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純白の花嫁

 

第5章 純白の花嫁


枯沢悠一が発見した、×××氏による手記

2013年6月15日

 男が訪ねてきた。

 春子の事で大事な話があると玄関先で言っていた。

 この男は、春子とどういう関係だったのかは知っていた。早く追い出してしまいたかったが、泣き叫んだ彼の言葉が耳に残った。

「春子は死んだ」

 そう、男は言った。


 男に春子を見せた。彼は震え上がった。訳が分からない。

 とりあえず、彼の話を聞くことにしてみた。

 春子は何者かに右腕を切られ、殺されたということ。

 あそこの教会では死者とも結婚式が挙げられること。

 挙式では僕の隣には、棺に眠る春子しかいなかったこと。

 そして、今僕の隣にいるのは、彼女の右腕だということ。

 彼はそれを早口で告げた。

 その話を聞いて、頭の中の何かが弾けた。男を追い出し、一人になった。



 ◇


 はじめは闇で四方が見渡せなかった筈の空は、紫がかった色に変貌を遂げていた。月も星も見えない天は、何処となく僕を感傷的な気分にさせる。風は六月のそれより冷たい。腕捲りをしていた袖を直し、凍てつく寒さに震えた。

 僕と教会を閉じ込めるかのように、灰色の雲が煙に似た姿で渦巻いている。黒と紫と鈍色が混ざり合ったそれは、キャンバスに思うがまま色を置いていった結果を連想させる。

 地面に視線を下ろすと、周りは低身長の草に覆われている。所々草が毟られ、地面が剥き出しになっているところもある。生物の気配も、音もないことが、夜の粛然たる姿を端的に現しているかのようだ。

 先ほど上ってきた階段の方を振り向く。一面の白い壁に、自らが開いた扉が嵌め込まれているだけだ。縦に延々と続くようにも感じられる壁を見上げると、アンニュイな空の色を隠してしまう。雑草に覆われた場所───どうやらここは、教会の裏側らしい。

 しかし、違和を感じる。

 あの手記が事実なら、ここには墓が無くてはならない。墓地だとしたら墓石が満遍なく並べられているはずだが、草花だけで何一つ見当たらない。

 地を見回しながら歩き回っていると、視線の端で何かを捉えた。

 崩れかかった岩が、草の隙間から一部を覗かせている。近付いて草を分けてみると、ようやく全体が見えてきた。四角に切り取られた岩が地面に置かれ、その下に骨が眠っているのだろう。普通は四角を幾つか重ねた上に、外国なら、また十字架やらの岩を乗せるのだが、ここにはそれは乗っていない。墓の先の草むらを見ると、形の歪な岩が倒れている。以前は縦長の四角の形だったのであろう。雨などで風化している。それを立ち上げようと覗き込んでみた。彫られた名前を反射的に見る。

 薄々想像は出来ていたが、その名前を見、絶句した。静まっていた鼓動がまた鳴り出す。

 ───枯沢春子。

 削れてはっきりと読めないところもあったが、深く彫られた文字には間違いなくそう書いてあった。

 その名前を見てから、頭痛が始まった。脳が割れるように痛い。頭を押さえて悶絶する。金槌か何かで後頭部を叩かれているみたいで気分が悪い。

 墓の前に身体を投げ出し、土下座をするような形で前のめりに頭を抱える。───ああ、春。僕には春子という妻がいた。忘れてたわけではないのだ。ちゃんと覚えている。どうして今まで思い出せなかったのだろう。

 突然目の前が真っ白になり、白昼夢を見ているような感覚に陥る。目の前に映る画面は揺れ、一点を見つめることができない。瞳が左右に揺り動き、視点が定まらなくなった。

 僕は必死に、流れる映像を読み取ろうとした。くらくらとし、酩酊しているみたいだ。

 砂嵐の濁流に呑まれ、恐怖から瞳を閉じる。

 被さった目蓋の裏では、ラジオの電波が合わさったようにはっきりとした映像が流れた。どこか懐かしい風景が広がる。僕はその風景を天から覗いているような状態だ。

 これは、僕の過去の記憶だ。

 見慣れた景色、風の匂いすら感じることができる。地面には過去の僕の背中。隣には妻───春子の背中。二人手を繋ぎ我が家に向かっている。そう、五年前、僕の就職と共に彼女とこの街に引っ越してきた。ローンを組み、二人の家を建てたのだ。

 今なら思い出せる春子の顔───いつも笑みを絶やさなかった。流れるような黒髪、伏せ目がちな瞳にかかる睫毛、白い肌。全てが愛おしい最愛の人。

 満月の夜に二人結ばれたこと。何処かの展望台で僕が愛を囁き、指輪を渡したこと。彼女が死んだこと。式を挙げ、この教会の裏側に墓を立てたこと。そして、孤独になった新月の夜。

 記憶が走馬灯のように流れ終わり、僕は目を開いた。春子の名が刻まれた墓石を見て、ひとり涙を流す。

 ───全て、思い出した。

 頭の中で眠っていた記憶が全て解き放たれたのだ。それは、自分が今過ごしている日々を強く否定した。

 今まで見てきたこの世界は、半分でしかなかった。片目を手で隠して歩くように、ぼんやりとした世界。彼女のいない世の中は僕にとって、現実ではなくなっていたのだ。まるで悪夢の中で生きているかのような錯覚さえ憶えた。

 目の前で過去の僕に笑みを向ける春子は、もういないのだ。僕は彼女を亡くしたその日から悲しみを嘆き、絶望に暮れていた。せめて彼女を忘れぬようにと、カレンダーに結婚記念日の印を付けた。六月の七日───そう、今日だ。僕と春子の一年記念日である。どうしてこんなことを忘れていたのだろう。


 そして、もう一つ思い出したことがある。

 ───春子は、僕が殺した。

 黒い手帳には、僕が行なってきた行動が正確に記されていたのだ。こうしてここに来たのも、僕の使命だった。

 何ということをしてしまったのだろう。自分で妻を殺し、それを忘れて今までのうのうと暮らしてきた。きっと僕は、自分が彼女を殺したことを忘れる為に、忌まわしい記憶を心から追い出したのだ。

 自責の念に駆られ、墓を直視することができなくなった。


「───悠一」

 耳元で僕を呼ぶ声がした。───懐かしい、彼女の声。

「───春子?」

 咄嗟に顔を上げると、墓の上に春子の姿があった。身体は腐り果て、顔も生前のそれとは比べものにならないほど醜くなっている。それでも彼女を美しいと感じたのは、僕の選んだウエディングドレスを身に纏っているからだろうか。花嫁衣装も虫に喰われ、純白の生地は土に塗れていた。脚は無く、宙に漂う姿が彼女の死を謙虚に物語っている。

「ここに僕を呼んだのは、春子だったのか?」

 抜け落ちたのであろう少ない髪の毛を振り彼女は、こくんと頷いた。

「どうして?」

 僕はここに呼ばれた理由を聞かずにはいられなかった。聞いても、自分が傷付くだけだと分かっていたとしても。

「───私は、貴方から解放されたいの」

 春子はゆっくりした口調で、胸を刺すような冷たい言葉を浴びせてくる。

「わたしはあなたを愛していた。でも、あなたは臆病だった。いつも何かを失うことを怖がっていた。あの日、私はあなたに殺されたの。あなたは酒に酔っていた」

「あの日、私は貴方に渡したい物があったから買い物をしていたの。かなり遅い時間になってしまったわ。謝ったのだけれど貴方はいきなり私の腕を切り落とした。お気に入りの指輪と共に自分の手が床に落下したことが、凄く衝撃的だった」

 彼女の死後に知った事実は、容赦無く僕の胸を焼いた。自分は何と愚かな人間だったのだろう。徐々に熱のこもる声で、彼女は続けた。

「貴方はよくわからないことを叫び続けて、刃物を振り回していた。なだめようとしても話を聞いてくれなかった。挙句の果てに、私は胸から血を流して死んだ」

「───僕のこと、憎んだだろう?」

 やり切れぬ思いで彼女に問いかける。

「憎かった。貴方が憎くて憎くて仕方がなかった。自分の手で犯した罪なのに、何の罪もないように振舞った。それどころか、私のことを忘れて生活するようになった。いつも私は、貴方を見ていたのに」

 結局僕は、自分のしたことを後悔するどころか、それを闇の彼方に葬り去ろうとしていた。人間失格だ。

「それでも、あなたを心から憎むことができなかった。貴方を愛していたから。あのね、墓場で式をあげたとき、ちゃんと隣にいたのよ」

 険しかった春子の表情が、少し和らいだ気がする。優しい言葉をかけられてしまうと、自分に向けた憎悪が薄まってしまうようで苦しかった。

「春子、ごめんな。僕は間違っていた。浮気してたと思ったんだよ・・・それでかっとなって───」

「私が浮気するように見える?貴方には私はそういう女に見えていたのね」

「───ごめん」

 春子は笑い、僕の肩を叩いた。その指や腕が僕に触れる力はごく微小で、これが彼女と僕の距離なのだと改めて犯した罪が悔やまれる。

「ここで貴方と喋っていたら、もうどうでも良くなっちゃった。実際、ここに呼んだのは貴方と別れる為だったから。私に辿り着くまでに死んでたとしても良かったんだからね」

 笑えない冗談を真剣な顔で言いのける春子は、昔から全く頭が上がらない。彼女はいい意味であの日から変わっていない。

「ああ、そうだ───」

 僕は腰に巻いていた鞄を開き、中を探る。そして探し物を手に持ち、彼女へ向ける。

「───それは?」

「手を貸して」

「───私、あなたに・・・」

「───いいから」

 彼女の右腕を掴み、小さな輪を薬指に嵌めた。骨のようになった指には、少し大きすぎた。

 春子の方を見やると、心なしか頬が赤らんでいるように見える。

「───左腕は、僕が切っちゃったから・・・こっちで我慢して」

 プラチナの結婚指輪が彼女の指元で輝いた。それを見て、もう一つの指輪を僕自身の右薬指へ通す。

「指輪、無くしたんじゃなかったの?」

 抉れかけた瞳を丸く見開き、春子は僕に問う。指輪をなくしたことまで知っているなど、彼女が僕をずっとみていたという言葉はどうやら事実だったらしい。

「それがさ、一年ぶりにこの鞄をクローゼットから見つけたんだ。ここに来ても全く気付かなかったんだけど、さっき裏庭に来るための鍵をこの鞄に入れようとしたとき、手に引っかかるものがあったから」

「それが、指輪だったわけね。ケースに入れないで保管してたなんて、相変わらずなんだから」

 僕と春子は、しばらくの間たわいない会話に花を咲かせていた。彼女は死んでからもこの教会に留まり続け、

「この教会、時が止まったみたいに動かないでしょう?」

 ずっと気になっていたことを彼女から問いかけてきた。僕が頷くと、春子は再びその口を開いた。

「もうここは年なのよ。私がここに居座るものだから、こうなっちゃったみたいね。寿命はとっくに来ているの。本当はいつ壊れてもおかしくないのよ」

 物憂げな顔で喋り続ける彼女からは、感情を読み取ることができなかった。僕は静かに、宙に放たれる言葉に耳を傾ける。

「何にもね、命があって、寿命があるの。人間にも、動物にも、植物にも、建物───この教会にも。その寿命を決めるのは私たちじゃなくて、神様なのよ。あ、笑わないでよ」

「相変わらず神様好きだなあ」

「───もう」

 春子は神様を信じているようで、昔は、僕が失敗すると、「神様の罰が当たったんだよ」と(たしな)められたものだ。

 もしこの建物に来ることも神から与えられた運命なのだとしたら、これも罰となるのだろうか。そうだとしたら、僕にとってはとても甘く優しい罰だ。僕自身、ここに来て多くの事実を目の当たりにした。彼女の言葉のひとつひとつが僕の穢れを洗い流し、元の自分に戻してくれる。もう、過去から目を逸らすことはないだろう。

 こうやって彼女に罪を償い、共に過ごすことで神は、僕を赦してくれるのだろうか。

「───悠一?」

「───ああ、ごめん」

「私たちは、少し過去に囚われ過ぎたのかもね。私は貴方に殺されてから時が止まったし、貴方は私を殺してから、本当の貴方を見失った」

「───ああ」

「それでも、私はもう後悔はしていないよ。死んだのは辛いけど、汚いおばさんになって死ぬ方が嫌だもん。───だから、もう自分を責めないで、悠一」

 出すべき言葉が見つからなかった。ただ僕は、目の前に浮かんだ花嫁を見上げることしかできないでいた。

「私は、貴方と出会えて良かった。こうして再会できただけでも、十分幸せだよ。結婚指輪も貰ったしね」

 右手に嵌められた指輪を見せびらかすようにこちらに向けて、春子は微笑む。腐敗の進んだ顔に咲いた笑顔を見て、僕の頬も自然と緩んでいた。

「───ありがとう、悠一」


 ◇


 地平線から昇る朝日が、仄暗い空を青白い光で染め上げた。教会に纏わり付いていた永い闇が、一切薙ぎ払われたように明るく地を照らす。この感じは、カーテンを開いた感覚に似ている。そう思った。

 最後に聞いた春子の言葉が、脳内で反響する。彼女には何もしてやれていないのに、感謝の言葉を述べたいのは僕のほうだというのに。

 彼女はあの時、僕に「ありがとう」の言葉を放ってから間も無く、暗闇へと消えていった。「一緒に来てもいいんだよ?」という言葉を残して去っていった彼女は相変わらずである。

 小さな風が吹いた。それを合図に世界が動き始めたかのように、鳥の囀りや虫の鳴き声が聞こえた。彼女の言葉が全て本当なら、この教会はすぐに崩れ、瓦礫の山と化す。

 最後に彼女の名が刻まれた墓を撫で、お別れを言った。もう数十年生きれば春子に逢えるのだから、余り悲しくはなかった。そして彼女のことだから、きっとまた天から地上を覗いているのだろう。

 僕は日の昇りきった雲一つない青空を一度仰ぎ、裏庭を後にした。教会の入り口の石階段を下り、生い茂る草の間を歩いていると、背後からは建物が崩れる音がし始めた。自然と早足になり、急いで黒い柵を開き敷地から出る。教会の方を振り向いた時には既に音が止んでいた。

 目の前の建物は、先刻まで嫌になるほど見ていた教会の姿を思い出せぬくらいに崩壊していた。僕の書き残した手帳も、最後まで結局読めなかった。彼女の墓もここに埋まってしまった。時計塔も跡形も無く崩れ去っている。瓦礫の間から顔を覗かせた十字架のモニュメントが、寂しそうに横たわっているのが酷く胸を締め付けた。

 ───これで、いい。

 この教会は、あるべき姿に戻ったのだと自分に言い聞かせる。彼女が天にのぼることで時の流れの均衡が保たれた。これが正しいのだ。

 崩れ落ちた教会を背後に家路につく。またこれから同じような繰り返しの日々を生きていかなければならない。しかし僕はあの場所に行き、強くなった。時々訪れる悶々とする夜

 に、遂に別れが告げられそうだ。

 夢は人の心によって姿を変える。決して自分に安らかな眠りを与えてくれる天使ではない。時には自分に牙を剥き襲い掛かって来ることもあるだろう。それでも自分が作り出した別の世界だと受け止めてしまえば、少しは心を穏やかすることができるかもしれない。

 六月の日差しは僕を包み込み、暖かくアスファルトに降り注ぐ。木洩れ陽が光の線で帰るべき道を指し示してくれる。

 罪深き過去に囚われていた僕を許すかのように、優しくそよ風が頬を撫でた。

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