其の三
魔術の鍛錬を始めてから三ヶ月が経った頃になると、レオナは初歩的な炎の魔術を行使できるようになっていた。
はじめに訓練を行う対象に炎の魔術が選ばれた理由は、母エルミタージュが最も得意とするものが炎の魔術だからということであった。さらに聞くところによると、どうやら父も同様に炎、あるいは熱を操作する魔術系統を専門に扱うらしい。
魔術の素養、得意とする属性の形質は両親から受け継がれる場合が多く、父母が揃って炎熱系を得意属性に持つレオナも同様の素養を持っている可能性が高いとエルミタージュはふんでいたらしい。
そして、母の予想は的中したと言っていいだろう。本来、鍛錬を始めてから魔術を行使できるようになるまでには早くとも半年はかかるのが通常であった。適正の低い者であれば一年以上、あるいは何年経っても発動できない場合すらありえた。もっとも、大抵の場合はそれ以前に自らに適性が無いことを悟り、その道をあきらめるところであるが。
そもそも、魔術の鍛錬を受けることが出来る者自体が少数派である。魔術とは、一般市民が気軽に学んだり行使したりできる類の技術ではなかった。
剣と魔法の異世界とはいえ、魔術師という存在は決してありふれた存在ではなく、一部の選ばれた者のみに許されるものなのである。
そも、何かを学ぶということ自体が容易ではないのがこの世界であった。日本のように国民全員が義務教育を受けることが可能な国ではないのだ。学校と呼ばれる存在こそあれど、首都クラスの大規模都市に存在しない上に、これに通うことが出来る者は貴族か金持ちばかりである。
それ以外で学問を学ぶ手段となると、教会で説法を受けるか、ごく稀に酔狂者が開いている私塾で学ぶくらいであった。当然、私塾に通う場合はこれはこれでまた少なくない金がかかるが。
レオナのように親が優秀な魔術師であり、幼少より英才教育を受けることが出来る者となると、はたしてどれほどいるものであろうか。
「“我が魔力を糧に燃えよ炎”」
レオナの詠唱に従い、組まれた薪に火がともる。大気が揺らめき、パチパチという木の弾ける音が聞こえる。
「“我が命に従い静まれよ炎”」
精神を集中しなおし、続いて鎮火の詠唱を紡ぐ。それに呼応するように、炎はその勢いを徐々に失ってゆき、ついには一筋の煙を残すのみとなった。
「ふむ。鎮火の速度の遅さと野暮ったい詠唱が気になるといえばなるが、この短期間でそこまでのものを望むのも酷なことであるか」
エルミタージュは腕を組み、一人頷いた。
「よかろう。まずは及第点をやろう。よくやったぞ、レオナ」
「ありがとうございます。母様」
レオナは手の甲で額の汗を拭った。
レオナたちの住むこの町の名はアルキスという。人口規模三〇〇人程度の小さな町である。スロノストス大陸の西部に広がるエスカトルン地方の、さらにその最西端にほぼ近い場所に位置する町だ。
エスカトルン地方には、つい数十年前までは人間がほとんど住んでいなかったという。この地方と大陸本土は魔神王の爪跡と呼ばれる大渓谷とそこを流れる大河で分断されており、双方を繋ぐ橋こそ架かっているものの、その往来は容易とは言い難かった。
そして、それ以上に人が住んでいなかった――正確に言えば住めなかった理由とは、その大渓谷を越えた先のエスカトルン地方には、強大な力を持った凶族の根城があったためであった。
凶族とは何か。それは人類の天敵である。
彼らはゴブリンやオークといった下級の妖魔から、巨人や吸血鬼等の強力な力を持った種族まで多種多様な種で構成されるが、一言で言えば人類と対立している人型の魔物を総称して凶族と呼んだ。
人型のとあえて枕詞をつける以上、当然人型ではない、所謂普通の魔物も数多く存在する。これらも凶族同様、そのほとんどは人類にとっての警戒対象であった。
魔法が存在する世界であると知ってよりもしかしたらとは思っていたが、実際にエルミタージュからその存在を知らされたときの衝撃は小さなものではなかった。恐怖と、そして好奇心が綯い交ぜになったなんともいえない感情が湧き上がってくることをレオナは感じた。
彼ら凶族は明確な意図で我々人族を敵視し、その命を狙ってくる。これは人族の歴史が始まって以来連綿と続いており、いくつかの大戦と休戦期をはさみながらも、争いそのものがなくなることだけは決してなかったという。
そして今から約五〇年程前。時の大英雄オーデウス・トロイメイア将軍率いる王国軍の大攻勢により、当時エスカトルン地方に居城を構えていたドラゴノートと呼ばれる半人半竜の凶族が討伐された。
これによってこの地は開放され、以降は少なくない人族が移り住み、現在に至るまで大規模な開拓が進められているのであった。
レオナの住むこのアルキスの町も、その過程で開かれた開拓者の町である。それを示すように、町の中には未だ建設途中の建築物が目立ち、大人たちは誰しも大そう忙しそうであった。
家の中で引きこもったまま育ったレオナではあったが、そう言われると確かに日中は木槌を叩く音など、建設作業に伴う様々な音が響いていたように思える。靄がかかったようなうろ覚えな記憶ではあったが。
レオナは一度読書に集中しだすと、周囲の音が全く気にならなくなる性質であった。
本格的な魔術の訓練をするために家の外に出るようになると、レオナはエルミタージュより現在の町の情勢やその成り立ちについて教えを受けた。
オーデウスにより開放されたとはいえ、エスカトルン地方周辺には未だ数多くの凶族が潜伏しており、隙あらば人類を狙ってくる。町には自警団が常駐しているため、たまにあるゴブリン等の下級妖魔による襲撃も彼らによって撃退され、被害を防がれてはいたが、一歩町を出るとそういうわけには行かない。
レオナが魔術の訓練を行うために指定された場所は、自警団の演習場であった。魔術、しかも炎の魔術を扱う以上、町中で軽々に行うことは出来ないことは当然と言えば当然である。役割の都合上、その演習場は町の外縁部に位置し、そのため凶族の、あるいは魔物の襲撃の際には真っ先にその牙の向く先であると言えた。
それ故に、レオナは凶族や魔物の危険性についてエルミタージュよりきつく言い聞かされた。演習場にいる間は常に自分の目の届く場所にいるように、そして何か不信なことがあれば即座に知らせるようにと。
レオナは力強く頷いた。
生前は不運と不注意からわずか三〇年でその人生の幕を閉じることになったレオナである。せっかく生まれ変わったのだ。それよりもさらに短い生涯とする気は毛頭ない。出来うることならば、今度は天寿を全うしたいものだ。
開拓地という生まれ。魔物や凶族の存在。前世の日本に比べるまでも無く、その危険度は計り知れない。しかし、だからこそという思いがあった。
この人類の最前線にて生き抜くこと。可能な限り平穏に暮らすこと。レオナはこれをもって人生の目標と定めた。
それにしても、成人どころか毛も生え揃わないような幼子を自警団の演習場などに連れ入ってもよいものなのだろうか。不思議に思い母にそう尋ねると、驚きの回答が返ってきた。
なんと母は、この自警団の元副団長であったらしい。レオナを身篭ったことに伴い、育児がひと段落着くまでの間、休職のような形で長期休暇を取得したのだ。
自警団内部からは育児終了後、元の副団長の立場での現場復帰を望む声があったが、出産と長期休暇による能力の低下は避けられないとして、母はこれを固辞。一般の団員としての復帰を望んだが、これには逆に自警団側が許可を出さず、両者の話し合いの結果、教導隊員として復帰することと相成った。
最近家を空けることが以前よりも多くなってきたとは思っていたが、どうやらこれについての手続きを行っていることが原因であるらしかった。
生前の知識で言えば、教導隊といえばずば抜けた技術を持った所謂エース級の人員が集まる部署である。元副団長、後に教導隊員とは、はたして母はどれほど優秀な人間であることだろうか。
ともあれ、そういった理由でエルミタージュは比較的自由に自警団の設備を利用することが可能であり、この程度ならば問題ないらしい。どこの国でも権力というものは抗い難いものなのであろう。
しかし、とレオナは思った。そのような優秀な人物の子であるという事実は、いったい他者からどのように映るものであろうか。
その話を母より聞いた後に初めて演習場に向かう当日。自宅からの道のりの間、レオナの背筋には冷え冷えとした緊張感があった。下手なことをして母の評判に泥を塗ることになりはしないだろうかという恐れにも似た感情が頭の中を廻った。
――が、そんな感情は実際に自警団員の面々を前にするとすべて吹き飛んだ。
「おおー! このコが副団長の娘さんッスかー! なにこれめちゃくちゃかわいいじゃないッスかー!」
「真赤な髪と瞳の色は副団長譲りですね」
「本当に。姐さんを小さくしてやわらかくした感じ、というか……」
「お持ち帰りしたい。実に」
「おい、自警団内に犯罪者がいるぞ」
「排除しろ」
「去勢しろ」
「魔物の餌にしろ」
「待ちたまえ。君たちは冗談というものを知るべきだ。実に」
「それにしても、個々のパーツは似ているはずなのに全体の印象が姐さんと真逆なのはなぜなのだろうか。こう、見ていると癒される感じが……」
「同意する」
「右に」
レオナは自警団員達にそれはもうもみくちゃにもてあそばれた。頭を好き勝手に撫で繰り回され、抱きかかえられて高い高いをされたり肩に乗せられたりとそれはもうやりたい放題であった。
がたいの良い男連中にちやほやされ尽くすという全くの想定外かつ未体験であるこの事態はレオナの思考回路を見事なまでに完璧に停止せしめ、その状況は痺れを切らしたエルミタージュが鬼のような表情と大声で団員達を一喝するまで続いた。
この事件よりしばらくの間、レオナが自警団員に話しかけられると引きつった笑みを浮かべつつそそくさとその場を離れるようになったことを、いったい誰が責められるであろうか。




