其の零
平成二七年、六月二三日。夏至を越え、本格的な夏が徐々に近づいてくる気配こそあれど、夜の一〇時過ぎともなればまだ肌寒さが残る。全身にぶつかる風の勢いは強く、これが余計に体感温度を下げた。スーツの上着を着てこなかったことが後悔されるほどだったが、いまさら言ってもどうにもならない。
ため息混じりに顔を上げる。見上げた空には鈍色の雲が覆いかぶさっており、星どころか月すらも、その影も形も見えない。強い風もはるか上空では吹いていないのか、この暗雲が払拭される兆しもない。あるいは、風に流れているのが見てわからないほどに雲が分厚いのかもしれない。
いや、そもそもと思い直す。都心からは幾ばくか離れているとはいえ、この街はまだ一応、都内に引っかかるそれなりの規模を持った街である。この時間になっても表通りでは煌々と光を放つ店がいくつも連なり、たとえ雲がなかったとしてもろくに星は見えないのであった。
のらりと道を歩く。耳を澄ませるまでもなく、居酒屋やパチンコ店の客呼びが張り上げる声が煩わしいまでに耳朶を打つ。五〇代前後であろうと思われる頭のきれいに禿げ上がった男二人組みがキャッチを逆に捕まえて、まけろだのサービスしてくれたら店に寄ってもいいだのと無駄に高いテンションで交渉をしているのが見えた。二人とも真っ赤に染まった顔色からして、すでに完全に出来上がっている。二件目か、あるいは三件目か。この時間までせっせと残業代を稼いでいた身からすると随分と羨ましいものだ。
羨ましいと言ってもそれは飲みに行くことがではなく、単純に仕事が早くあがっていることがだ。対するこちらはと言うと一〇分そこそこ前に会社を出たばかりで、その上これから駅で電車に乗って一時間強ほど揺られ、さらに最寄り駅から家までまた一〇分以上歩く。帰り着く頃にはほとんど零時である。食事や風呂に入る時間と明日も仕事があることを考えると、好きな本を読む時間すらほとんどない計算になる。
再びため息をつく。このところずっと仕事が忙しく、早く帰れたことがまったくと言っていいほどない。最後に定時で帰れたのはいったいいつのことだったか。一ヶ月前、二ヶ月前……。そこまで考えて、これ以上は不毛なだけなので思考を打ち切った。我ながら見事なまでの社畜っぷりである。思わず苦笑いがでた。
それでも残業代がきちんと出るだけまだましであろうか。残業代が出るか否かがブラック企業とそれ以外の分かれ目だという説を目にしたことがあるが、その論で言うと我が社はブラックではないということになる。いや、それ以前に日が変わらないうちに家に帰れている間はまだブラックとは呼べないだろうか。
くだらない、と今一度口の端が歪む。どうでもいいことを考えたものだ。これも仕事が忙しいのが悪い。心を亡くして忙しいとは上手く表したものだ。この漢字を考え出した人物は実に見事に物の本質が見えている。
忙しさは人を殺す。物理的に。あるいは精神的に。
残業代がいくら貰えようとも、そんなことはたいしたことではない。そもそも金銭というものにあまり頓着しないのが国頭弥涼という男の性質であった。
国頭弥涼。六月に生まれたので、そのまま六月の別名である弥涼暮月からとって名付けられたこの男子は、両親曰く、幼い頃から実に手のかからない子供であったという。
赤子の頃は夜泣きはほとんどせず、また起きている間もきょろきょろと辺りを見回しているだけであることがほとんどで、どこへ連れ歩いても泣き喚いたりすることがまずもってなく、バスだろうが電車だろうが実に静かなものだったという。あまりにも静かに過ぎて、逆に病気の類を心配されるほどであった。
弥涼には二つ年の離れた兄がおり、これが真反対に手のかかる子であったため、弥涼の静けさをより一層際立たせた。兄の名は花月といい、これまた三月生まれであったためにつけられた名である。月の異名から名をとりつつも、あえて単純に旧暦の弥生、水無月としないところに両親のわずかながらのこだわりが感じられないこともないが、弥涼が思うところとしては、名前が水無月にならなくてよかったな、という程度であった。
苗字ならまだしも、名前に水無月は厳しいものがある。
兄の花月であるが、これが赤子の頃は夜泣きかんむし当たり前。一度泣き始めればそれはもう炎が燃える勢いで喚き散らし、抱き上げて揺すろうがあやそうが一切合財関係ないといったふうで、こうなってはもうただただ泣きつかれて眠るのを待つだけという始末であったらしい。
はいはいが出来るようになってからというもの、さらに輪をかけて傍若無人さが増していた。わずかにでも目を離そうものなら即座にいなくなり、よくもまあそんなところでと見つけたほうがうなるような場所で発見されることがままあった。どころか、目を離すまでもなくあちらこちらへ歩き回りたがり、危ないからと母がその手を掴んでたしなめようとなどしようものなら、嵐の如く泣き叫んでこれを嫌がったという。
そんな兄を育てた後であったということもあり、弥涼を育てることは実に簡単で、拍子抜けしたものだとよく母は言っていた。一方父はというと、彼は男が金を稼ぎ女が家を守るという昔ながらの日本的家庭主義者であり、子育てにはあまり関与していなかった。そのため特にこれといった思いもなく、あえて言うならば、母親のストレス発散に付き合うのが大変だったとのことであった。何をもってストレス発散としていたのかまでは聞けなかった。
物心がついてからも兄のその気性の荒さは収まるところを知らず、出かけた先であろうがなんだろうが一切の関係なく、いつでもどこでも癇癪を起こしていた。そのころになると父は、兄が騒ぎ立てるそのたびに拳骨を落として黙らせていたが、あまり効果はなかったように思える。弥涼はもともと穏やかな性分ではあったが、彼らのやりとりを傍目に見ていたことが、そのおとなしい性格を形成する一助になっていたことは間違いないであろう。
手のかかる子ほど可愛いということか、あるいは物理的に手をかけざるを得なかったせいか、母は兄の花月をよくかまった。これによって相対的に弥涼は放っておかれることが多く、その間なにをしてすごしたかといえば、本を読んだ。
父が熱心な読書家であったこともあり、家には多くの蔵書があった。どれほどの量かというと、家の一室に書斎を設ける程度には量があった。その種類も実に多岐にわたり、文学書から学術書、歴史書、実用書、漫画や娯楽小説にハウツー本から聖書まで、あらゆるジャンルの本が納められていた。父はとにかく本を読むということ自体が好きで、その内容は問わないという性質であった。読書家というよりは乱読家といった方がしっくりくるほどだ。
そんな環境の下、弥涼は放っておかれている間の時間のほとんどを本の消化にあて、小学校に上がる頃にはもう立派な本の虫となっていた。
弥涼の頭の中には役に立つものから無駄なものまで、さまざまな知識が詰め込まれていた。そのおかげと言うべきかなんと言うべきか、小中学校と常に上位の成績を維持し続けた。体育の評価だけは中の下といったところであったが。
本さえ読んでいればそれだけで幸せな弥涼であったが、ひとつの転機が訪れたのは中学二年の頃だ。とあるSF小説と、それからたまたまテレビで見た学生らが自分たちで作ったロボットを用いて勝負をするという競技から機械工学に興味を持ったのだ。それからは高校の進路を市内の工業系高等専門学校に定め、そして三年次にて試験に見事に合格。本とロボットにまみれた五年間の高校生活を送ることになる。
その甲斐あってか、三年次にはロボット競技で全国大会出場の快挙を成し遂げていた。この頃には機械工作のみならず情報工学にも手を出し始め、最終的にはロボット本体の作成から制御プログラムの記述まで一通りを独力でこなすに至っていた。
五年間の高等専門学校生活を終えた後は工業系の大学に編入し、さらに卒業後は就職浪人になることもなく、無事に新卒としていわゆるIT系企業に就職した。プログラミングというものは思いのほか、弥涼の心を掴んでいたらしい。そしてそれから一〇年弱、多くはないが少なくもない額の給料をいただきながら、コードと、そして本とともに生きてきたのが国頭弥涼という男であった。
弥涼は夜道を一人歩く。通るのは表通りから一本入った裏道である。僅かながら、表の大通りを通るよりは駅までの近道となる。
道の上にはポリバケツや空のビールケースなどが詰まれており、また汚れやゴミも目に付き、お世辞にも衛生的とはいえない様相だ。当然の如く、常日頃から人通りはほとんどない。精々が居酒屋の店員がゴミ出しをしているのを稀に見る程度だ。しかしそのようなことをあまり気にしない性質であった弥涼にとっては、行き慣れた道であった。
ところが、珍しくもこの日は他にも人影があった。
それは汚れ、くたびれたコートを一枚羽織った男であった。コートは素肌の上に直接着ており、それ以外に身に着けているものはボロボロのジーンズのみといった体である。
一目で浮浪者とわかる見た目をしたその男は、ずるずると足を引き摺るような歩き方でゆっくりとこちらに向かって歩いている。
口元がなにやら動いている。耳を済ませると、口の中でもごもごと何事かをつぶやいているらしいが、詳しくは聞き取れなかった。
弥涼はわずかに眉をひそめつつ、男との距離をすこしでも開けるために道の端へ寄る。この辺りではあまり見かけることはなかったが、それでも浮浪者など全国的にはそれほど珍しいものではない。いる所にはいるものだ。そして彼らはそのほとんどが率先して他者に関ろうとすることはない。浮浪者には浮浪者のコミュニティがあり、その閉じられた枠の中で暮らす術を磨いているのが彼らだ。
弥涼は歩みを緩めることもなく、また男もそうであった。二人の距離は少しずつ近づいてゆき、そして交差する。
「あんたぁ、金ぇ、もっとらんかいなぁ」
不意に、男が声をかけてきた。しわがれた声だ。
予想外のことに弥涼の足は一瞬止まりかけたが、なんとか立ち止まることは避ける。こういう輩は下手に反応することが最も良くない。
歩みをわずかに速め、可及的速やかにこの場を去ることを試みる。二〇メートルほど先には横道があり、そこを曲がれば大通りに抜けることが出来る。
唐突に、頭部に強い衝撃を感じた。急激に体が傾く。両手を使ってその身を支えようとしてみるが、失敗。そのままの勢いで、強かに顔を地面に打ち付けた。手のひらと顔面にじくじくとした痛みが芽生える。そして後頭部に感じる熱。
「人を無視したらいかんとぉ、教わらんかったかぁ」
後頭部に感じていた熱が、痛みに変わってゆく。鼓動がひとつ打つたびにそれは増してゆき、すぐに耐え難いレベルとなった。
意図せずにうめき声がもれる。両の手で後頭部を押さえると、ぬるりとした液体の感触を覚えた。傷口からは出血があるようだ。
「なんとかいわんかぁ」
怪我のせいか、痛覚以外の感覚が鈍い。それを考慮しても男の声は距離があるように思える。おそらく、なにかそれなりの硬さと重さを持ったものを投げつけられて、それが後頭部に当たったのだろう。
警察に通報。いや、その前にまず逃げなければ。血にぬめる両の手を地面に着き、力をこめる。腕が震える。視界が暗い。頭の痛みが増す。辛うじて体を持ち上げる。
再び後頭部に衝撃。地面にたたきつけられる。はたから見れば蛙のようであろうか。肺から空気が漏れ、声ならぬ声となる。
なぜ自分がこんな目に。混乱と怒りとが意識を満たす。だが、なによりもまず逃げねばならぬ。
今一度四肢に力をこめる。体をわずかに持ち上げることに成功したところで、三度目の衝撃。
弥涼の意識は、そこで永遠に途絶えた。