起きて悠月」
「───ぅんっ…………っみゆき?」
少し名残惜しいけど、肩を揺すって起こすと、彼は定まっていない瞳で私を見た。普段はしっかりしているのに、寝ぼけているとぼんやりしていて可愛い。
「うん、おはようゆづ……うぇっ」
彼のあどけない顔にニコニコしてたら、急に視界がふさがった。安心する匂いがすることに気を抜いたら、だんだん締め付けが強くなってきた。く、苦しい。
「みゆき、深雪、深雪っ!!! 深雪だ! 深雪、深雪!!」
「んぅ、悠月、苦しい。やめて」
起きたらいきなり抱きついてきて締め上げるとは、この人はいったいどういうつもりだろうか。ケンカなら買うぞ?
「深雪、深雪、みゆ「うるさい」っひぁいッ……」
私の名前を呼び続けている悠月の頬を引っ張り、手が緩んだ隙に抜け出した。顔を覗くと迷子のような顔をしていて、目を合わせてくれない。
無理矢理目が合うように手で頬を包んだら、瞳が苦し気に揺らいだ。
「ねぇ悠月、どうしたの? 何か嫌なことでもあった?」
「…………………何でもない」
悠月は瞳をさ迷わせ、何か言おうとしたようだったけど、結局言わなかった。何でもないじゃないでしょう。そんな顔で私が誤魔化せると思っているのか。
「何でもなくなさそうだけど」
「っ何でもないって言ってるだろ。父さん呼んでくる」
やっぱりどこが何でもなくないだっていう顔で言われたけど、医者の芳貴さんを呼びに行ったせいで聞けなくなってしまった。
◇
「やぁ深雪ちゃん。体調はどんな感じかな?」
「芳貴さんお久しぶりです。ここでは先生って呼んだ方が良いですか? 身体は少しだるいけど、元気ですよ」
「……いや、別にそんなことは気にしなくてもいいよ。お義父さんって呼んでくれっていつも言ってるじゃないか」
「だから芳貴さんのことは小さい頃から芳貴さんって呼んでるから、今さら変えられないっていつも言ってるじゃないですか」
そうやって笑って、いつものように返すと、強ばっていた顔がほどけ、安心したように芳貴さんは笑った。
いつもはこの話をしていると『何言ってんだよ父さん!』とか言ってツッコミを入れるのにと思い悠月の方をチラリと見ると、彼は私たちの方を向いているのに考え事をしているのか焦点があってない。
その顔に引き込まれるように見ていると、
「コホンッ」
芳貴さんの隣にいた医者らしき人の咳払いで、現実に引き戻された。
芳貴さんは急に真剣な顔になって言った。
「……深雪ちゃん、君はどうして病院にいるのか自分でわからないのかい?」
「はい。わからないですね。強いて言えばこの右側にある包帯でしょうか。眠った記憶も怪我をした時の記憶もないので、どうしてこれが巻いてあるのかわからないんですよね」
おどけたようにそう言った。
起きたら、自分に身に覚えのない包帯が巻かれているということは、疑問や恐怖を覚えるけど、私にとって大切なことは『彼』のことなのだ。それ以外のことはどうしても優先順位が低くなってしまう。
「……じゃあ、覚えている最近のことを教えてくれるかな?」
悠月とずっと一緒に過ごしているせいで、最近の記憶も少し前の記憶も境界が曖昧に混ざっている。
起き抜けで、頭が重たい今に一番最近のことを、と言われてもすぐには出てこない。
「えっと…………」
お好み焼きを食べたことは覚えてる。
そこから、順に記憶の糸をたどろうとしても、途中で糸がフツリ、と途切れているように思い出せない。
「悠月、お好み焼きを食べたのはいつだっけ? ……悠月?」
彼の方を見ると、私を見ているように見えるのに、視線が交わらない。
ここではないどこかにいるように見えた。
芳貴さんは少し早口で言った。
「深雪ちゃん、思い出せないなら無理に思い出さなくてもいいよ。落ち着いて聞いてくれ。……深雪ちゃん、いや、清宮深雪さん。あなたは「深雪は……ものもらいになったから病院に来たんだ。覚えてないのか?」
芳貴さんは話に割り込んで来た悠月に変な目を向けた。その目線を追うように悠月を見ると、私と目を合わせた。
彼の瞳はいつもの柔らかな闇とは違って、深海のように暗く、深い。
「なぁ深雪、今日は3月31日だ」
悠月はそう言ってわらった。
悠月がそうやって言うなら、きっとそうなんだろう。
さっきまで彼を包んでいたぎこちなさが消えたことに気をとられ、深く考えないで悠月につられて笑った。
新たな違和感が生まれたことに、気づかないまま。
◇
起きて、まず家の匂いじゃないことに驚く。その次に、目を開けて天井がいつもと違うことに混乱した。
きちんと頭が冴えてくると、昨日の記憶が蘇ってくる。私は病院にいたんだった。
昨日は、面会時間いっぱいまでいた悠月が帰った後すぐ寝てしまったのだ。
「……んぅ………………」
身じろぎしたことで私が起きたことに気づいた彼は、私を覗きこんで言った。
「おはよう深雪、今日は3月31日だ。体調は大丈夫か?」
「……おはよ、悠月。ちょっと頭が重たい感じがするけど大丈夫。……そういえば仕事はいいの? 昨日もここにいたよね」
「有給取った。それに3月31日は土曜日だ」
昨日は3月30日だったっけ? だとか、昨日も同じように日付だけ言っていたけど、何か大切なことなんだろうか? だとか、そんなことが頭によぎったけど、悠月がそうやって言ったなら、私の勘違いなんだろう、と感じた違和感を軽く流した。
日付もろもろ都合により2018年です。
この二人はお腹にいたときからの幼なじみで、6歳の頃に結婚の約束をして、お互いのことを片翼のように思っていた、高校二年生の時にすったもんだあってやっとくっついた、25年間一緒にいる結婚間近の熟年カップルです。




