あきほさんの場合
「あら、まぁ」
ぽつり、思わず零した小さな声は、誰に聞かれることもなく風に攫われていった。
秋穂はその日、人攫いに遭い、そうして二度と故郷の土を踏むことはなくなったのだった。
「・・大物だな」
「そうですか?」
「攫われるって時に、悲鳴を上げるでもなくそれだけ冷静なら大したものだろう」
「はぁ、そうかもしれませんね」
特に感慨もなく淡々と受け答えすれば、正面に座った男が呆れた目線をくれた。
その目線は女性に対して少々失礼ですねなどと宣う秋穂に、更に大きな溜息を吐く。
「少しはうろたえたりしないのか」
「して欲しいんですか?」
「・・・いや、」
「まぁ、変な人」
「・・・・・・・・・」
心底、お前がな!と言いたそうな相手のことなど、どこ吹く風、出されたお茶を飲み干した。
ここはとある一国の王城内の一室で、今は備え付けのバルコニーで優雅な茶会を催している最中だ。
目の前の男は、この国を治める王なのだという。
秋穂は王の伴侶として選ばれたが故に、攫われたとのことだった。
こちらに着いてから、片時も離れず側に居るこの男は、秋穂が聞きもしないのに事情を話してくれた。
男によれば、こちらと秋穂の生まれ育った所は隣接する世界なのだという。
そして向こうの世界ではない、世界を渡る技術がこちらにはあった。
攫われたあの日、秋穂はふとコンビニに行きたくなって、お財布と携帯だけ持つとつっかけを履いて家を出て鍵を閉めた。
それは、冬の訪れの近くなった、吹く風の冷たい黄昏時。
不意に誰かに身体を掴まれ、抱き上げられた感覚がしたのは覚えている。
秋穂の視界に入っていたはずの木造の家が、瞬きをした次の間に消え去り、石造りの白い壁が目に飛び込んできたのだった。
思わず一言呟いて、それから状況把握をし出した秋穂を、何故か攫ってきた張本人が目を剥いて驚いていた。
その時の秋穂も混乱していて、あの木造だったものが何故石造りになるのだろうなどと考えていたのだが。
両親から遺された古い一軒家は、秋穂が高校を卒業した後、ずっと1人で暮らしてきた家だ。
ずっと見慣れていたものが、突然見慣れないものになってしまったことに、頭が困惑でいっぱいになった。
秋穂が高校2年の頃に事故で両親を喪い、突然天涯孤独の身となってから、早10年になる。
在学中に一度賞を取ったものの、それからも飛ばず当たらずの状態でバイトを掛け持ちしながら細々と続けていた小説家としての仕事で、ようやく食えるようになってきた頃合いだった。
「世界を越えての人攫いですか、怖いですねぇ」
おちおち買い物にも出られやしない。
側に控える侍女さんから紅茶のお代りをもらいながら、そんなことを呟いた。
アンニュイにふぅ、と溜息を吐きながらの秋穂の台詞に、王が胡乱げな視線を投げた。
「・・本当にそう思っているのか?」
「いえ、さっぱり」
「・・・・」
問われた言葉にさらっと答えた秋穂は、また空を眺めながらお茶を飲んだ。
これは一体何杯めなのか、秋穂本人にもわからない。
男によれば、秋穂はもう二度とあの家には帰れないのだという。
ならば、何を言おうと、何をしようと変わるまい。
還れないことを前提とするならば、それは選択肢にもならない。
「それで、私は、あなたの子を産めば良いのですね」
「・・・あぁ、」
寝不足のせいか赤くなった眼で前を見据えたまま、両の手でカップを握り締め、最終確認の為に、王へと問いかける。
『すまないが、もう元の場所には還してやれない』
この男は、出会い頭の開口一番、秋穂に謝罪をしてきた。
それから事情を説明した後、子を産みさえすれば、故郷には帰れずとも悪い様にはしない、と告げた。
王妃としての待遇も保証するし、子と会いたければ叶えようと言った。
全てを信ずるに足る証がないことは、お互い承知している。
秋穂は一晩寝ずに考え、決めた。
衣食住の保証もある、産んだ子にも会える、王妃としての職務はあれど、実際至れり尽くせりだろう。
それ自体を真実望むわけではないけれど、それでも秋穂はこれで1人ではなくなる。
正当な筋道でなくとも夫が出来、子どもを産むということが決定事項であるのなら。
これ以上の条件はきっとない。
今まで居た世界でもそれなりに何人かと付き合ってはきた。
けれどその中で、誰かと一緒になるという自分がどうにも想像出来なかった。
両親を喪ってから、ずっと家族が欲しいと願っていたのにも関わらず、だ。
だから、これが最後のチャンスになると、何故か分かった。
ならばそれに従おうと、昨晩、秋穂は心に決めていた。
「今の私では、王妃には分不相応でしょう。
一般庶民として育ちましたから、そこはそれ、最初は目を瞑って頂きたいです。
勿論、いずれ身につく様に頑張ります。
あなたの望むようなお子を産むことは難しいかもしれませんが、なるべく意に沿うように致します」
一息に言いきって、そこで今日初めて、秋穂は王の目を真っ直ぐに見詰めた。
王というだけあるのか、彼の容姿は整っていると言えるだろう。
黒く艶やかな髪を後ろでまとめ、浅黒くも綺麗な肌、精悍な彫の深い顔立ちに碧の瞳。
生粋の日本人であるはずの秋穂の髪は昔から細く色素も薄い為、ミルクティーのような色をしている。
瞳も黒というよりは焦げ茶で、日に当たることをしなかったためか、肌は白い。
顔立ちは不細工とは行かなくても、あくまで平凡な部類だ。
正直何度思い返しても、秋穂は何故自分が選ばれたのかさっぱりわからない。
「どうして私を選ばれたのかわかりませんが、その理由を知ろうとは思いません。
必要なくなるその時まで、私はここに居ります。
個人的には、子を産んだ後も、出来れば母としてここに居たいです。
私を望んだあなたと子どもに要らないと言われるその時までは。
それくらいは、許して下さいますか」
真っ直ぐ目を見つめ、王に乞うた。
暗に、期間限定でもいいから居場所をくれるかと、秋穂は問うているのだった。
内心では、もし要らないと言われてしまったときに備えることもしようと思いながら。
「・・・お前がもう嫌だというまで、ここに居てもらおう」
静かに王が答え、秋穂の両手を自身の手で包む。
秋穂は、その言葉に、ようやく、緩やかに微笑んだのだった。
「いや、でもほんと不思議な夫婦ですよねぇ・・・」
「そうかしら、けれどそれを本人達に言わなくても」
「お前は何故ここに居る」
いつものように、バルコニーで小さなお茶会を開く。
参加者は、主催者である王妃と、王と、何故か居る黒尽くめの痩身の人物。
のほほんとお茶を飲んでほっと息を吐く黒尽くめの男は、王妃が手ずから焼いたクッキーに手を伸ばした。
「いてっ、王、独り占めは良くないですよ」
「お前の為に焼いたのではない」
「それ、わたくしの言う台詞なのでは・・」
クッキーに伸ばされた手を叩き落として、王が皿ごと囲い込む。
目の前で繰り広げられる子供染みた攻防に、秋穂は緩く溜息を吐いた。
あれから3年の月日が経ち、今では王妃業もそれなりになってきたように思う。
無意識に下腹を摩りながら、秋穂は男へ視線を向けた。
「それにしても、久しぶりね。あれからもう3年も経ったのね」
「えぇ、お久しぶりです、おじょうさん・・いえ、王妃様」
へらりと笑った男は、王の囲うクッキーを隙を見て掠め取りながら、秋穂を興味深そうに眺めた。
顔はマスクに覆われ眼だけしか出ていないが、その纏う雰囲気は至極穏やかだ。
「あの時のおじょうさんが、こんなに立派な王妃様になるとは、予想も出来ませんでしたよ」
「おじょうさんはよして。そんな年じゃないわ。
それに、まだあまり王妃らしいことをしていないような気がするのよ」
「いやいや、ご謙遜を」
「1番最初に会ったあなたが言うなら、そうなのかしらね」
「・・・何故そんなに平然としているのだ、アキホ」
ほのぼのと会話を続けていると、皿に伸びてくる手を弾きながら、王が呆れたように口を挟んだ。
なんとなく、会話に入れなかったせいか不機嫌そうに顔を歪めているように見える。
「そいつはお前を攫った張本人だろう」
3年前のあの日、目の前に居るこの黒衣の人物が、秋穂をこちらへ連れてきた。
突然世界が変わろうと傍目には全く動揺を見せなかった秋穂に、まず瞠目し、次に呆れたような戸惑ったような視線をくれたのもこの男だ。
「それを命令したのはあなたではなくて?」
秋穂が、ちろりと横目で王を流し見る。
その言葉に、王はぐっと詰まった後、しょんぼりと肩を落とした。
多少は気にしているようだ。
それでもクッキーの皿は手放さない辺り、王の執着ぶりが見て取れる。
そんな2人を微笑ましげに眺めていた男を、不意に王が睨んだ。
「それで、だからお前は何故ここに居る。
呼んだ覚えはないぞ」
「八つ当たりですか、大人げないですねぇ」
「良いではありませんか、多い方が楽しいですし」
男に反撃され、秋穂からも賛同を得られなかった王は、今度こそ臍を曲げて拗ねた。
そんな王に苦笑をした秋穂が、気を取り直して男へと問いかける。
「それで、本当に今日はどうしたの?何かあって?」
きょとりと首を傾げた秋穂に、男はまたへらりと笑った。
その様に、王が少しだけ眉根を寄せる。
まるで秋穂の顔を見るなとでも言いたげだ。
「えぇ、こんな絶好の機会、逃す私ではありませんからねぇ」
「絶好の機会とは、どういうことだ」
「え~、それは私の口からはとてもとても」
ぴくり、反応を返した王に、のらりくらりと男がはぐらかす。
秋穂は内心を億尾にも出さないまま、ただただ驚いていた。
どうしてわかったのだろう、まだ自分を除いては侍医しか知らぬことを。
王にすら、これから言うつもりだったのだ。
「どうして知っているの?」
「企業秘密です」
にこっと笑って、人差し指で内緒のポーズ。
それに憤慨した王が険悪な雰囲気を醸し出す。
・・・・本当に大人げない人だ。
「何だそれは、言え」
「まぁ、そんなに怒らないでくださいな」
「そうですよ~、私の口から言ったら興醒めですしね、ここは一つ、王妃様からどうぞ」
あらそう?なんて言いながら秋穂が王の方へと顔を向けると、見事な顰め面がすぐ目の前にあった。
いつの間に移動してきたのかさっぱり気がつかなかった。
思わずぱちくりと瞬きをして、ちら、と男を見ると、何やら非常に楽しげな笑みを浮かべている。
助けてくれるつもりは毛頭ないようだ。
「あの・・王?何故、そんなに近く・・」
「何を隠している」
「隠していたわけではありませんけれど、」
「何故私が知らずにこいつが知っている」
「それはわたくしにもわかりません」
「・・アキホ」
そんな悲しげな眼をされても、という言葉は、寸での所で、ごくりと飲み下された。
それよりも問題は、今、王と秋穂の顔がものすごく近接していることである。
いくら夫婦として3年を共に過ごし、事を致してはいても、美形の夫の顔には未だ慣れない秋穂だった。
それでも、流石にこんな捨てられた犬のような表情をされては、無視も出来ない。
秋穂は覚悟を決めて、王の眼をじっと見つめた。
「本来は、王に一番最初に言うはずでした。
今からでも、聞いて下さいますか」
「むしろお前が嫌だと言おうが聞きだすつもりだが」
「・・・・・あの、子が、出来た様で」
王の真剣な表情が、一気に固まって、次の瞬間には真っ赤に染め上がった。
それを至近距離で眺めていた秋穂は思わず瞠目してしまうほど、その変化は著しいものだった。
「本当か!」
「え、えぇ・・王、落ち着いてくださいな、皆が何事かと思いま・・きゃあっ」
「本当なのか、アキホ!」
「ちょっ王、はしゃぎすぎです、無茶はダメですって!王妃の身体に障ります!」
興奮して椅子を蹴倒して立ち上った王は、その勢いのまま秋穂を抱き上げた。
男が慌てて諌めるも、舞い上がった王には聞こえていない。
秋穂は王の首に手を伸ばして身体の安定を確保すると、小さく息を吐いた。
「王、落ち着いて下さいな」
「あっ・・あぁ、す、すまない・・少々浮かれた」
「そのようで」
「お前は黙っていろ」
「王」
秋穂が改めて諌め、王が我に返ると、男がぼそりと呟いた。
それに対して王が男を睨みつけ、また秋穂に宥められる。
完全に手綱を握られている様子に、男は密かに苦笑を零した。
「まだ、性別はわかりません。
もしかしたら世継ぎでない、女の子かもしれません。
それでも、喜んで下さいますか」
「あぁ、勿論だ。
・・・ありがとう、アキホ」
未だ秋穂を抱きしめたまま、王が蕩けるような笑みを浮かべる。
その笑みで何人の女性が陥落するのかと思考を飛ばしていた秋穂は、いつの間にか男が居なくなっていることに気がつき、辺りを見回した。
「あら・・?」
「放っておけ、今はこちらに集中しろ」
「んっ・・」
後頭部を抑えられ、唇を奪われる。
秋穂はすぐに何も考えられなくなり、その日一日、王夫妻が部屋から出てくることはなかった。
待望の御子懐妊を伝える報が国中を駆け巡るまで、あと数時間。
そして、以前にも増して過保護になった王と周りに、秋穂が困惑するのも、また時間の問題で。
「溺愛しているのにそれを自覚しない我が主と、べたべたに甘やかされているのに、それに気付かない王妃様か。
不思議というより、鈍感な夫婦なんでしょうねぇ」
王城の陰でそんなことを呟く男が居たということを知るのは、本人ただ一人。
巷で噂の異世界トリップ。
これは、異世界にて愛する家族を手に入れた、秋穂の場合。