はなさんの悪魔 前編
晴香さんの場合、裏的独白。
ディアボロ一人称です。
願ったものは、彼の人の全て。
自分が彼女の全部を欲しがったが故に、彼女はこちらで培った全てを対価として喪った。
知識も、記憶も、自分と交わした言葉も―――――――全て。
初めて出会った時。
それは、あちらがこちらを『召喚』したことが、全てのきっかけ。
「あら?なんか・・・」
・・・なんかって、なんだ。
己を喚んだ人間の、開口一番の言葉が、これだった。
俺はその日、不愉快なことがあって、目的地も無くぶらぶらと出歩いていた。
ふと誰かに喚ばれていることに気付いたが、妙に気分が乗らない。
不意の召喚に特別応じるつもりもなかったが、しかし漂う召喚主の魔力が、通常の人間よりも遥かに極上だと気付いてしまった。
・・だから、つい、迂闊にも、ふらふらと応じてしまったのだった。
空腹でもないのに、なんと凄まじい欲求か。
己が本能に忠実に従うことこそ、自分達の本質である。
理解していながらも、内心で驚いていた。
こんなにも抗い難い欲求は初めてだ。
だが、やはりなんとなく不愉快で、つい態度が悪くなったことは認めよう。
「こんにちは、初めまして悪魔さん」
召喚陣のド真ん中に胡坐をかいて、仏頂面で顔も合わせようとしない俺に、目の前の女は明るく話しかけてくる。
今まで幾百もの人間とかかわってきたが、こんな無防備な人間は見たことがなかった。
この女が召喚主であることは、纏う魔力の質からも間違いない。
けれども、己が喚びだしたものが何であるかは、理解していないらしい。
術で拘束もせず、契約の内容を交渉するわけでもなく、ただ楽しげにこちらを見ている。
こちらが大人しく召喚陣の中に居るからと言って、完全に手出し出来ないわけじゃないということは気付いているのだろうか。
少し探ってみても、召喚した側が優位に立つ為の術が、ほとんどかかっていないとわかる。
まるで食らってくれと目の前にご馳走を置かれた気分になった。
――――――――何がしたいんだ?
「ていうか聞いて!
初めてした召喚で見事喚び出せたのー!
きゃほー!すごいあたしやれば出来る子ぉっ」
・・・・馬鹿なのか?
目の前で無邪気にはしゃぐ女に、呆気にとられた。
何なのだ、何がしたかったんだこの女、ていうかどういうつもりだ。
あまりにも驚いたせいで、頭の中を疑問符がぐるぐると廻る。
幾度も召喚を経験した俺でも、こんな事態に陥ったことがなく、上手く対処が出来ないことに苛立った。
「ちょっとねー、本気で出来ると思ってなかったの。
あは、やだごめん、怒ってる?あなたを馬鹿にしたわけじゃないんだよ。
テンションマックスで可笑しくなっちゃってるけど気にしないで。
ねぇ、あなたのお名前は?」
くるくるぱたぱたと忙しなかった女は、数分後には若干落ち着いて、またこちらに目を合わせてきた。
柔らかそうな腰までの茶色い髪は、先程暴れたおかげでぼさぼさだ。
ぱっちりとした茶色い目は生き生きと輝いている。
日光に当たってなさそうな白い肌には、興奮のせいか朱が乗っていた。
先程よりも少しだけ近づいた女の身体から、魔力が薫る。
あの、極上の。
それらを認識すると、無意識に、ごくりと喉が鳴った。
「・・・俺に、名はない」
不可解な衝動に翻弄されて、覗きこんでくる相手に、己の目を奪われたような錯覚に陥りそうになる。
一体、俺はどうしたんだ。
・・・否、違うな、どうなってしまうのだろう・・だ。
「そうなの?んーと、じゃあ、あたしと契約、しますか?しませんか?」
「する」
こちらの様子に気付くこともなく、女が問いを口にする。
それに対し、俺は、問われた言葉の意味を理解する前に答えていた。
即答された女はぱちくりと瞬きをひとつして、素直に驚いているようだ。
・・・こんな風に果てしなく無防備な召喚主など、俺でなく他の奴なら、とうに食ってしまっている。
「する、の?いいの?本当に」
「・・あぁ」
重ねての問いかけには、心底不思議そうな響きがあった。
なら、何故問うたのかと聞きたいような気になるのはきっと俺だけじゃないはずだ。
本当に、何故こいつは召喚術など行使したのだろう。
「うん、じゃ、わかった。
えーと・・・何を代償にしようかねー?」
「・・待て、お前の望みはなんだ。何故俺を喚んだ」
俺と契約を交わすというのなら、そこが重要であるはずだ。
なのに女は、きょとりとした顔をした後、気まり悪げに目を逸らせた。
「え?・・あぁ、それね、うん。
・・・・えーとぉ、この2年、死ぬ思いで召喚術勉強してきたのね、あたし。
でも、ずぅっと練習ばっかりとか詠唱の方法とか歴史とか言語とかを研究するばっかりで、一度も実践したことはなくってね。
それで、だから、最近ね、師匠がそろそろなんか喚び出してみろって・・・」
「・・・つまり、特別望みもないのに、俺を召喚したのか?」
「え・・えへへ」
図星だったのか、女は笑いで誤魔化そうとする。
その素直さに、怒りを覚えるより、呆れた。
なんなんだ、まったく。
しかし、女の、話を変えるかのような問いかけに、また勝手に言葉が転がっていた。
「あなたは何が欲しい?」
「・・・名を、」
「名前?」
「あぁ。俺に名前をくれ」
望みは、いつの間にやら決まっていた。
けれども、それら全てを手に入れるのは、今じゃない。
だからまずは、と名を乞うた。
「名前、名前ねー・・んー、縛っちゃって、良いってこと?」
女は思案気にぶつぶつ呟いていたが、不意にこちらに問いかけてきた。
眉根を寄せて難しい顔をして、何故か不安げにこちらを見やる。
女が言いたいことは理解している。
俺に名を付けるということは、主従関係として枷を嵌めることになる。
しかしそれが契約に必須条件であり、こちらとしてもそれが枷となることは重々承知の上だ。
むしろ自主的にそうしようとしない女が異質だった。
召喚主の魔力は、俺達にとっては餌だ。
契約を結んだところで、名で縛らねば彼らの身は安全とは言い難い。
そもそもが、食うか食われるかの関係なのだ。
勿論、縛られ、命令に従わされることはあまり嬉しいとは言えない。
だがそれが当たり前のこととなっている為、別段気にしてなどいないのだ。
なのに、目の前の女はひたすらそれを心配している。
女の顔を見ているうちに、何故か気分が高揚してきて、ふ、と口元が緩んだ。
当初の不機嫌など、いつの間にか何処かへ消えてしまったかのようだった。
「あぁ」
「・・そう、わかった。
じゃあ、あなたはディアボロね。今からあなたはあたしの悪魔。
その代わり、あなたにあたしの名前をあげる。あたしの名は、華だよ」
女は少しの沈黙の後、覚悟を決めたような瞳でこちらを見据えてくる。
それを、何故かにやけそうになる己を内心で押し殺しながら見守っていたが、次に告げられた言葉に高揚した気分も吹っ飛ぶ程驚く羽目になった。
・・・召喚主が、己の名を開示するとは。
俺を名で縛ることは当然のことだ。
それによって召喚主達は己の身を守っているも同然。
しかし、代わりに己の名を与えるなど、狂っているとしか言いようがない。
「・・俺に名を告げるということがどういうことか、理解しているのか」
「わかってるよ、師匠に散々教えられたもの。
名前を知られたら、あなた達に容易く食われたり、操られたりするんでしょ?
でも、あたしはあなたを縛って自分の願いを押し付けるつもりはないんだよ。
それだけは、絶対にしたくないの。
・・・契約はする。あたしの名前もあげる。
けど、あなたの意思をねじ曲げてまで縛る気はない。
それをするくらいなら、契約なんてしない」
「・・・・」
「・・・まぁ、けどね、別に名前教えてもあんまり問題ないって思ってるの」
今までの真剣な顔を、苦笑する形に変えた女は、眉を顰めたままの俺を見やる。
一体どういう意味だ?
「多分ね、名前、呼べないと思うの。
ね、呼んでみて」
名を、呼べない?
理解は出来なかったが、促されるまま先程教えられた名を口にする。
・・した、はずだった。
「・・ふぁな?」
「はな。は・な」
「ふ、はぁな」
「華。ハナだよ。リピートアフターミー」
「・・・ファナ?」
「・・・ううん、やっぱ悪魔でもだめかぁ。ま、いいよそれで。そう呼ばれてるし」
女が、苦く笑って妥協する。
・・・名前を呼べない。
簡単な言葉の羅列であるはずの、名が、どうしてか正しく発音出来ない。
何故かそのことに猛烈な勢いで腹が立った。
「あたしもね、この世界の誰かに召喚されたみたいなの。
そのせいかなんなのかわかんないけど、この世界に属するひとたちは、あたしの名前を呼べないみたい。
ファナっていうのもね、どうしても呼べなかったから、こう呼んでってお願いしたのが始まりなの」
「・・・・・」
「そんな顔しないでよ。
騙したわけじゃないよ?悪魔のあなたならもしかして、って思ったのは本当。
けど、まぁ実際呼べないなら仕方ないもの。
今のあたしはファナとして生きて、特に問題はないしね。
・・さて、それで、どうする?不服なら、契約しないで帰ってくれて構わないよ」
「・・・いや、了解した。
主・・・ファナ。俺はお前に仕えよう。お前が俺を必要としなくなるまで」
にこっと笑った女は、『了解』の意を示した。
俺もまた、新しく貰った名を自身に刻みつける。
これにて契約は、仮ではあるけれども、成った。
今日からは、ファナが俺の主人だ。
「糧は?」
「え?えーと・・・手から。だめ?」
「・・・こっちが良い」
ファナとの取り決めはごく簡単なものとなった。
通常はファナの護衛と補佐、有事の際はその都度臨機応変に、だそうだ。
言葉だけを聞けば、体の良い下僕といったところか。
だが、俺達がこの世に存在し続ける限り、糧となるエネルギーが必要だ。
それが召喚主の魔力なのだが、身体に触れさえすれば、大体はどこからでも摂れる。
だから、ファナが手からと言ったのも別に問題じゃない。
が、俺は差し出されたそれを無視して、ファナの華奢な身体を捉えた。
「うわっ・・んんんっ」
問答無用に、唇を合わせ、そこから魔力を吸い上げる。
俺はまだ一人前になったばかりで若い方だが、能力だけはあるようで、古参の者にも負けたりはしない。
弱肉強食の世界であるから、都合の良いことではある。
しかしそれ故か、糧が他の者よりも多く必要なのが少々面倒なことだった。
ファナは通常の人間より質の良い魔力を持っている。
食欲を刺激してくるその香りに、思わず本能のまま貪ってしまった。
ついうっかり舌まで使ってしまったのは、多めに見てもらおうと勝手に決める。
暫しの間の後に唇を放せば、ファナは既に息も絶え絶えで、ぐったりとしていた。
「・・・ディアボロさん、人間には、酸素っていうものが、必要でして。
あと、あたし魔力はそんな多くないっていうか・・毎回この勢いだといずれ死んじゃう・・・」
腕の中で完全に脱力し、こちらに身体を預けていたファナが、呟くようにそんなことを告げてきた。
魔力が枯渇すると、人間の生命維持に影響が出るのだということは知っていた。
・・・・反省は、しない。
だがしかし、次回からは多少自重しよう。
ファナに死なれるのは困る。
そんな風にして、俺達は始まった。
だが、決めたことがごく簡単なものだった理由を知ったのは、その翌日からだ。
ファナは己の身の回りのことも、家事も仕事も全て自分でやった。
それが当然だと思っていて、おまけに俺に手伝わせることに、悪いと思ってすらいるようだった。
故に、一年後にファナの師匠が斃れ、ファナが娼館で働き出すまで、俺は一切を感知しようとはしなかった。
ファナはどれだけ大変でも、助けてとは言わない。
限界まで、己の足で立とうとする。
・・・・・そのことを、苦々しく思ったことは、否定しない。