みずはさんの場合
・・・いつか、こんなことがあればいーなー、なんて思いながら、毎日小説や漫画を読んでいた。
あたしは微温湯に浸かっているようなもどかしさを感じながら、毎日を惰性で生きていたから。
親に養われている身で何言ってんだって、罵られたって可笑しくない。
けどやっぱり、小説や漫画とかでよくあるような話に、正直、憧れていた。
それを実際に口に出したことはないけど、でも。
毎日毎日、本当にわが身に起きてくれないものかと思っていた。
いつ死んでもいーや、とまで思っていたのは、不謹慎てわかってるけど、確かなことなんだ。
あの頃のあたしは、お金を稼ぐことの大変さも、生きて行くことの辛さも知らなかった。
でも、現実と妄想って、そりゃそーなんだけど、やっぱすごく違うものなんだよね。
そして今までの、庇護された安穏とした生活が、何より幸せなことなんだって。
恵まれていたのに、あっさり手放したいだなんて思っていたこと。
それがどんなに傲慢だったか、身に染みて、ようやくわかった。
まぁ、今になってわかったところで、もう遅いんだけど。
「ご主人ー、終わりましたよぉ」
「そうか、次はカーテンだな」
「えー!昨日取り替えたばっかじゃないですかぁ」
へとへとになりつつも終了したことを主へと報告をすれば、休む間もなく次の指示が飛んだ。
本当に人使い荒い人だよ、まったく。
カーテンなんてまじ昨日死にそうになりながら洗いあげたのに・・。
大きな窓を覆う幾枚ものカーテンは、1人で洗おうと思うと一日仕事になりかねない。
というか、むしろなった。
そもそもがあたしがやるんじゃ時間かかるのもしょうがないし。
だってここは今まであった便利な家電なんかひとつもない。
手でせっせと洗いあげるしかないと知った時、あたしがどれだけ絶望したことか。
「じゃあ窓を拭け」
「・・わかりましたけどー、ちょっとは休憩させてくださいよぉお」
もーいい加減疲れたよー。
休憩ぐらい適度にくれたって良いじゃないかー。
横暴なご主人め、いつかあたし過労死しちゃうぞこんにゃろぉ。
「・・・ミズハ」
そう弱音を吐けば、現在あたしを雇ってくれているご主人様から、すごい勢いで睨まれた。
綺麗な人が睨むと怖いんだから止めてよ、もー。
ほんと無駄に美形なんだからなぁ。
「わかった、わっかりましたよぅ、そんな睨まないでくださいー」
「無駄口を叩かずに働け。穀潰しになりたいか」
「あー、そりゃなりたいっちゃぁなりたいですけどぉ、そんなの許してくれないじゃないですかぁ」
ニートは全人類の夢ですよ!
働かずに生きていけるなんて夢のまた夢だって知っている。
けど、夢見ずには生きていけない。
それがどんな内容であっても、心の糧にはなってくれる。
大袈裟だって?
はははそんなことないですよ。
「わかっているなら動け。働けなくなったら追いだすからな」
「鬼畜ご主人・・」
「何か言ったか」
ぎらっとご主人の眼が光った。
うーむ、地獄耳。
「何も言ってませーん!お掃除行ってきまっすぅ!」
これ以上主に睨まれる前に、さっさと逃亡した。
撤退は敗北ではないのだー!
・・・まったく、ほんと怖い人だよ。
けれども、背後で密やかに吐かれる悩ましげな溜息のことなど、当然あたしは知る由もない。
あたしがある日突然世界を越えたのは、今はもう2年前のこと。
学校行くのだるいーなんていいながら歩いていたときだった。
寝坊して友達に置いて行かれて、珍しく1人だったんだよね。
それが幸か不幸だったかなんて今更どうでもいい。
1人であったから友達を巻き込まなくて済んだと思えるし、逆に1人だったからあたしはあんな目に遭ったのかもしれない。
でも実際に来ちゃったものは仕方ないし、過去のことは今更どうしようもないし。
けど、そのきっかけは、今思い出しても相当あほらしいと思うんだ。
それは、あたしの足がたまたまそこにあったマンホールを踏んだ、たったそれだけ。
「ぎゃっ!?」
普通に踏んだマンホール。
確かに、踏む為にあるものじゃないし、踏まない方がいいなんてことも、当然知ってた。
けど、その時のあたしにとって、それは道の一部でしかなかったんだ。
なのに当然返ってくると思っていた感触が、次の瞬間にはなくなった。
あると思った地面がなくなるって相当びっくりするよね。
リアルに心臓が口から飛び出るかと思ったよ。
突然の浮遊感に、可愛げもない悲鳴が飛び出たのだって仕方のないことだと思う。
そもそもあたしって可愛げない女だしーしょうがないよねーって、ちょっと話逸れた。
まぁそんなこんなで、あたしはこの世界に落っこちたってわけ。
それから、正直あんま思い出したくないけど、結構悲惨な目に遭ったんじゃないかなー。
落ちた時には意識がなくなってたから、地面に衝突したのかしてないのかわからないけど、とりあえず怪我がなかったことだけは感謝すべきか。
目が覚めた時には、どこだかわかんないけど、以前写真で見たオランダの田舎町みたいなとこに居た。
さっぱり何が何だかわかんなくて、混乱するばかりで泣くに泣けなかった。
せっかく勇気出して話しかけてみた通行人とは、言葉も通じなかったしね。
チートとかのお約束が何にもなかったのは、ちょっとていうか結構困った。
だって、あたしが混乱してる間に、人生初、人攫いに遭っちゃったから。
見た目優男で良い人風だと判断したのが不味かったみたい。
そこからは、ちょっと地味な転落人生の始まりで。
見るからに脂ぎったガマガエルみたいな成金親父に買われちゃって。
もっと相手見て売れよなって思ったけど、多分それは現実逃避。
買われたあとは、奴隷みたいにってか、まさしく奴隷だね。
朝昼晩休む間もなく働かされて、たまーに気が向けば犯された。
初めてがガマガエルってのはまじ死ねると思ったなー。
いや、結局のところ死ねなかったけど。
まぁそれは置いておこう。黒歴史だ。
それから、帰り方もわかんないしこんな辛いめにあってまで生きてる意味がいよいよわからなくなって、でも死ねもしなかったから、馬鹿なあたしはとりあえず逃げることだけを考えた。
いやぁ、人生であんなに必死になって頭使ったの初めてです。
そういや良く考えたら、こっち来てからやたら初めてづくしだったんだよねーははは。
それはいいとして、言葉も分かんないなりに必死に逃走方法とか、経路とか、どうしたらいいか考えた。
館に住む人間のスケジュールを把握して自分の仕事の合間に逃げ道探して、隙あらば金目の物を溜めこんで・・まぁそこは微々たるもんだったけど。
ガマの持ってる高級な服に金ボタンがついてたりして、それをぶち切ってみたりね。
そうしてある夜に、ようやく機会を得て、あたしはそこから逃げ出したんだ。
あ、せっかく集めた金目のものは、逃亡のどさくさで諦めざるを得ませんでした。
あんだけ必死に集めた苦労が水の泡。
でも逃げることに必死で、あたしはそれを切り捨てたんだ。
そもそも1年半そこに居ただけ、あたしは自分の忍耐力を誇りたいわけだけど。
多分それだけそこに居て、その間あんま抵抗とかしなかったから、ガマガエルも油断したんだろうね。
最初は逃亡防止に鉄輪を脚に着けられてたし。
そんな感じで逃げたは良いけど、その後がまた困ったわけで。
言葉なんてろくにわかんないし勿論地理なんてさっぱり。
食べ物だって持ってなくて、普段与えられてた食事も微々たるもの。
普通の人に助けを求めるにも、あたしは奴隷だし見るからに怪しいし、連れ戻される可能性のほうが高いような気がして、出来なかった。
つまり、早々に野垂死ぬのがオチだって、考えたらあほなあたしにだってわかった。
けどどうしてもあそこで死ぬのだけはやだったんだから、しょうがないよね。
逃げ出して5日目、あたしは路上で倒れ込んだ。
歩く力が無くなって、座る事も出来なくなって、あたしはそこで初めて泣いたんだ。
何でこんな目にあったんだろうって、思うよねやっぱり。
確かに望んではいたけどさぁ、他の世界に行きたいって。
でも、理由がわかんなきゃ流石に理不尽だって、ねぇ思うでしょ?
けどそれが現実だって、ちゃんと理解してなかったあたしのミスだってことも知ってた。
夢物語みたいなご都合主義のお話なんて、あるわけなかったんだ。
わかりたくないけど、本当はわかってた。
苦しくて痛くて気持ち悪くて、でもそれ以上に悲しくて寂しくてしょうがなかった。
家族に会いたくて、友達にも会いたくて、こんなんでも好きな人が居たんだよ。
告るなんてしんでもむり!なんて思ってたけど。
こんな目に遭ってもう二度と会えないんだってわかってたら、きっと特攻してたなあたし。
我ながら追い詰められなきゃやらない尻の重たさに、ちょっと笑いがこみ上げた。
でも、ちゃんと笑う力もなかったあたしは、口角を緩めただけだった。
そんでそろそろダメかなって、わかったんだ。
死期を悟るってゆーのかな、でもこれで楽になれるって、ちょっとほっとした。
今までぬくぬく生きてきたふぬけに、この奴隷生活は厳しすぎました。
疲れちゃったって、あたしは目を瞑ろうとしたんだっけ。
いや、瞑って、もうこれでさよならだって意識を手放した。
それから。
何でか知らないけど、まだ今あたしはこうして生きてる。
どうやらあたしは、たまたま通りがかったご主人に拾われたらしかった。
ぼろぼろの古雑巾みたいだったあたしを、何の気まぐれか、拾って介護して教育してくれて。
今ではこのお館のただ一人のご主人さまに雇われて、ハウスキーパーとして働いている。
ハウスキーパーっていうかメイド?ていうか何でも屋さん?
やってること自体は、実は奴隷時代とそう変わらない。
でもあの頃はもっとくだらない雑用がメインだったから、ここに来てから初めてやる仕事も多い。
それなりに広さのある館には何故かご主人とあたししか居なくて、必然的に家事は全部あたしの仕事。
毎日が忙しくて目まぐるしくて、辛かったころを思い出す暇もないのに救われたかなぁ。
ま、けどやっぱ新しいご主人はやたら人使い荒いから、少しは人増やして欲しいと思わないでもない。
そろそろ過労死しちゃいますよ、あたし。
貧弱なのよ現代人。
あ、あたし限定か。
「おい、さぼるな」
「やってますよぅー」
窓の桟を拭きつつ、お茶を飲みながら優雅に後ろであたしを監視しているご主人に口答えしてみる。
それが許されてるってことが、なんだかそれだけ気を許してくれてるみたいで、ちょっと嬉しい。
雇われの身としてはだいぶ失格だってわかってるけど。
ちなみに今着ているのはメイド服みたいなお仕着せで。
かっちりした布のそれは、長さが足首くらいまであって、ちょっと動きにくい。
なんせあたしは、元じょしこーせー!
向こうに居た頃は短いのが当たり前でした。
だから、丈をひざ上にわざと改悪し、動きやすいように勝手に変えちゃった。
だって足首までってなんかもにょもにょする。動きづらいよ。
それをみたご主人に怒られたけど、これで外出ないからって説き伏したあたしグッジョブ。
仕事の能率アップにご協力してくんなきゃ困るのはご主人ですよってね。
「はいっしゅーりょー!夕飯の買い物に行ってきますっ」
「おい」
「やだなぁ、わかってますよぉ。ちゃんと着替えますってー」
「・・そんなことを言って、この間も忘れてそのまま行ったろう」
「いやん、ご存知でしたか。うっかりしててー」
「うっかりじゃない。わかっているんだろうな?」
ぎらっと眼光鋭く睨まれて、顔は笑顔を保ったまま、内心でうひぃと奇声をあげてしまった。
やーねぇ、だから怖いんだってばぁ。
けど、この世界ってほんとめんどーです。
いいじゃん膝上くらい。足出すくらいなんだってーの。
そんなことを思ったけど、こちらの基準では女性は肌見せしないんだとか。
中世とか基準がそんな感じー?止めてよねもー。
まぁあたしはただの雇われの身ですし、ご主人の評判を落としたいわけじゃない。
大人しく従いますとも。
それに、今の生活は、なかなか気に入っているのだ。
「じゃ、行ってきまーす」
「・・いや、まて、ミズハ。私も行く」
「えー?いいですよぅ、忙しいんですから仕事してくださーい」
「行く」
「・・別にいいですけどぉ」
「玄関で待ってろ、すぐ行く」
「はぁい」
丈の長いお仕着せに着替えて、出かけることを告げると、珍しくご主人までついてくるらしい。
どーいう風の吹きまわしー?
ご主人はあたしを拾ってから、言葉もまともに喋れないあたしに生きる為の必要最低限の知識をくれた。
だから今はもう独りで生きていくことだって可能になった。
その上向こうの世界での知識も活かして、料理の腕は以前よりも上がってる。
ご主人はそれを知ってて、いつも文句も言わず完食してくれるんだけど。
なんだろう、何か食べたいもんでもあったかなぁ。
まぁ、1人で行くより寂しくないからいっか。
「行くぞ」
「はーい。ご主人、今日は何が食べたいですかー?」
「・・別になんでもいい」
「そーゆーの一番困りますって言ってるじゃないですかぁ」
「ミズハが作るものだから、何でもいい。ダメか?」
「・・・わーお不意打ちー」
・・最近何が困るって、こんな感じでご主人が突然あたしなんかにデレたりすること。
それこそ、どーいう風の吹きまわしなんでしょーかって、聞きたいのに聞けない。
死にかけたとこ拾ってくれた恩人で、そっけなくも随所に気配りしてくれて、1人で生きていけるまでに教育までしてくれて、おまけに美形のご主人ですよ。
これで惚れなかったら女じゃねーよってねぇ。
しかしそれはこちらだけの都合だし、ご主人には関係ないことなんだ。
だから別に、ただの小間使いにご主人が優しい言葉をかけてくれる必要もない。
なのに、ツンデレってこーいうのかなぁってなんか最近良く思うようになったのはどーしてかしら。
基本ツンツンなのに最近出始めた無意味なデレに不意打ち食らって、もう大変なのだ。
ご主人の言葉に思わず顔を赤くしちゃうあたり、あたしってほんとわかりやすいよねぇちくしょう。
でもね、それを見たご主人がにやりと悪戯成功したみたいに笑うのも、もーねー、ツボなの。だめ。
ええいこの野郎、顔があげらんないじゃないかー。
「ミズハ、腹が減った。行くぞ」
「はぁーい・・」
楽しげな顔を即座に引っ込めて、ご主人はお店へ向かっていく。
あぁ、あたしがこの人に勝てる日って、多分一生来ないんだろーなー。
それでもいいから、今はもうちょっとだけでも良いからお側に置いてくれるよう、あたしはただただ祈るしかないのであった。
始まりは突然で、悲惨な目にも遭ってきたけど、今あたしは幸せです。
あたしの中では現在進行形の異世界トリップ。
これは、ご主人に拾われた、あたしこと瑞葉のお話。