ゆかりさんのその後
紫さんのその後のお話。
別名、紫さんの流され話。
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ユア様リクでございます。
「いってくる」
「いってらっしゃいませ」
今日も今日とて、朝食を終えた後、紫さんはわざわざ男を玄関先まで見送りに来ました。
男はぱたぱたと近寄ってくる紫さんに目元を柔らかくすると、紫さんのこめかみに、ちゅ、とキスを落とします。
それに思わず真っ赤になった後、どうしたらいいのかわからず、紫さんは困ったように男を見上げました。
「・・・・それは、誘っているのか」
「え?あの、どこへでしょうか」
「・・・・・・いや、なんでもない。行ってくる」
見上げられた男が無表情になって紫さんに問いかけると、当の本人はきょとりと首を傾げ、明後日の方向で返答をします。
男は一瞬遠くを見る目になると、その眼に孕む熱を堪えるかのように目を瞑り、また開きました。
そうして男は己の劣情を抑えつけると、紫さんの頬にまた一つキスを落として仕事へ行ったのでした。
紫さんがこちらへ来て、はや9か月。
男にキスをされるようになってから、既に2か月が経過していました。
紫さんはこちらへ来て既に半年以上が経過しているので、こちらの生活にも、同居人の男にも随分慣れたようでした。
そのせいか、若干気安くなっていたのでしょう。
最近の紫さんは、以前よりもずっと柔らかく笑む姿を男に見せるようになっておりました。
勿論そのことについては、紫さんは無意識でしたので責められる云われはありません。
しかし男にとってはまさしく、日々忍耐を試されているような心地になるものでした。
何故なら紫さんは、普段にこやかにしてはいても、そんな笑みを見せるのは男と居るときだけだったからです。
その事実に気付いてしまってからは、男は自分の忍耐力と精神力を極限まで摩耗させつつ、一日を過ごしておりました。
正直に申しますと、拷問の様な日々だったのです。
男も正常な成人男性でありましたから、当然相応の欲求だってあるわけです。
それが好意を持っている相手なら尚更。
しかし紫さんは、そんなことにはとんと気付いてくれません。
いつも、ふにゃりとした笑みで嬉しげに近寄ってはくるのに、それだけなのです。
夜、寝る頃になると、名残惜しむ様子も無くさらりと自分の部屋に戻ってしまうのが常でした。
一度、夜の挨拶をした後にちらりと部屋を覗いて、既に寝入っていた紫さんを見つけ脱力してしまったこともあります。
何故そんなに無防備なんだ、と。
何故そんなに寝付きがいいんだ、と。
男が思わず頭を抱えたくなったのも、仕方のないことだと言えるでしょう。
男の気持ちなど、紫さんは全くといっていいほど、理解しておりませんでした。
紫さんも成人女性ですから、それなりのお付き合いはしてきたはずでした。
彼女の年を知っていた男はそう思っていたのですが、実はここで大きな誤解があったのです。
紫さん、実は今まで誰ともお付き合いをしたことがありませんでした。
幼稚園・小学校・中学校・高校・大学、と見事なまでにエスカレーターに乗ってきたのです。
勿論それは女子オンリー、男子と触れ合う機会もほとんどなく、合コンすらほとんど行きません。
おかげで純粋培養の紫さん、ちなみに会社は、男性というよりもむしろおじいちゃんと言うべき御方ばかりで、若いといえば紫さんくらいなものでした。
しかもそれを本人は特にどうとも思ってはおりません。
今よりもっと若い頃は恋愛に憧れた時期はあったものの、男性そのものに興味がない紫さん。
恋人が居ようが居まいが、どうでもいいわとしか思いません。
同居人である男に対しては憎からず思っているようですが、その先を望むことすら思いもよらないことなのでした。
つまり、男にとって、紫さんはかなり手強い相手だったのです。
その日もまた、紫さんは風呂上がりの無防備な姿で男の前に現れました。
安心しきったようにふにゃりと相好を崩す様は、男の精神力と何かを容赦なく抉ってくれます。
可愛いです、愛らしいのですが、しかし男は内心で血の涙を流しておりました。
「お風呂頂戴致しました~、お次、どうぞ。
それでは、私は本日はお先に失礼致しますね。
おやすみなさいませ」
にこにこと邪気のない笑みを浮かべ、挨拶をする紫さん。
男は椅子に座ったままそれを見上げておりましたが、唐突に、ぷちっと頭の中で何かが切れました。
それが何だったのか、堪忍袋なのか我慢なのか緊張なのか、何が何だかわかりませんが。
そして何が原因だったのかも、わからないのですが。
要は、臨界点を突破してしまったのでした。
「・・・あの、どうなさいました?」
無言で、すぅっと音も無く立ち上った男に、紫さんはきょとりと首を捻ります。
男が無表情で無口なのはいつものことですが、なんだか様子が可笑しいと悟ったようでした。
紫さんより頭ひとつ分背の高い男が上から見下ろしてくるのにも、若干戸惑いがちに見上げます。
逃げようとしないのは、男に対して信頼しているのか、単に危険察知能力がないからなのか。
しかし、もはや逃げるには、手遅れだったのです。
「えっ・・えと、ど、どうしたのですか・・きゃあっ」
すっと優しく腕を取られ、困惑したまま問いかけようとした次の瞬間。
紫さんは男の腕の中に居りました。
正確には、軽々と横抱きにされていたのです。
つまりはお姫様だっこというやつですね。
それに気付いた紫さんが小さく悲鳴をあげ、次いで顔を真っ赤に染めあげました。
あまりにも男との距離が近いことも、触れられているという事実にも、お姫様だっこされているという現状にも、紫さんは恥ずかしくて堪らなくなったのです。
そんな紫さんを尻目に、男は無言のまま、移動を開始しました。
向かうは、勿論。
「あの・・どちらへ向かって・・?」
「・・・俺の部屋だ」
紫さんの声が、あまりにもか細く、不安そうに揺れていたからでしょうか。
明らかに渋々といった風に、男が答えます。
その答えに、完全に予想外だったと紫さんは暫し呆然としてしまいました。
当然ながら紫さんにはどうしてこんな事態になったのかさっぱりわかりません。
何せ唐突な出来ごとでしたから、紫さんでなくても分からないと思います。
そんなことをやりとりしている間にも、男は自室へとついておりました。
他の部屋よりも若干立派な扉を無造作に開け放ち、するりとその中へ滑り込み、寝室へと進みます。
紫さんに、止める隙も与えてはくれません。
「えっと・・あの、一体何がどうなって・・?」
未だに現状を理解出来ない紫さんを、大きなベッドに優しく横たえました。
紫さんはパニック一歩手前くらいに困惑しています。
顔を赤くして目を潤ませた紫さんに、真下から見上げられた男は、思わず呻いて項垂れました。
殺人級の破壊力です。
「ど、どうし・・きゃっ」
男が項垂れたのを見て心配になったのか、紫さんが問いかけようと身体を起こしかけました。
するとすぐに顔の両脇に腕をつかれ、またもやぽふりと倒れてしまいます。
まるで男の腕が檻のように、紫さんを囲いこんでおりました。
そこまで来て、ようやく紫さんは身の危険を悟ったのでしょう。
一気に身体が強張り、顔から血の気が引きました。
「・・・え、と・・・」
「・・・もう、限界だ・・」
「・・え?」
男が、苦しげに吐いた言葉を、紫さんは戸惑いがちに拾います。
何故そんなにも男が苦しそうなのか、正直理解し難いことでした。
なのに男の目には何かすごく熱いものが籠っているように見えるのです。
流石の紫さんも、理解してしまいました。
「・・・・・ダメか」
乞われている、と気付いて、紫さんは困ったように顔を歪めます。
正直、男にとってはなるべくしてなった流れでも、紫さんには唐突な出来ごとです。
このまま流されて良いことではありませんから、余計にどうしたらいいのかわかりません。
しかし、よくよく考えてみると、紫さんは普段男に結構酷いことをしてきたのかもしれないなと思ったのです。
正常な成人男性と2人きりで同棲のように過ごしていれば、例えそこに愛情がなくとも、それなりに劣情というものを覚えるものなのかもしれません。
淡白な紫さんには理解出来なくても、生態として、男性のことはいくらか知っているつもりです。
この年になればそれなりに情報というものは入ってくるもので、紫さんも周囲から色々と聞いて来てはいたのでした。
そもそも女子というものは、男性よりも開けっ広げに様々な話をするものです。
恋の話は勿論、彼氏との事情も友人内では公の秘密でありました。
「・・・えーと・・」
しかしそれを理解出来た所で、心の準備は出来ません。
25歳にして初めてな上、耳年増な分余計に恐怖心が煽られるものです。
いくら男に対して好意を抱いて居ても、一朝一夕に覚悟出来るものではありませんでした。
「・・・・・ダメか・・・・・?」
「・・・・・」
懇願するように、男が言い募ります。
きゅっと眉根を寄せて見つめてくる男に、紫さんはちょっときゅんとなりました。
まるで大型犬がきゅんきゅん鳴いている様が頭の中にぱっと浮かんでしまい、紫さんは思わず脱力してしまいます。
「・・・・・あの、私、初めてなのですが・・」
脱力ついでに、思わず、カミングアウトまでしてしまいました。
紫さんの発言に目を見開いて驚いた男でしたが、次の瞬間には見ているこちらが照れるほど、嬉しげに顔を蕩けさせました。
そして紫さんは、それを見て、うっかり観念してしまったのです。
「・・・・・優しくする」
「・・はい」
きゅっと抱きしめてくる腕が、酷く愛おしくて、紫さんはただ振ってくる口付けに応えることしか出来ませんでした。
さて、翌日から、紫さんはちょっと困ったことになりました。
男のスキンシップが、以前にも増して激しくなったせいです。
毎朝のキスは勿論、一緒に外出中は手を握るだけだったのが腰を抱かれるようになり、家に帰れば男の腕の中に閉じ込められ、夜も一緒に寝る始末。
ちなみにお風呂だけは断固阻止しました。
おかけで紫さんの仕事であると自負する家事が、なかなか進みません。
それだけならまだしも、尚困ったことに、紫さんはそれを拒絶出来ませんでした。
男の見つめてくる目に籠る熱が紫さんに伝播したかのように、顔が火照ります。
キスをされると、手足から力が抜けてしまうのです。
これはいかん、と男に抗議しようと、仕事から帰ってきた男に詰め寄りました、が。
「おかえりなさいませ。
・・あの、ちょっとお話が・・んんっ」
思いきり、出鼻を挫かれました。
そう言えば、男は帰ってくると離れていた時間を取り戻そうとするように、スキンシップが激しくなるのをうっかり忘れていたのでした。
あまりにも濃厚なキスに、もともと慣れていない紫さんはあっという間に腰砕けです。
何を言おうと思ったのかすら吹っ飛んでしまいました。
「・・はぁっ」
「・・・ただいま」
くったりと力を抜いた紫さんを嬉々として抱き上げながら、男が今更ながらにご挨拶。
それは、帰って一番最初に言うべきだと思います。
紫さんが潤んだ目で見上げると、その瞳に熱を灯しながら見つめ返してきます。
ちょっと落ち着けと思わないでもないこの状況。
紫さんの頭はぼんやりしていて、いまいち働いてくれません。
しかしそうしている間に、ようやく頭がはっきりしてきた紫さん。
再度、お願いを聞いてもらおうと口を開きました。
「・・・・あの、」
「・・愛してる」
脳内で考えていたことが、その言葉と同時に何処かへ吹っ飛んで行きました。
何故今このタイミングでそれを言う、と小一時間問い詰めたい気分です。
紫さんは、しかしそれ以上何も考えられなくなってしまいました。
「・・・・愛してる、ユカリ」
この時、紫さんは男に初めて名前を呼ばれたことに気付けませんでした。
ただ、もう何が何やらわかりませんが、紫さんは頭が沸騰するような心地だったのです。
あまりにも驚いたせいか、紫さんはふっと気が遠くなって、そのまま意識を手放してしまいました。
それから。
目が覚めたら、紫さんは男の腕の中に居て、そこが寝室であると知りました。
ご飯もお風呂もすっ飛ばして、どうやらもう就寝にまで至ってしまったようです。
ちらっと見た自分の服が寝巻きになっている所を見て、少しだけ目が遠くなりました。
一瞬どうしようかなとも思いましたが、男が眠っているのを見て、紫さんもまた大人しく目を閉じます。
今日は何だか、良い夢を見られるような気がしました。
翌日から、更にべたべたに甘やかしてくる男に苦笑しつつ、紫さんはまたいつもの日常に戻ります。
密かに男が婚礼の手配をしていることも知らず、
町の住民にそれを知られていて、奥様認識されていることも気付くことなく、
近い未来に、待望の子どもを授かることなど、勿論思いもせずに。
紫さんの異世界での日々は、そんな風に過ぎてゆくのでありました。