ゆかりさんの場合
「・・・・・えーとぉ、」
気付けば、ぽつーんと1人森の中。
空は木々に覆われほとんど見えず、明かりもない為に真っ暗に近い闇が辺りを覆っています。
昼なのか夜なのかすら判別出来にくく、しかし木々の枝葉から零れる僅かな光が、昼であることを教えてくれているようです。
視点を替え、辺りをきょろりと見まわしたところで、立派な木々以外に目に入るものがありません。
はて、と小首を傾げ、手を顎に当てて思案に耽るも、さっぱり見当がつきません。
「あらぁ・・」
一体、ここはどこでしょーか・・
のんびりぽやーんが代名詞と周りから言われる紫さん、突然世界を越えたのは、御年25歳の春でした。
「行ってくる」
「はい、いってらっしゃいませ」
にこにこほやほや答える紫さんに、真正面に立っていた男性がじっと視線を注ぎます。
鉄面皮のように無表情ではありますが、その視線には誰が見ても分かるくらい、熱を孕んでおりました。
ただ、それだけでは天然かつ色恋沙汰には特に鈍感な紫さんには、針の先ほども通用しません。
結局あっさり見送られ、大きな身体を心なしかしょんぼりさせながら、職場へと向かいました。
「さぁ、お仕事をしなくては」
ふむ、と腕まくりをして、やる気を注入。
朝起きたら洗濯をして朝ごはんを作って食べさせ、お見送り。
ここまでは終了しましたので、今度は家中をお掃除してお買い物、夕方にはきっと乾いているであろう洗濯ものを取り込んで、晩御飯の支度をしなくてはなりません。
そう作業速度の速くない紫さんです。
ここで2ヶ月を過ごし、ようやく慣れたところでもありました。
一日、家のことをするので手いっぱい。
ぼんやりしている暇はありません、まずは明るいうちにお掃除です。
「それにしても、幸運だったわ」
ふと、こちらへ来たばかりの頃を思い出し、その顔に笑みを浮かべました。
あの日、紫さんは職場のお使いで近所のお得意様のお宅へ向かうよう上司に言われました。
小さな会社のお馴染みさんなので、そう格式ばることはありません。
むしろそういったことを殊更嫌がる客先でした。
そして紫さんは既に何度も訪問したことがあり、既知の仲でもあったのです。
なのでいつものように制服の上にカーディガンを羽織った姿で、会社を出ます。
しかし、正面玄関を出たあたりで、視界がさっと暗くなったことに気付きました。
あら?と顔をあげて辺りを見渡すと、そこはもう見知らぬ森の中だったのです。
「あの時、拾って頂かねば、今頃はきっと白骨死体ですもの」
うふふ、と微笑みながら地味に物騒なことを呟きます。
あながち外れてはいないところがまた恐ろしいですね。
何故なら本人は知りませんが、紫さんが現れた森には、人を食らう獣がたくさん住んでいたからです。
しかし幸運にも、紫さんは途中で通りがかった男性に拾われました。
見た目、長身で厳つく髭面の、筋肉隆々とした恐ろしい男でしたが、性根は優しかったのが幸い。
好意に甘えて、それからは男性のお家に住みこみ家政婦として働いております。
「本日は2階から済ましてしまいましょう」
るんるん気分でお掃除用具を抱えて、2階へ上がります。
そう広くはないお家ですが、それでも2階に部屋が3つと、1階に部屋が1つとリビングがあります。
紫さんは、トイレとバスルームは何故か両方にあるというのがちょっとだけ豪華に感じました。
何故なら今ここに住んでいるのは男と紫さんだけ。
紫さんが来る前は、男が1人で住んでいたようです。
「どうしてお1人なのに、トイレとバスルームは2つもあるのかしら?」
そんな疑問を零しつつ、良く考えてみなくても、紫さんは男の素性を知らないのです。
もっと言えば、彼が何の仕事をしているのかすらわかりません。
そもそも当初そう言った事情を聞かなかった紫さんは、今この時まで、疑問にすら思いませんでした。
「まぁいいわ、さぁお掃除お掃除」
以前は家族で住んでいたけれど、今は何か理由があって一人になったのだと考えれば、変なことではありません。
そう考えた紫さんは、気を取り直して、掃除を再開することにしました。
ぱたぱたとハタキをかけ、ほうきで床を掃き、クロスで棚などを拭いていきます。
こちらへ来てから、昨日で2ヵ月余りの月日が経ちました。
毎日掃除をしているので、ほとんど汚れは溜まっていないのですが、続けることが肝心と紫さんはお掃除に手を抜いたりしません。
そうして2階のお部屋を全て完了させる頃には、お昼になっておりました。
「あら、もうお日様が中天に。いけない、急がないと」
窓から空を仰いだ紫さんは、慌てて掃除用具を抱えると、キッチンへ向かいました。
お掃除道具を片付、手を洗い、お昼ご飯の用意に移ります。
籠の中からパンを取り出してスライスし、卵は塩コショウを振って煎り卵に、ベーコンも炙って焼き色を付けます。
バターを塗ったパンに具を挟んでいけば、簡単サンドウィッチが完成しました。
手早く支度を整えた紫さんはバスケットにサンドウィッチと、ビンに水で薄めたワインを入れると、戸締りをして家を出ました。
「あぁ、もういらしてる。また遅くなってしまったわ」
ぱたぱたと急ぎ足で、頬を赤く染めながら向かった先は、家から少し離れた広場の噴水前でした。
そこには今朝がた別れたばかりの男が、無表情で立ち尽くしています。
紫さんは、男の為にお弁当を作って差し入れ、ついでに一緒にご飯を食べているのでした。
そうするようになったのは、ここ1週間ばかりの事なのですが。
「ごめんなさい、遅くなってしまいました」
「いい、急ぐな」
急ぐあまりに、頬を紅潮させ軽く息を乱しながらも真っ直ぐ男を見上げる紫さんから、男が僅かに眼を逸らします。
それに不思議そうな顔をしたあと、両手に抱えていたバスケットを掲げました。
「お昼に致しましょう」
にこっと微笑む紫さんから眼を逸らしたまま、男の浅黒い肌が、心なしか赤くなったように見えました。
度々そういったことがある為、紫さんもちょっと気にはなりつつも、ここはとりあえずスルーします。
本当に熱が出ているのなら大変ですが、彼はいつも、これくらいでは大したことないというのです。
何度か押し問答をしたこともありますが、本人がひたすら固辞するので、そのうち諦めてしまいました。
元気だというのならそれで良いのです。
「本日はどちらで召し上がりますか?」
「・・・あそこで」
「はい」
男の指差したほうでは、大きな木が日陰を作っており、ちょうど良さそうに見えます。
紫さんが喜んで返事をしてそちらへ向かおうとすると、男がバスケットを持ってくれました。
こういうところは紳士的なのです。
見た目はそれをかなり裏切っておりますが。
ゆったり並んで目的地に向かった2人はそこに座りこむと、これまたゆっくり食事を終え、特に話をして盛り上がるわけでもなく暫しそこでぼんやりすると、男は職場へ、紫さんはバスケットを抱えて家に戻りました。
「さぁ、今度は1階ね」
家に戻って早々お掃除を再開した紫さんはしばらく作業に没頭し、日が暮れる前に終わらせました。
自分の身繕いを簡単に済ませると、今度はお夕飯のお買いものに出ます。
お昼に使ったバスケットを抱え、小さな前ポケットにお財布を突っ込み、紫さんは家を出ました。
「本日はお魚に致しましょうか、それともお肉がいいかしら?」
お店に向かう途中で、本日の献立を考えます。
お昼はサンドウィッチにベーコンを使ったから、お魚にしようかしら。
そんなことを考えつつ歩いていると、前方の角を曲がったところで誰かとぶつかってしまいました。
「きゃっ」
「うわっなんだ嬢ちゃん、あぶね・・・うわわわっす、すまん!!」
ぶつかった相手の体がしっかりしていた為か、紫さんは少し弾んで後ろに尻餅をつきました。
相手は慌てて紫さんに手を差し伸べようとしましたが、紫さんが顔をあげると、顔を蒼白にして謝ってきました。
「いえ、私の前方不注意ですから、お気になさらず」
にこりと笑うと相手も少し表情を緩めましたが、それでもすぐに顔色を悪くして、手を差し伸べてくれました。
「す、すまねぇ・・怪我は?」
「大丈夫ですよ、これくらい。ありがとうございます」
にこにこふわふわ、緩やかに答える紫さんにほっと息を吐こうとした相手の顔が、蒼白のまま、次の瞬間にはぴしりと固まりました。
「あの、どうなさったの・・?」
いきなりの変貌ぶりに驚いたのは紫さんです。
目の前の男性が見る間にガタガタと体を震わせるのを、心配げに見ています。
思わず、そっと手を差し伸べたところで、横からそれを阻む大きな手が乱入しました。
「あら?」
そちらへ目をやると、同居人である男が紫さんの手を握っています。
その事実に気がついた紫さんがぽっと頬を染めるのをよそに、男は加害者である通行人を睨み据え、通行人は今や蒼を通り越して真っ白になっておりました。
「どうしてここに?」
同居人がふと紫さんへ視線を戻して、問うてきます。
紫さんはにっこりほほ笑むと、手を握り返しながら、答えを返しました。
「はい、お夕食のお買いものに」
「そうか、では行こう」
「お付き合いくださるのですか?」
ちょっとだけびっくりして眼を瞠った紫さんに、男がこっくり頷きます。
それに頬を染めながら満面の笑みを浮かべた紫さんは、嬉しげに誘導し始めました。
紫さんと男の頭には、既にぶつかった人のことなどさっぱりありません。
「お夕食はお魚にしようと思ってたんです」
「あぁ」
にこにこしながら一生懸命に話をする紫さんを、眼を細めながら見つめる男は至極満足そうでした。
それから、男をお供に、お目当ての食材を何軒かはしごして買い込んだ紫さんは、家に帰ると早速調理にかかりました。
その間、キッチンのテーブルに座って紫さんをじっと見つめる男に、お礼も兼ねてお酒とおつまみを進呈しておくのも忘れません。
勿論、その後もなるべく待たせないよう手早く仕上げました。
男とゆっくり夕食を摂った後は、お風呂の支度をして、先に頂きます。
家に風呂は2つもあるというのに、いつも紫さんが浸かった後、男が入るのです。
その理由も紫さんには不明なのですが、もったいないから良いわとしか思わない紫さん。
湯上がりほかほかのまま、男へ報告に行くと、じっと見つめる熱い視線に、きょとりと目を瞬かせました。
「どうなさいました?」
無表情、無言がデフォルトなのです。
他人の心の機敏に疎い紫さんでは、到底気付くことは出来ません。
心底不思議そうに首を傾げ続ける紫さんに、男の方が根負けしたようです。
がっくり頭を垂らし、大きな溜息を一つ吐きながら、なんでもないと頭を振りました。
「そうですか?では、わたしはこれで。おやすみなさい」
にっこり笑顔で挨拶をし、清々しく背を翻した紫さんを、男が恨めしそうに見つめていたなんて・・・きっと、彼女は一生知ることはないでしょう。
そんな風に日々をのんびりゆったり過ごしている紫さん。
実は男が紫さんに一目惚れして家に連れ込んでたとか、それから半年後に男の忍耐力も限界が来て襲われるとか、憎からず思っていた紫さんもそれを許容して婚姻まで流されてしまうとか、連日襲われたおかげでこどもがぽこぽこ出来て子だくさんの大家族になるとか・・・それは今の彼女にはあずかり知らぬこと。
とにもかくにも、巷で流行りの異世界トリップ。
これは天然鈍感なゆかりさんの場合のお話でした。