拳奴の檻
――飛び道具使った方が速い?
ンなこた、わかってるんだよ。
#
年の暮れ。
無沙汰にされた荒くれどもがわらわらと押し寄せ、汗臭い男の臭いに満ちた、洞窟。
闇の奥深くでざわめく者どもがひしめき合う中。
ぼぼ、ぼぼぼぼ、ぼぼぼぼぼ……っと、
各所に据え付けられた燭台や角燈へ一斉に火が灯り、辺りが橙色に照らし出された。
ぬうっと男が立ち上がる。
場所は、ひしめき合う男どもに囲まれた、四角い舞台の上。
切創だらけの面を上げ、五つ紋の羽織を帯びた男が、胴間声で我鳴りたてた。
「――呪術・妖術およびあらゆる異能。あらゆる得物の使用を禁ずるッ! 使用を許すのはその身と着ている衣服のみ。――素手喧嘩の極みを、ここに示せやッッ!!」
主催を務めるこの男の宣言のあと、ワっと沸いた男たち。
ここは地の獄、闇の底。
明治という激動の時代の中で本土より排斥された獄潰し共が集う、流刑の島の奥の奥。
屑ども集る、果ての果て。
終わりのおわりのドン詰まり。
つまりは、流刑地の中でも最下層の人間たちが集う、賭場の最終地点だった。
「刻限だ。……これよりこの場は封鎖される」
主催の、青水は瀬川一派の中で代貸を務める男〝道薙〟が告げる。
四方に杭を立て右回りに綯われた縄を張り巡らされた戦舞台を中央に、至るところに松明掛けた燭台を設置して灯りをとった洞窟の中。
戦舞台を囲む男どもが見やる先で、洞窟の入り口にあたる大扉がゴウ、ンン……と重たい音を立てて閉じていった。
「日付が変わるまで、扉は開かねえ。いまは六ツだ。さあ、叩けッ」
どろォン、と低く這い上るような音が、空間に鳴り響いた。
戦舞台の奥に設えた、巨大な太鼓から発せられたのだ。
そこらの男の身の丈を、縦に二つ並べたくらいの大きさがあるだろうか。横倒しにした神木の輪切りを思わせる巨大な鼓は、その異様に相応しい極めて低く轟く音を、身の内から溢れさせていた。
一枚皮で張られた太鼓は、一説によると青水親分・瀬川進之亟がかつて叩き斬った竜の腹の皮でできているという。
そんな馬鹿な、と思わなくもないが、実際のところあの任侠に生きる鬼人としか思えない男を見ると、与太話も真実に見えてくるから不思議なものだ。
「この鼓が百八つを数えるまで。すなわち子の刻まで、音を絶やすことは無ぇ」
道薙が説明をつづけた。
一時間にだいたい十八、ということだ。
周囲の男どものうち、懐中時計などはいからな品を持つ者が、時をあらためて確認する。
どろォんン、とより強く太鼓が鳴り響く。
扉を閉じてなお、外に広がる街――流刑の島四つ葉の最下層たる貧民窟・六層六区に、広がり渡る。
それ故にこの音を、島の住人は除夜の鐘の代わりと成していた。
また、鼓の音のあまりのおどろおどろしさ。遠雷のごとき禍々しさをして。
年越しのこの喧嘩祭は、とある呼称を得ていた。
「それぞれ、戦いに備えろ――『雷神祭』の、はじまりだァッ!!」
どろォんンン…………。
ねじり鉢巻きに六尺ふんどしを締めた男どもが汗を散らして鳴らすその太鼓の音よりなお低く騒がしく、戦舞台を囲む男どもがワァァ、と喝さいをあげた。
ただ、舞台を囲んで互いを見合っていたいくらかの男は。
喝さいをあげることもなく、ただ己の対峙する相手を見据えて唇を引き結んでいた。
戦いに、備える者ども。
ただ己の肉体を頼りに、この戦舞台に立つ者ども。
決戦のときは、すぐそこまで迫っており、
戦に挑む予定である男のひとり、君島清吾も、武者震いをしながら両の拳を握り締めていた。
彼は静かに瞑目し、その拳をはじめて握った日を、想起した。
#
「何と言うか汚いよな、呪い師。手前のやり口ってやつは、よ」
ある日ある時。まだ、彼が本土に居た頃。
雇い主に己の生業をそのように罵倒され、君島は殴りかかった。
そして負けた。
齢十六の、冬のことだった。
長く腰丈を超えてなお伸ばしていた髪がばらばらにほどけて散るままに、地面へ大の字で寝転んで、その上に次第雪が降り積もっていくあの冷たい感覚をいまも覚えている。
自分を殴り倒した男によって衣服をひっぺがされた姿のままずっと寝転がっていたのは、己の情けなさに打ち震え、こうしているのが似合いだという自罰的な意識によるものだった。
それでも、限界は来る。
震えは怒りで歯を食いしばったがためのものから、単純に寒さによるものへと変わり。
くしゃみを幾度かするうちに、顔に貼り付いた鼻水と唾液が凍り付いて、さすがにこのままでいることに危機感を覚えた君島はむくりと身を起こして帰路に着いた。
とはいえ時すでに遅く。ふんどしと草履のみの身体はどんどん熱を奪われていって、おまけに天候は吹雪く一方であった。
君島はがちがちと歯の根を鳴らしながら、腰丈を超える髪をその身に巻き付けて寒さをしのごうとした。
その髪の長さで、首元と腋という主要な血管が通る部位を防ることができたのが、救いとなったのだろう。
彼が倒れたのは、とあるあばら家の軒先であった。
もしその髪の防りがなければ、おそらくはそれより遥か手前で力尽き、命を落としていたはずだ。
「……阿呆な恰好のやつが転がってきたな」
君島の倒れる物音を聞きつけてだろう。引き戸をがらりと開けて現れた初老の男は、君島の風体を見てさもおかしそうに、そう言った。
反論する体力もない君島はぶるぶる震えるままに、男に抱えあげられて囲炉裏の近くに投げ置かれた。
乾いた着物とどてらが己の身体にかけられるのを感じて、そこで意識を失う。
目覚めた君島は、がんがんと痛む頭を振って、己の状況を確かめた。
まだ外は吹雪いているのかガタガタと窓や引き戸がひっきりなしに揺れていて、自分がどれほど眠っていたのかもたしかではない。
「起きたか、呪い師」
声をかけられ、警戒からばっと後ろに飛びのいて距離を取る。
けれど彼の体にはそれだけの運動に耐えうる体力もなく、ぐらぐらっと重心を崩してすぐに横に倒れてしまった。
初老の男はその君島の様子を見てかんらかんらと笑いながら、手にしていた煙管に刻み煙草を詰め、身を屈めて囲炉裏から火皿へ点すと、ぷかりと煙を宙に浮かべた。
火の元によって照らされる部位は煙管持つ手先と、あぐらをかいて着物の裾から出た膝下だけだったが、それだけでも男の体躯の強靭さは見て取れる。
黒く太くごつい。
指先につままれた煙管が竹串のように思えるほど、その拳は巨きかった。
丸みを帯びていながら、柔らかさを感じさせない。拳頭と爪の先があまりにも分厚く硬質化しているのがわかるからだろう。
膝下も同様だ。
皿は肉の内に鉄塊を埋められたような奇妙な質感で突き出ており、いくつもの傷を塗り重ねた上でひび割れた皮膚が脛から足首までを覆っている。
ぽんぽんと煙管を逆さにして叩き、灰を囲炉裏に落とした男は君島の面相をあらためるかのようにぬうっと顔を突き出してきた。
囲炉裏の火で下から照らされた顔は、すり減った雪駄の裏を思わせる異様さだった。
鼻も耳も潰れており、眉はこそげ落とされている。切れ込みのように薄い目がこちらを見つめていた。
唇も薄くひび割れており、大声をあげればいまにもぱりりと血を流してしまいそうだ。
「それほど警戒するな、呪い師よ」
にかりと笑み――と思しき表情を浮かべ、煙管を振って手招く。
先に確認した、男の強靭な身体をしてみれば弱り切った己がいくら抵抗しても無意味だ。合理的にそう判断がついた君島は、板張りに膝をすって男の方へ近づいた。
「おお、反応したな。するとやはり、お主は呪い師か」
「なぜ、僕がそうと判じた」
普段ならば秘めておくことだが、生殺与奪が握られているであろうことここに至っては隠していても仕方がない。君島は正直に認め、判断の根がなにかを問うた。
初老の男はまた、かんらかんらと笑いつつ、指先で空をなぞり君島の身を覆う髪を指した。
「それはお前、その呪髪よ。なまっちろい身体に長い髪。草履とふんどしだけだが、それも仕立てが悪いものではない。十中八九、呪髪を用いた呪いで生計を立てていた者だろうよ」
「……ご明察だ」
「そうか。して、呪い師よ。食の縛りはあるか?」
意図のつかめないことを言いながら、男は腰を上げた。君島は男が土間のかまどへ、火箸で以て囲炉裏の火を移し始めたのを見ながらも、まだ話の輪郭が捉えきれない。
「なぜ、僕に食の縛りなど問う」
「呪い師は術のため、身体に取り入れるものにも制限を加えると耳にしたことがあったのでな。食えぬものを用意しても仕方あるまい?」
ぱたぱたとうちわで火を熾しながら、男はまたにかりと笑った、
かまどの上には、鍋に残った粥と思しきものがある。
食わせようと、いうのか。
僕に。
施して、くれようと……!
君島は思い、腹の底に煮えるような感覚を認めた。
「施しなど――要らない」
ぷつりと髪の一本を引き抜く。
ぎょろりと目を剥き、君島は囲炉裏を飛び越えた。
男の座していた位置を探り、彼の髪を見つける。
あとはいつも通りだった。両手の指先でくるんと二本の髪を結わえ、左手の親指と小指の間に渡す。
右の薬指だけを立てて伸ばし、ぴんと張った呪髪に振り下ろし――
「ふむ、それが主の呪術か」
断ち切る前に、両手をつかんで止められた。
かまどからここまで、二歩はあったはずだった。
だが男は、まるで飛行したかのごとく音もなく、君島の傍らに立ってむんずと手首を捉えている。
枷をはめられたかのようだった。どちらの手も、ぴくりともしない。
立ち上がって蹴り飛ばそうとしたが、立つこともできない。単純に男の方が君島よりも目方があり太い身体をしているから、ということのような気もしたが……それだけで説明を終えるにはあまりにも、あまりにもなにもできなかった。それこそ、首の筋ひとつ動かせはしないのだ。
「ふむ」
と男はつぶやき。
次いで、景色がすっ飛ぶ。
胸をあの歪な膝で蹴り上げられたのだと気づいたのは、背中が壁に叩きつけられてどずんと臓腑に衝撃の波が広がってからだった。背後の壁の向こうでずどしゃ、と音がしている。屋根の雪が落ちた音だろう。ずべちゃ、という音も聞こえる。これは己の吐き散らした胃液の音だ。
よろよろと、立ち上がろうとして、左腕ががくんと折れる。
原因は内臓への被撃だろう。だがそれだけではない。
左の小指が外側に向かってへし折れていた。
「あやうし、危うし」
言いつつ初老の男は、すり減った雪駄面でこちらを見つめる。
彼の右手には、君島が構えていたはずの呪髪があった。小指をへし折りつつ奪い取ったのだ。
「縁を繋げ、断ち切る業か? 私は呪術に明るく――否、その性質からすれば暗く、というべきか。いずれにせよ私にはさしたる知見はないが、ここに込められたる禍々しき力、察するに相手を呪殺せしめる程のものだろう」
しげしげと結ばれた髪を眺めてから、ぽいと囲炉裏の火に放り込む。呪いは浄化の意を持つ焚火か清流に弱い。これで男との間にあった縁は途切れ、呪いを流し込むことはできなくなった。
謙遜するように『さしたる知見はない』と言ったが、そんなことはないだろう。男には十分な呪術の知見が備わっているようだった。おそらくは、君島より上の。
己の分野においてさえ上回るだろうことが推測されて、かえって君島は肝が据わった。
それは良くも悪くも。彼の態度を硬化させた。
「恐るべき力よ。さぞ暗殺には重宝するだろう、さぞ金稼ぎには労苦を積まぬだろう?」
「……だが、そういうことにしか、使えない」
称賛するような男の言葉に、砂を噛むような声で君島は返した。
これに眉根を寄せて、男はつづける。
「ただのひと手間で相手を呪殺する力だ。そのほかに、なにを望む?」
「……汚くない力を」
折れた小指を、無理やりに押さえて元の位置に戻す。
小指を石臼でひき潰したような痛みが襲って涙が滲んだが、それでもそうせざるを得なかった。
拳を握るには、そうするしかなかった。
「遠間から相手の命を断つ業ではなく、」
握った拳は、当然男に向けて構えられた。
「近間において、相手を倒す技が。ほしい」
ただ、自分の意志においてのみ立脚する力を。
そう述べて、君島は立ち上がった。
男は呆気に取られたような顔をして。
それからにまにまと、笑って。
「良い。良い心意気だ。いいぞお主、私の弟子になり体技を極めよ」
そんなことを、言った。
新しい日々の、はじまりであった。
#
とはいえまあ世の中、そう都合よくことが運ぶことはなく。新しい日々は三日で終わった。
結局君島は呪殺の腕を頼ってきた者たちによって見つけられ、師となった男は出会って三日目でその連中によって原型をとどめないかたちにまで痛めつけられ殺された。それはもう、履き古した雪駄よりひどい有り様であった。
あとは君島を雇った男どもに連れられ本土を東奔西走し、最終的に統合協会やらなんやら言う組織によって捕えられ、島流しに遭い。
五年前に着いた先がここ、四つ葉だ。
けれど本土で暴れ過ぎたのか、君島の二つ名〝式髪遣い〟はこちらでも知れ渡っており……警戒されまくった結果一度たりとも呪殺の仕事が依頼されることはなく。髪と体の手入ればかりして過ごすことと相成った。
彼を雇う、赤火の主・九十九美加登――の右腕たる長樂重三という男曰く、「切り札は持っているだけで有用だ」とのことである。
そんなものだろうか。
まあそんなものか。
いまいち腑に落ちないものの、政治事情に疎い君島はあまり気にせず、いまに至る。
呪殺の生業がなくて暇な時間をすべて鍛錬に充てて――己の身一つで相手を倒せる技を欲して、ひたすらに鍛えぬいてきた。
――――――どろォンンンン。
太鼓の音が遠雷のごとく洞窟の中を埋める。
ぱちりと目を開けた君島は、戦舞台を見やる。
この島に渡り付いて五年。
この戦場へ参ずるのは二年目からで、今回が三度目。一度休場しているのは、やられた傷を引きずって参加できなかったからだ。
今日は万全に整えている。
手足は思ったよりも軽く鋭く動く。
ぶるりと、腹の底からの震えを彼は全身に表した。
……舞台は一辺を三間(約五・四メートル)ほどに測られ、杭と縄で無骨に切り取られた簡素な場だ。男衆の熱気渦巻く場においては、あそこの上だけが奇妙に冷ややかに映る。
きっとそれは、戦いの熱と、戦いに浮かされる者たちの熱のちがいが生む断層があるからだ。
あの縄を超えれば鉄火場。
命を燃やして挑むほか、なくなる。
「――第一の喧嘩だッ! 東、君島清吾! 目方二十三貫、身の丈五尺六寸ッ!! 常は呪い師〝式髪遣い〟として赤火に属すが、この祭の間だけは関係無ぇ。とっとと舞台へあげてやれ!」
道薙の言葉によって、周囲の人間がざっと道をあける。
青水主催のため彼の侠客集団が観衆にも多い。それゆえ、赤火所属の君島は本来敵対する存在なのだが……師走年末のこの祭だけはべつだ。
どこの所属のどんな人間であろうと、平等に暴れ、殴り、勝つことが許される。
まあ、敗北したあとでそいつに賭けていた人間からどのような目に遭わされるかまではわからないのだが。
あけられた道をまっすぐに舞台まで進み、君島は羽織っていたインバネスを脱ぎ払う。
着慣れた袴姿だった。長い呪髪は編んで着物の背に入れ込んでおり、縄をくぐると舞台の地面を草履で踏みしめて歩く感覚を確かめる。
じろりと対角線上の杭を見据えると、そこに人影が近づいていた。
「次だ! 西、渡会盛雲! 目方二十四貫、身の丈五尺七寸二分ッ!! 居留地にやってきた独逸の隊商で護衛を務める男、流派は西洋の拳術〝撲身求〟!」
浅黒い肌の、引き締まった肉体の男だった。
渡会盛雲はほとんど剃髪に近い頭で、耳の前から後頭部にかけてのみ、黒々とした髪が残っている。
えらの張った顔立ちは鼻が低く潰れており、笑うと白い歯がのぞく。太く、肩の筋肉とひと繋がりになった首をしており、筋肉が隆起した二の腕を誇示するかのように裸体の上に黒革のチヨツキとズボンを身につけていた。
足には編みあげの革長靴を履いている。この足が、きゅきゅ、と音を立てて爪先で地をにじった。
ぐつくつと、太い首の奥で煮え立つような笑い声を発して渡会は君島を半目で見る。
「呪い師か。ここは異能を使えない場だと知っての登場か?」
嘲るような声音を気にせず、君島はこくりとうなずく。
「僕は仕事に駆り出されることがなく、暇でね」
「それで鍛えた、と?」
「そういうことだ」
ぐ、と腰を低く落とし、飛び掛かれる間合いかを測る。
渡会は半目のままハ、と笑みを漏らし、ぶらぶらと揺らしていた拳をぎゅうと握った。
「付け焼刃でどうにかなると思うなよ」
審判に渡された革の手套を、両者はめる。
投げや関節を使う人間のことを考慮し指先は自由に動くという、いわば「拳打の際に拳を傷めないための」手套だ。
ぎゅりぎゅりとこの手套の感触を手に馴染ませながら、君島は東と彫り込まれた杭に背をあずける。渡会は同様に、対角線上の西と彫られた杭を背にした。
どろぉぉんンン。またも太鼓が鳴り響く。
「さあ張った張った! 次の太鼓で賭けは締め切り、開始するぞ!」
道薙が叫び、そこかしこで男たちが賭け金を投げ合い、賭け札を取り合う。
いまのところ、やはり拳術に関して渡会が優勢とみられてか。君島の方が大きく倍率が上がっている。
当然のことではある。護衛として拳術を用いるというのなら相応の使い手であるはずだ。
加えて体格の差もある。着物と袴の中で稼働のときを待ちわびる君島の筋肉も、かなり鍛え上げ太い腕と脚を誇っているが……渡会はその上を行く。発表された目方も一貫(約三・七五キロ)多く、上背も一寸二分高い。
それはより重く、より遠くに打撃を放てることを意味する。
立って殴り合う条件においては、かなりの不利を被ることだろう。
向こうで笑みを絶やさぬ渡会も、それを知ってか余裕のある顔つきで賭け札の増減推移を見守っていた。
やがて。
賭け札の行き来があらかた片付き、いよいよ開始が迫る。
盛り上がりつづけていた観衆の声が少しだけひそやかになり、笑っていた渡会が頬を引き締める。
君島の顔も、こわばっていることだろう。喉が渇き、腹の奥底が冷える。
静かに細く息を吐き出し、丹田に力を込めて弱気を払った。冷えた腑に、喝を入れて前に出る。
「っせぁッ」
応じて渡会も一歩出た。
視界の端で、太鼓打ちがゆっくりとばちを振り上げるのがわかる。
周囲の音が静まり返っていく。
それが現実にそうなっているのか、極度の集中によってもたらされるものかは、わからない。
これまでの三度ともこのようになっているので、君島はそういうものなのだ、と解していた。
事実がどうあれ、どうでもいい。
渡会の構えが、目に入る。
左半身。
左拳は顔から三、四寸の位置にかざされ、右拳はさらに近く、顎を守るように配される。
腋は締められており、窮屈そうな肩の縮め方がなされ、両足の位置も狭く取られた。
きゅ、きゅ、とかかとを小刻みに浮かせて体を居付かせないようにしている。なんとも身軽な足捌きだ。
対する君島も左足を前に出す。
けれど、前にかざすのは右手だ。地に向けた肘を軽く曲げ、相手の左拳が顔めがけて飛ぶであろう軌道を塞ぐ。
左手は低く、膝より前に出過ぎないようにしながら、中段に構えられた。
両手が上下に分けられる。
この独特な構えが、三日だけ師となった男により教わった技である。
ほう、と渡会が目つきを変える。
二人の視線が、間境を探って交錯する。
――――どろぉぉん
開戦の合図に、渡会は飛び出してきた。
矢のような速さだ。あの足捌きが生む速度だろう。
ひゅるりと息を吐き、君島は左に身をかわす。
身がまだ空中にある間に、渡会の左拳がブレた。
ぱぁンと君島の右手に衝突し、音が弾ける。
感触は軽いが、とがっている。何度も当たると次第に腕の動きが鈍るであろう拳だ。
その拳に隠して、渡会の目がぎょろぎょろと上下に動いた。
……足の位置と、君島の腰のひねりを見ている。
つづけてもう一撃。左拳が君島の右腕を打った。
これも軽い、が、先の一撃でこわばった肉には先よりよく響いた。
おそらくは距離を測っている。
左足前・右手前というあまり見ないだろう構えにおいて、どの程度の位置に君島の腕があるのか。どの距離なら威力を利かせることができるのか。それを察知しようとしている。
呪い師、などと揶揄しておきながら、彼は冷徹かつ真剣に君島を破壊すべく動いていた。
その事実が。
君島の腹の奥底に火を入れる。
「――シッ!」
右拳で打つ。渡会はすでに左拳を引いており、そのまま身をのけぞるようにして拳をかわし、前に戻る反動を利して返礼の右を放ってきた。
速い。という意識が衝撃のあとに遅れてやってきた。
左頬を打たれて、白い光が視界に舞う。とっさに身を引いていたために芯にまでは食らわなかったが、重たい拳だった。
連なる打撃。左の拳が右腕を打ち、それをいやがって引こうとしたところに一歩踏み込んでくる。君島が前に出した左足の爪先を死線とするなら、そこを超えてきた。
肉薄した渡会の左拳がうなりをあげる。右のこめかみ――と思い防御を上げると、ずむんと脇腹に被撃。上と見せかけての下だった。一貫の体重差がこれほどの重みを生むのか、と君島は歯噛みする。
「ぐむ……」
痛みの波が広がっていく。
肋骨は、折れてはいない。だがこの男はつづけて連打しようとしている。二発目は耐えるか。だが三発目以降はわからない。
ならばと、君島は左足を半歩進めた。膝を内側に倒して上体を前に引き入れる。
この勢いに載せて。
前に出ていた渡会の額に頭突きを食らわせた。
「ぐ、お、」
のけぞり離れる渡会。
ここに向けて、顔の前に構え直した左拳で追撃する。後ろに離れる相手に向けてだったため大きなダメージではなかっただろうが、拳頭で右頬をしたたかに殴りつけた感触がある。
上体を後ろに倒したまま、けれど渡会はたたらを踏むことはなかった。鍛え上げた重心の制御によるものだろう、君島の死線からは出たが、足捌きひとつで地面に足裏を吸いつかせた。
うねり、寄せ、返す波のごとくそこから上体を揺り戻す。脇を締めた小さな構えの中から、小さな動作で左を放ってきた。
右手の甲でぱしんと外へ払う。
同時に、踏みしめた左足を軸足にして右の下段回し蹴りを打ち込んだ。
渡会の左の太腿と、鍛え上げた君島の脛が快音を立てる。渡会は表情ひとつ変えないが、響く一撃だったことはわかる。
すばやく足を戻し、再度蹴りを打ち込む。だが二度同じ技は食わなかった。足裏を滑らせるように前に出てきた渡会により、蹴りは威力が乗り切るより先に止まる。回転半径の根元に来るほど、蹴りは威力を減ずる。
またも死線を超えられたことで、渡会の獰猛なる拳が食らいついてきた。己の右腕が死角を生んでいる位置から、右のこめかみと脇腹を交互に狙いくる左拳の鉤突き。
渡会の胸から肩、首にかけての身のひねりと筋肉の隆起がかろうじて上下の打ち分けを察知させるが、それも十全とはいかない。防げたところで右が飛んでくる。
君島は両腕を掲げて閉じ、亀のように首をすくめた。
そのままぐっと上体を屈め、頭を前に突き出す。接近されたならばまた頭突きをかましてやろうと考えてのことだった。
ところが頭頂部に命中を感じるより先に、顔面のど真ん中に撞木をぶち込まれたような絶大な重みを感じた。
首がめしぃと音を立て、反り返った。
「ボクサーの前で頭を垂れるな」
真下からの、左の打ち上げ。
おそらくは、君島が身を縮め守るように見せかけ――頭突きの反動を得ようとわずかに後ろに重心を傾けたその動作。それで頭突きの到来を見切り、拳を設置したのだ。
視界が明滅する。
鉄の味が広がり、折れた鼻が塞がってごひゅ、と音を立てる。きな臭い。
たたらを踏んで下がり、背中がぎりぃと音を立てるものにぶつかる。張られた縄だ。
一撃で、持っていた気力の大部分を奪われた。駆け込んでくる渡会の拳がおそろしく映る。
それでも構えを。左足前・右手前の構えを取り、ぼやけた視界の中で君島は右の縦拳を叩き込んだ。
それは渡会の左拳を内側へ逸らす。彼の左腕の上を、君島の右前腕が滑っていくようなかたちになった。
顔面を狙える理想的な迎撃であったが、けれど拳の逸れにともなって肘を跳ね上げた渡会によって拳は防がれる。持ち上がった左肩に右拳は衝突し、顔面に当たるまでにかなり威力を減じてしまった。
渡会の右拳が返す刀で顔面を狙う気配があった。
しかし最初に左頬に食らった一撃が目の周囲に腫れをもたらしており、視認できない。
それでもよかった。
先の右拳で、距離感はつかめている。
打たれるより先に――打て。
奥歯を噛みしめ、左足を半歩踏み込んだ。
見えていない君島を狙う渡会の右腕が、彼の視界を塞いでいるこの瞬間。
低く中段に置き、意識から隠していた君島の左拳が力を発した。
内旋させ、縦拳で顎を打ち抜く軌道。
渾身の一撃が、抉り抜いた。
しかし。
距離は、わずかに足りず。
空隙を抜いた左拳にかぶせるように、一拍子遅らせた渡会の右拳が今度こそ君島の左頬をぼぐんと打ち揺らした。
重く、芯が砕かれる感覚があった。
……届かず、か。
無念に思うのは追いつかなかった。
腰と背中のあたりからひゅっと、立っているために必要な力を抜き取られたような感じがする。倒れるときは、いつもこうだ。
意識は泥沼の底に沈んでいった。
#
君島に賭ける者は少ないため、負けたときに私刑に遭うようなことはない。
ただ師走のこの寒い季節に、ふんどし一丁で放り出されるのはやはり辛いものがある。
ほとんど裸一貫で賭場の隅に転がされていた君島は、目を覚ましてすぐがしがしと頭を掻いた。
腫れた顔のまま、やいのやいのと戦舞台を囲んで叫びあっている観衆を見て、先の攻防を思い返す。
「勝てると思ったか?」
見れば、横に渡会が立っていた。
あの後も戦ったのだろう、顔には君島が殴ったもの以外の傷もついており、右目が腫れで塞がっている。額も切ったのか、血が流れていた。
「いや。勝ちたいと思っただけだった」
正直に言えば、渡会は笑った。
「呪い師のくせに妙なところにこだわる奴だ」
「ここにいる奴は僕だけじゃなく、みんなそうだろう。手段を問わないならなんでもできる島で、あえて手段を選んでいる」
「俺は元から無手が信条だがね」
護衛だと得物を持ち込めんところも多いからだ、と言う彼は手套に包んだ拳を虚空に打ち込んでいた。
「だが、まあ。こだわりがないとひとは意志など持たんのだろう」
渡会はそれだけ言い残すと、賭け札を持って観衆の中へ混ざっていった。
こだわり。
その一言で表せる、ものだろうか。
いまはまだ、わかりはしない。
来年までまた鍛え直しだ、とだけ考えて、君島はごろりと横になった。