其の一
ざっくり週一くらいのペースでまったり投稿出来ればいいな勢です。
まどろみの中で心地よい暖かさと安らぎに包まれたまま、どれほどの時が経ったことだろうか。覚醒からは程遠い、自意識ともいえない意識の狭間でその安寧を享受していた時間は、しかし突然の終焉を迎えた。
耐え難い寒さと、そして息苦しさが暴風となって襲い来る。それから逃れようと、私は手足をがむしゃらにばたつかせる。
私。私とは誰だ? 誰だとはなんだ? 輪郭のあやふやな意識の中で次々によく知る、しかし未知の感覚が生まれ、そして拡散し、消えてゆく。その間も寒さは絶え間なく牙をむく。息苦しさは続く。
混濁した自我に対する困惑と、全身を蝕む耐え難い極寒の苦痛。逃げようもない感覚の数々に、ソレはただひたすらにもがき苦しんだ。
唐突に、喉の奥からなにかを無理やりに吸い出される感覚。支えが取れたように、急速に肺の中を酸素が満たしてゆく。そして、泣いた。
肺腑に取り込んだ酸素の全てを使って泣き、叫び、そして空になった肺に再び酸素を取り込む。繰り返し、何度も。何度も。
忘我の中で、その命は力尽き眠りに落ちるまで泣き続けた。
幾ばくかの時が経った。未だ覚醒せしえぬ意識の中で、ソレは瞼を開けた。光が刺激となって瞳に刺さり、反射的に目を細める。視界は全くぼやけきっており、物の輪郭もろくに判別することは出来ない。なにか、茶色のものが眼前の高い位置に広がっていることだけがわかった。
不意に、視界をなにかが遮った。二つの影であった。
その目にはやはりはっきりとは見えず、眼前のなにかが如何なるものかも理解することは出来なかった。しかし、それらを見ると心の中を安らぎが満たしてゆくことを感じた。
それらは、それからの短くない間、ソレとともにあった。
一般的に物心がつくと言われる時間、具体的には三年の月日が流れた。その頃にもなると、ソレにもようやく自我というものが確立せしめ、自らがかつて国頭弥涼という名の男であったことを認識することができた。自分が一度死に、そして何の因果か過去の記憶を持ったままに生まれ変わったのだと言うことも。
いったい何事が起きたのかと、過去を思い出そうと記憶の糸を辿る。思い出されるのは初夏の時節、いつも通りの会社終わりの帰り道。そこで突然浮浪者に襲われたところまではなんとか思い出せたが、それ以降はとんと思い出せぬ。
おそらく自分は、あのまま殺されてしまったのだろう。
それを自覚すると、ズキリと後頭部が痛んだ。はっとなって小さな両の手で押さえてみるものの、当然の如くそこには傷跡も何もない。幻肢痛の類であろうか。しかし、生まれ変わって肉体をまたいでまで感じる痛みとはまた随分なものである。
「レオナ。どうした?」
不意に後ろから声が聞こえた。凛として、力強い意志を感じさせる声であった。
振り返ると、一人の女性がそこにいた。切れ長の目と、燃えるような赤い髪が特徴的な麗人である。弥涼との目線を少しでも合わせるためにであろうか、かがみこんだ体勢でこちらを見つめていた。
「頭が痛いのか? どこかにぶつけでもしたのか」
柔らかな手つきで頭を撫でられる。髪が一房、女性の肩から流れ落ちる。ふわりと甘い花のような良い匂いが鼻腔をくすぐった。
「――コブもできていないし、これといって怪我はしていないな」
女性は不思議そうに眉をひそめつつ、腕を組んで首をかしげる。
「最近よくなにもないのにそうしているな。へんな癖でもついたのか?」
弥涼がじっと女性の顔を見つめていると、彼女は言った。
「どうした、レオナ?」
レオナと、女性は何者かの名を呼んだ。
現在、この部屋の中には弥涼とこの女性以外には誰もいない。二人だけだ。その中でもって、彼女が誰かをレオナと呼んだ。誰か、とは誰か? 答えはひとつしかない。考えるまでもないことである。
つまり、今の弥涼の名前はレオナというらしい。
レオナ。どう考えても、誰が聞いても、紛うことなく、女性につけられるべき名前である。別に男子に女子の名前をつけて健康を願うだとか、そういう類のフォークロア的な意味があるわけでもない。
純粋かつ単純に、今の弥涼は女なのである。
約三年。輪郭がはっきりとせず常に揺蕩い微睡む意識と、自由に動かすことの侭ならない未熟な身体ですごしてきた中で、弥涼は自分が女として第二の生を受けたということを認識した。正確に言えばさせられた。
そんな馬鹿なと思った。何かの間違いであれと祈った。神でも仏でも、この際はもう悪魔でもいい。誰か嘘だと言ってくれと過去類を見ない真剣さで心の底から嘆願した。しかし現実は非常である。自らの股座の間に存在していたモノが消失しているという事実を突きつけられ、極大の喪失感と諦めとともに現実を受け入れた。
いくら本来の至上目的のために使用したことがただの一度も無く、専ら単なる排泄器官としてしか機能してこなかったモノであったとしても、約三〇年間連れ添ってきたまさしく自分の分身とも言うべきソレがきれいさっぱり消え失せてしまったという事実は、弥涼の――いや、事ここに至っては今に正しくレオナと呼ぼう。レオナの自尊心的な何かを著しく傷つけた。
名はレオナ。姓がトライアンフであるということも、この三年の間に理解している。つまり、レオナ・トライアンフというのが、前世で国頭弥涼と呼ばれていた者の今世での名であった。
「レオナ?」
ふと気がつくと、先ほどの女性の顔が目の前にあった。
彼女の名はエルミタージュ・トライアンフ。レオナの母である。
「すみません。大丈夫です。母様」
「そうか。ならばよいが。なにかあればすぐに言うのだぞ」
エルミタージュはレオナの頭をもう一度優しく撫でると、その髪にキスをした。
控えめに言っても美人である女性にそのようなことをされ、前世であれば顔が紅潮することを避けることが出来ぬであろう状況であるが、今は自分も一応女であるからか、あるいは相手が母親であるからか、心地良さと僅かながらのくすぐったさ以外には特に感じるところは無かった。
「それにしても、レオナのその話し方はやはり子供らしさのかけらも無いな。もう少しらしい話し方をしても良いのだぞ」
「そんなことを言われましても今更という話でしょう。それに、私のこの口調は母様の影響が少なからずあると思いますよ」
もちろんそれだけではなく、生まれ変わる前の約三〇年分の記憶があるために、今一度時代を遡って子供のような口調で話すことに抵抗感があるということもある。むしろこちらの方が主たる理由であるという説すらある。
「そう言われると返す言葉も無いが。まぁよいか。誰に迷惑をかけることでもなし」
エルミタージュは表情を綻ばせ、何が嬉しいのか幸せそうにそう言った。
「それにしても、レオナは本当に本を読むことが好きなのだな。いつのまにやら随分と文字も覚えて。その本を読むのはもう何度目だ?」
数刻の後、昼食後の昼下がり。本を読んでいるとエルミタージュが感心したような声色でそう言った。
レオナは紐状の栞を頁に挟み、顔を上げる。
「すみません。数えていませんでした」
「あぁ、いや、よいのだ。別に本当に回数を聞きたかったわけではない」
エルミタージュはほんの僅かに眉根を寄せた。
「それにしても、レオナは何かにつけてすぐに謝るな。悪いこととは言わぬが、良いことでもないぞ」
「すみま――」
レオナはすみませんと言いかけて口を噤んだ。
事あるごとにすみませんと言ってしまうのは、日本人の特性であろう。生まれ変わったと言えど、過去の記憶が十全に残っている元日本人であるところのレオナにも、それは色濃く残ったままであった。そういえば過去に外国人の知り合いに、日本人にとっては頭を下げることはそんなにも楽しい事なのかと真顔で尋ねられたことがあった。過去の世界でも今の世界でも、日本人的すみませんの精神は異端であるらしかった。
アメリカなどでは、負けを認めることになるために死んでも謝らないと言う類の人間もいるという話を聞いたことがある。もっとも、アメリカになど行ったことがないので、事の真偽はわからぬが。
「気をつけます」
「ああ。……と、話がずれたな。レオナは本が好きか?」
「もちろん。いろいろなことを知ることが出来ますし、面白いです。何度読んでも飽きません」
幸運なことに、生まれ変わった先であるところのこの家にも、転生前の実家程とまではいかないが、しかし少なくない量の本があった。単純に赤子をあやすためか、あるいは教育のためであろうか。エルミタージュは様々な本を、物語をレオナに語り聞かせた。勇敢な青年の冒険物語。神々より授かった神剣にて、強大な魔法を操る魔王を討つ英雄譚。ドラゴンを友として世界を駆け巡る少年の話。とある発明家の生涯をなぞった伝記。数え上げればきりが無いほどだ。
成長してはいはいが出来るようになると、読み聞かせだけでは満足できぬとばかりに自ら這いずり回って本を求めた。その頃は未だ過去の記憶どころか明確な意識すら覚醒しきっていないような状態ではあったが、その本好きっぷりはまるで魂に刻み込まれているかのようであった。
その甲斐あってか、レオナは早くに文字と言葉を覚えた。本を読んでいる間も母エルミタージュはすぐそばでよく見守り、難しい言葉があったときに隣からそっと教えてくれていたことも大きな要因であろう。
そうして自ら書物を読み、あるいは母からの読み聞かせを受けながらすごしてきたある日。とある出来事をきっかけに、レオナはここが元居た世界とは全く異なる世界。つまるところ、いわゆる異世界であることを知った。
レオナの住むこの家は主に木と石とで出来ていたが、しかしそれは発展途上国では珍しいことではないのだろうと思った。言葉がまったく理解できなかったことも、弥涼であった頃は日本語と、かろうじて英語が少しわかる程度の語学力であったため、そういうこともあるだろうと納得していた。母親の真っ赤な髪の色も、人種によっては赤毛もありえたし、染めている場合も考えられた。そのため、日本ではないどこかの国に生まれ直したのだとレオナは思っていた。
だがそれは、物語の読み聞かせをしていた母のある日の一言によって覆された。
『この物語の英雄とまではいかないが、私も若い頃は冒険者として多くの遺跡や迷宮にもぐったものだ。レッサー種だったが、ドラゴンとだって戦ったことがあるのだぞ』
エルミタージュは誇らしげにそう言ったのだった。
冒険者、遺跡あたりまでならまだギリギリわからなくも無かったが、迷宮と聞いて頭の上にクエスチョンマークが浮かび、ドラゴンと戦ったと言われたところで完全に理解を超えた。少なくとも弥涼であった頃の知識では、ドラゴンとは架空の生物であった。コモドドラゴンはドラゴンではなく大型のトカゲであるし、ドランクドラゴンはただの漫才コンビだ。
信じられずにぽかんと母の顔を見つめていると、彼女はわざとらしくむっとした顔つきになった。
『その顔は信じていないな? よかろう。では証拠……とまではいかないかも知れぬが、これを見れば少しは真実味が増すだろう。“炎よ”』
エルミタージュがかまどに手を差し向けてそう言うと、その中の残っていた薪が突然に燃え上がった。そうして続く『静まれ、炎よ』の言葉を合図に、まるで嘘のようにきれいさっぱり鎮火された。
両の目玉が零れ落ちそうなまでにその目を見開いて驚きを表していると、エルミタージュは得意げになって言った。
『見たか。家の中であまり大層なことは出来んが、母の火炎の魔術の腕はなかなかのものなのだぞ?』
この出来事をもってレオナは悟った。
あぁ、ここは剣と魔法の異世界だと。