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はるかさんの場合 前編

ぷちり、頭の中で、突然何かが切れるような感覚がしたと思った。

その次の瞬間には視界が暗転し、あっという間に何もわからなくなってしまった。

けれども、多分私は、意識を飛ばすべきではなかったのだ。

しかしそこが運命の岐路だったと、一体誰がわかるだろう。

少なくとも私はそれに気付きもしなかったし、そもそもそれに抗うことなど、事前にわかっていたとしても出来るはずがなかっただろうと思う。

後になって何度も思い返しては、後悔する破目になるなんて・・・このときの私には、もちろん知る由もなかったのだ。





「うぉー・・・・うみだ・・」


意識が覚醒してすぐ、身に馴染む匂いが鼻を衝く。

あぁ、また散歩に出た先で転寝でもしてしまったんだっけ、と暢気に目を開けた晴香は、そこでぴしりと停止した。

見慣れていたはずのそれが、完全に違うものだと認識してしまったからだ。

ぽろりと無意味な言葉が口から転がり出るのも止められず。

かといって行動に移ることも出来ず。

眼前の紺碧に光る大海原をただ眺めるしか、術を持たなかった。




「おい、これも洗っとけ」


「あ、これもよろしくねー」


「おっちょうどいい、俺のもだ!」


「わりーな、俺のも頼むわ」


どさどさどさっと続けざまに降ってくる汚れた布の波に押し流されそうになって、慌てて足を踏ん張った。

一枚一枚は薄くて軽い布だって、何枚も重なると筋トレにも使えそうな、立派な重りになるものだ。

少々非力な晴香は、毎回転びそうになってしまう自分を支えるので精一杯なのだ。

しかし、これが晴香の今の仕事であるのは間違いないので、いかに足腰がぷるぷる震えようとも、内心を億尾にも出すことはなく、笑顔で回収して行った。


「はい、これで全部ですね?じゃあちょっと籠りますからあとよろしく!」


「おー、しっかりやれよ」


ひらひらと振られる手を背に、山となった洗濯ものを入れた籠を胸に抱え、洗い場に籠った。

濾過した海水に曝しながら、ぎゅぎゅっと揉みこんで汚れを押し出して行く。


「あー、せめて石鹸欲しい」


ぐいぐい押し込みながら、ため息とともに呟く。

しかしそれも叶わぬことだと知っているので、実際誰かにお願いする気もない。

独りで呟くくらい、多めに見てほしいものだ。


「せめて陸上だったらなー、潮って厄介なんだよねぇ」


塩分のせいで生地の痛みも早いしー。


ふぅ、とまたひとつ息を吐く。

痺れるように疲労が両手から肩までを覆っている。

揺れる地面に身を任せながら、小休止を取りつつ、独りごちる。

ここは陸上ではない。

晴香が居るのは海の上、そしてここは船の中。

おまけにそれは、


「捗ってるか?これも頼む」


「船長・・・」


唐突に背後の扉が無遠慮に開けられ、大柄な男が姿を見せる。

振り返ってその姿を見やれば、手に服を持ってこちらを見ている隻眼の男。


「んじゃ、そこ置いといてくださいな」


「・・・・・おう」


しかしすぐに目を背けると、横に積み上げてある服の山を顎で示し、顔はまた洗い物の方へと戻す。

そっけなさすぎる晴香の態度に、船長と呼ばれた男が眉を顰めたのを、晴香が見ることはなかった。

洗い物を再開し、ちらともこちらを見てくれない晴香の背を見つめながら、船長がひとつ溜息を吐く。

船長が大人しく服を山の上に重ね、扉を閉めてすごすご出て行ったのを背後に確認すると、晴香はようやく手を止め視線を投げた。


「・・あれで海賊だっていうんだから、なんか、ねぇ・・」


女性に対し大きな態度を取ったり無理強いしたりしないのは、勿論良いことだとは思う。

けれども、晴香自身は海賊に紳士であることを求めたりはしなかった。

そういうイメージは持たないほうが良いとすら思っている。

彼らは無法者であり、その性分は掠奪者なのだから。

さりげなく酷いことを呟きながら、晴香は止まっていた手を動かした。

そう、現在晴香は海賊船で下働きをしている。

そういう名目で、養ってもらっている身だ。


「あぁまったく、なんてとこに拾われたんだろう」


ぶつぶつと零しながら、手はさくさく仕事を成して行く。

こちらへ来てから既に半年が経過した。

初めは慣れなくて辛い思いもしたが、今では片手間に別のことを考える余裕も出来た。


事の始まりは、晴香が海のど真ん中で目が覚めたところから。

見渡す限り大海原にぽつんと聳える巨大な岩の上に、何故か晴香は転がされていた。

もともと海の側で生まれ育った晴香にとって、潮の香りはとても身近なものだ。

しかし晴香の居る大海原は、晴香の知る故郷の海とは全く違うものであった。

まず、目覚めてすぐに、見慣れた海の色よりも遥かに綺麗なコバルトブルーが目に飛び込んできた。

辺りを見渡しても、陸地がちらりとも見えない。

潮の香りも、随分違うように思った。

海は汚れていると、潮の香りがきつくなる。

ここは水が綺麗なのか、ほとんど気にならなかった。

そして極めつけは、


「巨岩の周りに鮫がうようよいるとか、反則もいいとこよねー」


晴香が寝ていた岩の周りには、鮫と思しき影がたくさん泳いでいた。

イルカも見たことはあるが、やはり違う。

あれは、捕食するものの姿だった。

晴香は下を覗き込んで瞬時に血の気が引いた。

そして、今自分の人生積んだなと思ったものだ。

しかし神は晴香を見捨てなかった。

少なくとも、命を拾ってくれるものが居たのだから。

その待遇がどうであれ、晴香は幸運だったと言えよう。


「拾ってくれるのが海賊船じゃなきゃ、もっと良かったけど」


遠い眼をしながら、呟きを零す。

命があっただけ儲けものだ、しかし贅沢を言うならば、普通の船に拾われたかった。

絶望に襲われたその時、目にした唯一の希望の光が海賊船だとわかった瞬間、目の前が真っ暗になった。

次に眼を覚ました時、晴香は自分は死んだと思っていた。

否、海賊船に拾われるよりは死んだ方がましなんじゃないかとすら思っていた。

売られるか犯られるか殺されるかしか思い浮かべない自分の末路など、考えたくもなかった。

なのに、目に飛び込んできたのは、オレンジ色の髪と顎鬚を持った隻眼の男。


『お、目が覚めたか』


日本人とは似ても似つかない彫の深い顔立ちに、眼帯に隠されていない垂れ目をもっと垂れさせて。

へらりと笑ったその顔に、晴香の防御壁はうっかり崩されてしまったと言っていいだろう。

自分でもまさかこんな簡単に、と思わないでもないのだが。

如何せん、実は晴香は面食いだった。

欧米風の整った顔立ちは、実に晴香好みだったのだ。


「でも、いくらなんでもまずいよねぇ・・・」


ふぅ、とまたひとつ溜息を零す。

何が不味いと言えば、晴香が世話になっている身で船長の顔を直視出来なくなったことだ。

それを船長が不満げに思っているのは察している。

けれども、それでも尚、容易に目を合わせられない。

合わせたら挙動不審になること間違いなしなのだ。

そう思えばこその行動なのだが、傍から見れば晴香は非常に船長に対して冷たかった。


「何が不味いんだ?」


「うひょっ・・きゃー!」


びっくぅ がたっ ばっしゃーん


「うおっ何やってんだハル」


突然背後の扉が開けられ、考えごとに没頭していた晴香は不意を突かれて悲鳴をあげた。

おまけに勢い余って盥に激突し、中の水をぶちまけてしまった。

洗い場に居たから助かったが、綺麗に洗ったモノまでまた水浸しだ。

晴香は両手を床について項垂れたまま、先程の衝撃が治まるまで待つと、恨めしげに背後を見た。



「・・・船長・・・」


「いやっ俺のせいか!?」


「いきなり来られたらびっくりするじゃないですか。

 私は一般人なんだって何度言えばわかってくださるんです」


「す、すまん」


完全に八つ当たりである。

ここは船長の船であり、船長がルールなので、どう振る舞おうが勝手なのだ。

しかし船長の顔を直視出来ない晴香は、勢いに任せて詰るしか術がなかった。

恨めしげな顔を隠さない晴香に船長が眉を下げつつ謝る姿を見て、内心で呆れる。


・・いや、だからそこで素直に謝る海賊ってどうなの。


やっぱり、向いてないんじゃないか、なんてことを思ってしまう。

こんな優しい人が、どうして海賊なんかしてるの、なんて。

そんなことを考える資格など、晴香にはないというのに。


「・・いえ、すみません、こちらがぼーっとしてたせいです。

 それで、何か御用ですか?船長」


ふい、と視線を逸らして問いかける晴香を、悲しげな顔で見つめる船長。

その視線に気づきつつも、気付かない振りをひたすら続ける。

ここで気付いてなるものか。

気付いてしまっても、どうにもならない。

――――だって彼は私のモノになんかならないんだから。


「・・・特に、なんでも・・・いや、あるな」


俯いて返答を聞いていた晴香を見つめ、船長は言いかけていた言葉を途中で止めて、言い換えた。

それを不審に思い、つい視線を合わせてしまって晴香は後悔した。


「なぁハル、何でお前は俺の顔を見ないんだ」

 

直球ド真ん中で質問を投げつけられ、ついでにいつの間に近づいていたのか、そしていつの間に壁際に追い詰められたのか、気付けば身体の両脇を手で塞がれ、逃げられないようになっていた。

・・・あれ、本当にいつの間に?

正直、船長にこんな芸当が出来るとは思っても居なかった晴香である。


「・・・あの、」


「俺の目を見て言ってみろ、ハル」


真剣な光を灯した隻眼に、射竦められる。

それでも真っ直ぐ目を見られないのだから、自分も相当重症だな、なんて思う。

船長の身体から溢れる威圧感がひしひしと身に刺さるような気がする。

・・なんとなく、船長っぽいなんて思うのは、現実逃避の一環だろうか。


「・・・何で、見てくれないんだ?」


再度、今度は懇願するように問われて、思わずちろりと見上げてしまった。

情けない顔でこちらを見下ろしてくる目に、こちらも同じように情けなくも顔を歪める。

だって、拾われた身で、勝手にあなたを好きになってしまったなんて、誰が言える。

あなたはこの海賊船を率いる船長なのに。

おまけに晴香は異世界人らしいということを、ここに来て一週間めに知った。

つまりはここの世界の人間ですらないのだ。


「・・はは・・船長、かっこいいから、照れちゃうんです」


声が震えないようにするのが、今の晴香に出来る、精一杯だった。

船長がそれを聞いて、晴香の顔を見て、寸の間息を呑む気配がする。

そのまましばらく固まっているようだったので、ここらで抜けだそうと身を捩ると、唐突にぐっと腕が締めつけてきて驚愕した。


「うっ!?ちょ、せ、せんちょ・・!」


「ハル、本当か?俺、自惚れてもいいのか?」


ぎゅっと抱きしめられて、顔が、身体が、沸騰するように熱くなる。

擦り付ける様に、ぐりぐりと頭部に顎が押し付けられている感触がする。

いきなりの相手の変化に、何がどういうことなんだかさっぱりわからない。


「俺なぁ、嫌われてんのかと思ってたんだよ。

 初めの数回以外、ずっと俺のこと見てくれねぇし、避けられてるし、態度は冷てぇし」


うはっ、バレてら。

すりすりするのを止めないまま、とうとうと語りだした船長の為すがままになる。

このままではよくないとはわかっていたけれど、この状況にちょっと幸福感を感じてしまう自分の乙女心を今すぐ捻りつぶしてやりたい。

でも本能の前に、理性は弱いようだった。

半年一緒に過ごす間に、恋心は充分に育ってしまったのだ。

この腕の中に居たいと言う誘惑に、どうやら勝てそうもないらしい。

無意識にへにゃりと相好を崩した晴香に、船長の甘やかな声が降りかかる。


「もうずっとこのままだったら、俺はどうにかなっちまうんじゃねぇかってくらい思いつめてたんだ。

 ハル、お前を無理矢理俺のもんにしちまうことだって考えた」


・・・・・え?

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