悪魔に仕えた騎士~重巡洋艦『プリンツ・オイゲン』~
一九四二年、二月十一日。ブレストの港は、いつにも増して静かだった。
……いや、静かなのではない。港を包む緊張感が、そこにいる者の聴覚を麻痺させているのだった。
吹き抜ける風や、打ち寄せる波の音。そして、港に停泊する艦船が発する騒音。およそ港で発生する全ての音が、その場に満ちる空気に吸収されていた。
静寂に支配された港内。そこに、<彼女>はいた。重巡洋艦『プリンツ・オイゲン』――ドイツ第三帝国海軍の最新鋭巡洋艦だ。
基準排水量一万四六八〇トン。全長二〇七.七メートル、全幅二一.七メートル、最高速力三二ノット―――これが、アドミラル・ヒッパー級重巡洋艦三番艦『プリンツ・オイゲン』の性能である。八門の二〇センチ砲を主砲とし、更に十二門の魚雷発射管を装備する。その能力は、他国の巡洋艦と比しても何ら遜色は無い。掛け値無しに、主力重巡と呼ばれるに相応しい性能を有していた。
『プリンツ・オイゲン』の艦上は、ひどく静まり返っていた。出港を間近に控え、暖機を行う機関の振動が、小刻みに艦を振るわせている。
チャコールグレーの塗装が施された艦首と艦尾は、夜の闇によく溶け込み、風景と完全に一体化している。反対に、ホワイトグレーに塗られた艦中央部は薄い月明かりに照らされて、闇の中にそのシルエットを目立たせている。艦の全長を誤認させ照準を狂わせる、対潜水艦用の迷彩塗装だった。
だが、巧妙に仕掛けられた側面の迷彩塗装とは反対に、甲板には迷彩効果など関係無いと言わんばかりに巨大なマーキングが施されていた。赤字に白い円、その中に描かれる鉤十字。悪魔の国ナチス・ドイツの象徴、ハーケンクロイツである。艦首と艦尾にでかでかと描かれた紋章は、夜の闇の中、不気味に浮かび上がっている。それは、悪魔との契約印のような禍々しささえ湛えていた。
その悪魔の印を見下ろす、一つの影があった。影は艦首から数えて二番目のブラウナウ主砲塔(注・『プリンツ・オイゲン』の主砲塔は艦首側から順に「グラーツ」「ブラウナウ」「インスブリュック」「ウィーン」とオーストリアの都市名で呼んだ)の上に立ち、艦首甲板に描かれた禍々しき紋を見詰めている。
一陣の風が吹き、月にかかっていた雲が晴れる。三日月よりも細い月輪の光が、影の素顔を照らし出した。
それは、絵画のように幻想的な光景だった。蒼い闇を背景に、一人の少女が屹立している。月光に輝く髪は黄金を靡かせ、玉の肌は陶器よりも白い。細く伸びた肢体と起伏のある身体が、抜群のプロポーションを演出している。使命感を帯びた鋭い眼差しも、漆黒の軍服と相まって少女により一層の気高さと美しさを与えていた。
もし彼女の姿を見た者がいたならば、恐らく彼女を戦乙女と呼んだだろう。だが、この艦に彼女の姿を見る事ができる者はいなかった。出港を前にして皆が配置に就いているからではない。そもそも、彼女は常人には決して触れる事のできない存在―――艦魂だったからだ。
『艦魂』――それは、古くから海の男たちの間に語り継がれてきた伝説である。海を往く船には、艦魂と呼ばれる存在が宿っている。艦魂とは、文字通り艦の魂が具現化した存在であり、客船から軍艦、漁船まで艦魂のいない船は存在しない。その正体には諸説あるが、共通した認識事項が二つある。すなわち、艦魂は限られた人間しかその姿を見る事ができず、彼女たちは皆、若く美しい女性の姿をしているという事である。
主砲塔の上に立つ少女。彼女は、そういう存在だった。選ばれた者にしか触れる事を許さず、常人には姿を見る事すら許さない。彼女は――ドイツ第三帝国巡洋艦『プリンツ・オイゲン』艦魂、プリンツ・オイゲンは――そういう存在だった。
「今回の作戦は、成功するのだろうか……」
青い瞳を翳らせて、オイゲンは呟いた。
彼女は、今回の作戦の成否に不安を感じていた。「ツェルベルス作戦」と名付けられた今回の作戦は、極めて危険な作戦だった。
作戦内容を概略すると、こうだ。
『プリンツ・オイゲン』と戦艦『シャルンホルスト』『グナイゼナウ』から成る艦隊は、夜陰に乗じてブレスト港を出撃。そのままドーヴァー海峡へ向かい、白昼堂々ここを突破する。その後、ドイツ本国のキール軍港へ入港する。キールに辿り着いた艦隊は、ノルウェーの防衛に投入される予定だ。
―――危険極まりない。
それが、初めに作戦内容を聞かされた時にオイゲンが思ったことだ。自殺行為だとさえ思った。
英仏両国を隔てるドーヴァー海峡。その幅は、僅か三二キロに過ぎない。そこを通過するなど――しかも、真っ昼間に――無謀としか言いようがない。オイゲンは、思わず旗艦のシャルンホルストに詰め寄った。リスクの高い作戦に反対する彼女に、シャルンホルストは「真っ昼間の海峡突破により敵の虚を突き、迅速な対応を妨げる」と説明した。その時はしぶしぶ引き下がったが、内心では今でも作戦に対して疑問を感じていた。
「……何を言っているのだ、私は」
自らを戒めるように、オイゲンは低く言った。
「私は誇り高き騎士。祖国にただ忠節を尽くし、戦うのみ」
―――そう。自分は騎士。主の命を受け、忠実にそれを実行する騎士。主の命に疑問を抱く事は、許されない。例え仕える相手が悪魔の帝国であっても……。
オイゲンは口元を引き締めると、波打つ海面を見据えた。
◆ ◆ ◆
午後九時、艦隊はブレストを出港した。旗艦『シャルンホルスト』を先頭に、姉妹艦『グナイゼナウ』と『プリンツ・オイゲン』が続く。その周りに護衛の駆逐艦が数隻、三隻を囲むように追従する。
先程と変わらぬ立ち位置のまま、オイゲンは海面を見詰めていた。港外や海峡に敷設されていた英軍の機雷は味方の掃海艇によって取り除かれ、艦隊が通過できるようになっていた。オイゲンたちは、そこを進んでいる。だが、海面に視線を送るオイゲンの表情は険しい。彼女は油断無く周囲に気を配っていた。
機雷は無事に除去されていたとしても、100%安全な訳ではない。敵潜水艦の脅威もあれば、取り除き損ねた機雷があるかも知れない。万が一に備えて、警戒は怠ってはいけない。彼女の周りには、張り詰めた弓の弦のような空気が漂っていた。
「……やっぱり、納得いかないかしら?」
不意に聞こえた声に、オイゲンは動じる事なく後ろを振り向く。そして、声の主に答えた。
「いいえ。提督」
「そう。なら良いんだけど……。何だか、怖い顔していたから」
主砲塔の上、オイゲンの背後に、一人の女性が立っていた。歳は二十ほどであろうか。オイゲンと同様に長い金髪を夜風に靡かせているが、垂れ目がちな瞳のせいもあって、外見から受ける印象はオイゲンとは正反対の柔らかなものだった。
彼女は、戦艦『シャルンホルスト』の艦魂、シャルンホルスト。本作戦の艦隊旗艦である。
「私は、忠実なる騎士。与えられた命令は、例え如何なるものであろうとも、躊躇わずに実行します」
オイゲンのやや抑揚に欠ける声が洋上に響く。その頼もしい言葉を聞いたシャルンホルストは喜ぶでも安心するでもなく、心配そうな表情を見せた。
「そんなに気を張ってばかりいたら、身体がもたないわ。少しは、力を抜いた方が良いわ」
「御心遣い、感謝します」
シャルンホルストの気遣いに、オイゲンは事務的な返事を返す。優しげな垂れ目を伏せたシャルンホルストは、割れ物に触れるような調子で言葉を発した。
「……ビスマルクの事、まだ悔やんでいるの?」
「…………」
「彼女の事は、残念だった。でも、それは貴方の責任ではないわ」
「……いいえ、違います」
搾り出すような声が、シャルンホルストの言葉を否定した。
「私が……私が、あの時ブレストへ向かわなければ……。そうすれば、悲劇を防げていたかも知れないのに……ッ」
握った拳を震わせ、オイゲンは言った。その声は小さく、掠れていた。
今から一年前の一九四一年五月十八日、『プリンツ・オイゲン』は大西洋で行われる通商破壊作戦「ラインユーブンク」に戦艦『ビスマルク』と共に参加した。『ビスマルク』は前年八月二四日に就役したドイツ海軍最新の戦艦であり、三八センチ砲八門を有するその戦闘力は他国の新鋭戦艦に比しても決してひけを取らないものだった。
出撃した両艦は二四日、デンマーク海峡で迎撃に出たイギリス海軍の巡洋戦艦『フッド』、戦艦『プリンス・オブ・ウェールズ』と交戦。前者を撃沈し、後者にも損害を与えて敗走させた。その後、『プリンツ・オイゲン』を離脱させ単艦となった『ビスマルク』は、敵の執拗な攻撃を受け、二七日に沈没した。
後悔の念に苛まれる彼女の肩をそっと抱き、シャルンホルストは言う。
「それを言うなら、私も同じよ。私とグナイゼナウが……どちらか片方だけでも、一緒に行けていたなら……。そうしたら、彼女を助けてあげられたかも知れない。貴方にも、辛い思いをさせなくて済んだ。ごめんなさい」
「いいえ。提督が謝られる事はありません。全て、私の力不足のせいです」
頑なに自分の非を主張するオイゲン。彼女は唇をきつく噛み締め、涙が流れるのを必死に堪えていた。双頭の鷲の家に仕えた勇将の名を受け継ぐ誇り高き騎士。その名を冠すには、彼女はまだ余りに幼くて、しかし、彼女はその名に相応しい騎士になるために必死に努力を重ねた。誰よりも気高く、誰よりも強く。そして、彼女は強くなった。しかし同時に、彼女は脆くもあった。強く、脆く、美しく……目の前の少女はまるで、ガラスのような存在だった。
触れたら粉々に砕けてしまいそうな少女。そんな彼女を優しく抱いて、シャルンホルストは言葉を紡いだ。
「聞いて、オイゲン。あの子は貴方を助けるために、自らを犠牲にしたのよ。敵の狙いは自分だという事を、彼女は十二分に承知していたから。あの子は―――ビスマルクは、関係の無い貴方を巻き添えにしたくなくて一人で戦いを挑んだのよ。貴方に明日への希望を託したのよ。だから―――彼女の想いを無駄にしないで」
オイゲンは、すぐには答えなかった。いや、答えられなかった。今、何かを言おうとしたら、溢れる感情を抑える事ができなくなると分かっていたから。シャルンホルストもそれを知っていたから、答えを急かさずに、優しく彼女を抱き続けていてくれた。ようやく気持ちの整理がついたオイゲンが顔を上げると、シャルンホルストと目が合った。少女は軍服の袖で乱暴に目元を拭うと、僅かに上ずった声で言った。
「ドイツ海軍巡洋艦『プリンツ・オイゲン』。この戦いを生き残り、我らが祖国に勝利の栄光をもたらす事を誓います」
少女の力強い宣誓に、シャルンホルストは微笑で答えた。そして、自分より頭一つ分小さい少女の頭を撫でた。
「貴方の想い、確かに聞いたわ。ビスマルクにも、きっと届いたと思うわ」
幼い騎士は、小さく頷いた。
シャルンホルストはくすっ、と笑うと淡い光の粒子を残して消えた。光の欠片が宙を舞い、やがて消えた。
オイゲンは深呼吸をすると、行く手を見詰めた。その表情は、既に騎士のそれだった。そこに涙を流す少女の面影はどこにも無かった。
夜通し二七ノットの速力で、艦隊はイギリス海峡を通過した。幸運にも、その間イギリス軍の攻撃を受ける事は無かった。夜が明けて日が昇ってからもその幸運は暫く続いた。その間に、艦隊は水雷艇と空軍の戦闘機と合流し、その戦力を向上させた。特に、空軍の戦闘機二個中隊の護衛は心強かった。艦隊はそのまま二七ノットの速力で最大の難関、ドーヴァー海峡へ突入した。
オイゲンは常の習慣通り、日の出と同時に起きると軽い体操をして身体を解した。睡眠時間はものの数時間だったが、どうという事はない。その気になれば、一週間は不眠不休でいられる自信がある。
体操の後は、これもまた習慣である朝の剣術の練習を行う。一太刀一太刀に実戦と同じ気迫を込めて剣を振るう。白銀の残像が、朝の空気を切り結ぶ。その様子は、一種の舞踊のようであった。
剣を鞘に納め、少女は小さく息をついた。白い肌を、汗の雫が伝う。
「シャワーでも浴びるか」
一人ごちると、オイゲンは光に包まれて姿を消した。
「……声かけそびれちゃったわね」
オイゲンが転移の光に包まれて消えた後。主砲塔の影から声が聞こえた。シャルンホルストは小さく苦笑し、そしてすぐに安心したような息を漏らした。
「でも、あの様子なら大丈夫そうね」
「誰が大丈夫なのですか? 提督」
「ひゃっ!?」
突然、背後からかけられた声にシャルンホルストは文字通り飛び上がった。驚愕の表情で見詰める先には、怪訝そうな表情をした少女が立っていた。
「……どうなされたのですか、提督?」
「オ、オイゲン!? どうしてここに!?」
「どうしても何も……。ここは私自身ですから」
「そうじゃなくて、シャワーを浴びに行くんじゃなかったの?」
「そう思ったのですが、先客がいたので。どうしたものかと艦内をうろついていたら、提督の気配を感じたのです」
やや抑揚の欠けた声でオイゲンは淡々と説明する。
「それで、何か御用ですか?」
オイゲンが尋ねる。シャルンホルストはゆっくりと首を振った。
「……ううん。特に用は無いわ。朝の挨拶をしに来ただけよ」
「……? そうですか」
「ええ。おはよう、オイゲン」
「お早う御座います、提督」
「今日はいよいよドーヴァー海峡を突破するわ。気を引き締めてね」
「心得ております」
「良い返事ね。それじゃあ、また後で」
柔らかな笑顔を見せてシャルンホルストは自艦へと戻った。それを見届けたオイゲンも、艦橋へと転移した。そして艦橋に転移した直後に、彼女は見張員の叫び声を聞く事になる。
「左舷、敵魚雷艇発見ッ!!」
「総員戦闘配置!」
艦長の号令がかかり、『プリンツ・オイゲン』の艦内は急に慌しくなった。見張員の報告を聞いた瞬間、オイゲンはブラウナウ主砲塔の上へと転移し、そこから左を睨んだ。
蒼く煌く海の上、そこを高速で疾駆る影があった。イギリス軍の魚雷艇だ。数隻の魚雷艇が陣形を組んで突撃を敢行してくる。オイゲンは腰の軍刀に手をかけた。
だが、彼女がその剣を抜く事は無かった。何故なら、艦隊を襲撃した魚雷艇はいずれも味方の防衛網に阻まれて退散したからだ。
突撃してくる敵魚雷艇に対し、上空から戦闘機が機銃掃射を仕掛ける。戦艦などの大型艦にとっては戦闘機の機銃掃射など大した事ないが、小型の魚雷艇にとっては大きな脅威である。たちまち二隻が遠距離から魚雷を発射して逃走した。一隻が戦闘機の防衛網を掻い潜ったが、今度は味方魚雷艇の集中射撃に遭い、やむなく撤退した。
さらに、別の魚雷艇が艦隊の後方を狙って攻撃を仕掛けてきたが、これは味方の駆逐艦が追い払った。
魚雷艇が苦し紛れに放った魚雷は全てが外れ、艦隊は一切の被害無く平然と前進を続けた。
敵魚雷艇が逃げ出していくのを確認したオイゲンは軍刀にかけていた手を離した。思わず、安堵の溜息が零れる。
魚雷艇の大きさは、軍艦とは比べるべくもない。だが、その小ささゆえの素早さを活かし、一瞬の内に肉薄して魚雷を放ってくる。その機動力は侮れない。特に、ドーヴァーのような狭い海域では魚雷艇は大きな脅威となる。実際、突撃してくる魚雷艇を目にした時は肝が冷えた。
その後、前進を続ける艦隊はスピットファイアの接触を受けた。いよいよ、敵の攻撃も本格的になりそうだった。これまで敵と遭遇せずにいられた幸運も、ここまでのようだ。
その予想は的中した。正午ごろ、『プリンツ・オイゲン』のレーダーが艦隊に接近する機影を探知した。間もなくして、西の空に黒い点が現れる。英国本土の基地から出撃した第八二五飛行中隊のソードフィッシュ雷撃機である。
雷撃機の姿を視認すると同時に、護衛のBF109戦闘機が迎撃に向かう。護衛のスピットファイアを巧みに躱し、BF109は雷撃機に迫る。BF109が全金属製の単葉戦闘機であるのに対し、ソードフィッシュは時代遅れの複葉機。圧倒的な性能差をもってBF109はソードフィッシュを駆逐するかに見えた。しかし、この時代遅れの羽布張り複葉機は機銃弾を浴びても穴が空くだけで中々墜ちず、ボロボロになりながらも戦闘機の迎撃網を突破した機体が雷撃体勢に入った。
「敵雷撃機三機、左から突っ込んで来ます!!」
「対空戦闘用意!」
『プリンツ・オイゲン』に搭載された四基の二〇センチ連装主砲塔が、ゆっくりと旋回する。射撃指揮装置から送られたデータに基づき、八門の主砲に仰角が加えられる。六十口径という長砲身の主砲が、振り上げられた巨人の腕のように天を指す。その主砲塔の上に立つオイゲンは、軍刀の柄に手をかけ、迫り来る雷撃機を見据えていた。
「ジョンブル共め……」
全身から殺気を放ち、オイゲンはソードフィッシュを睨め付ける。その瞳には狂気の色さえ宿っている。
「主砲、撃ち方用意!」
艦長の号令と同時に、オイゲンは柄を握る右手に力を込めた。
「ビスマルクの、仇……」
オイゲンの脳裏によぎるのは、一人の少女。自分を生かすため、自らを犠牲にして散っていった少女。
彼女は知らないが、この時攻撃を仕掛けた第八二五飛行中隊は「ラインユーブンク」の折、空母『ヴィクトリアス』から発艦して『ビスマルク』に最初の雷撃を行った中隊だった。その時の攻撃では、『ビスマルク』に一本の魚雷を命中させている。
直接『ビスマルク』にとどめを差したわけではないが、オイゲンにとってこのソードフィッシュの編隊は因縁の相手と言えた。もし、彼女がそれを知ったなら、ますます闘志を燃やしていただろう。
「覚悟ッ!!」
オイゲンが抜刀した瞬間、八門の主砲が火を吹いた。艦体を震わす轟音と振動が響き、辺りに木霊する。
振り抜きざまに放たれた白銀の一閃はそのまま主砲の火線となり、ソードフィッシュの編隊へと襲いかかる。よろよろと飛んでいた一機が、主砲弾の直撃を受けて粉々に砕け散った。
『プリンツ・オイゲン』の射撃から一瞬も間を置かずに、他の艦艇も対空射撃を開始した。暴力的な密度の弾幕の中、残るソードフィッシュは必死に目標へ近付こうとする。
戦闘機からの機銃攻撃には意外な強さを発揮してみせたソードフィッシュだが、水上艦からの砲撃に対しても同様とはいかなかった。複葉機であるソードフィッシュは、精々220キロ程度の最高速度しか持たない。戦闘機に襲われた際には鈍足ゆえに敵が追い越してしまうなどして命拾いする事もあったが、軍艦からは狙いやすい事この上ない。熾烈な対空砲火を浴び、一機また一機と海に叩き落されていく。
しかし、その様に過酷な状況の中でもソードフィッシュの搭乗員は勇敢であった。厚い弾幕を物ともせずに、ドイツ艦隊へと突撃を仕掛ける。ソードフィッシュの編隊は、殿を務める『プリンツ・オイゲン』にも襲い掛かった。
「右舷前方、敵機!」
「対空砲、全力で迎撃しろ!!」
弾幕を撃ち上げる砲術士たちに艦長が檄を飛ばす。艦橋から指示された方向を指向し、細長い砲身が鎌首をもたげる。
「貴様らだけは決して許さん! 地獄に落ちろッ!」
オイゲンの咆哮に合わせ、高角砲が火を吹き上げる。彼女の闘志が伝わったのか、高角砲はカタログスペックを凌駕する速度で砲弾を撃ち出し、敵機の攻撃を阻む。その気迫に圧されたのか、敵機は離れた位置から魚雷を投下して離脱する。
「右舷、雷跡二!」
「機関全速! 取り舵一杯!」
煙突から出る排煙が量を増し、艦の速度がぐっと上がる。左に転舵した艦は、遠距離から発射された魚雷を難なく躱した。
残り少なくなったソードフィッシュの一機が、雷撃体勢に入る。僚機が次々と落とされていく中、雷撃機は怯む事なく敵艦隊を目指した。激しい弾幕をものともせず、機体は雷撃針路をひた走る。付近で炸裂した対空砲弾が傷ついた機体を揺らし、海面には機銃弾が作る水柱が林立する。それでも、ソードフィッシュは頑なに針路を維持した。
だが、ソードフィッシュの武運もここまでだった。次の瞬間、対空砲弾の直撃を受けて機体は爆発四散した。しかし、天は最期の幸運をこの雷撃機に与えた。撃墜される直前、雷撃機は魚雷の投下に成功していたのだ。放たれた魚雷は戒めを解かれた猛獣のように艦隊目掛けて猛進した。
「左三十度、雷跡一!」
見張員の声が伝声管を伝って艦橋に届いた。『シャルンホルスト』の艦長は即座に命令を下した。
「取り舵一杯!」
「取り舵一杯!」
復唱を返した航海長が舵輪を思いっ切り左に回す。少しの間を置いて『シャルンホルスト』の艦首が左を向き始めた。その脇を、魚雷が通り過ぎていく。
「良かった・・・」
魚雷の回避を確認したシャルンホルストは、ほっとした様子で息をついた。短い戦闘の結果、イギリス軍側は壊滅的な被害を蒙ったが、ドイツ側の損害は皆無だった。艦隊は、またしても無傷で敵を撃退した。
そして、ソードフィッシュ隊の撃退に成功した頃、一行はドーヴァー海峡の中でも一番狭い地点を通過した。ここを抜ければ、あとは広い北海に出るだけである。オイゲンは、表情を和らげた。
「どうやら、無事にキールに辿り着けそうだな」
一か八かの賭けは、どうやら成功しそうだった。シャルンホルストが言った通り、イギリス軍は不意のドイツ艦隊の海峡突破に上手く対応できず、効果的な対策をとれずにいた。七つの海の王者を自称するイギリス海軍は、庭先の番犬の役も務まらないようだった。
「自国の目と鼻の先であるドーヴァー海峡を、しかも白昼堂々と突破されるとは夢にも思わなかっただろうな。今頃、チャーチルは地団駄を踏んで悔しがっているに違いない」
ざまあ見ろ、と言うようにオイゲンは笑った。イギリスの鼻を明かしてやれた事に、彼女は満足していた。
その後もイギリス海軍は駆逐艦を繰り出すなどしてドイツ艦隊の海峡突破を阻止しようと努力したが、効果をあげる事はできなかった。二月十三日午前七時、『プリンツ・オイゲン』と『グナイゼナウ』はキール運河の西端にあるブルンスビュッテルに到着。道中、機雷に接触して一時艦隊から落伍した『シャルンホルスト』も同日深夜、無事にヴィルヘルムスハーフェンに辿り着いた。当初、成功の可能性が限りなく低いと思われていた「ツェルベルス作戦」は、予想に反して成功裏に幕を閉じた。
一方、三隻のドイツ軍艦が白昼堂々ドーヴァー海峡を通過し、かつこれに成功したという事実はイギリス国民に激しい衝撃と屈辱を与えた。ロンドン・タイムズ紙をはじめ、様々な報道機関がこのニュースを大きく取り上げ、国民は海軍の不甲斐無さに憤慨した。この、ドイツ側にとっては痛快極まりない――イギリスには屈辱的な――事件は、「チャンネル・ダッシュ」の名で終戦までイギリス国民の心に焼き付けられる事となる。
◆ ◆ ◆
それから数年後。『プリンツ・オイゲン』は中部太平洋の洋上にその姿を浮かべていた。マーシャル諸島の北西部に位置するビキニ環礁。薄ぼけたバルト海の風景とは全く違う、鮮やかな色彩に飾られた景色の中に彼女はいた。
周りには、彼女の他にも大小様々な艦艇が停泊している。何重もの輪形陣を形成する艦隊は壮観ではあったが、しかし、よく見ると奇妙な光景でもあった。陣形を組む艦艇の所属は一定ではなく、様々な国の軍艦が雑多になって集まっている。各艦の状態にも差異があり、無傷の艦もあれば空襲の傷痕をまだ残す艦もある。そして、各艦には一人の人間も乗り組んではいなかった。
無人となった艦上で、オイゲンはここに至るまでの出来事を静かに回想していた。
一九四五年五月七日。ドイツ第三帝国の降伏に伴って『プリンツ・オイゲン』はイギリス海軍の軍門に降った。彼女がマストの戦闘旗を下ろした時、ドーバー海峡を突破した三隻の中で無事だったのは彼女だけだった。『シャルンホルスト』は一九四三年十二月、北岬沖海戦で沈没し、『グナイゼナウ』もイギリス軍の空襲により大破し廃艦同然となっていた。翌年一月、アメリカ海軍に艦籍を移された彼女はIX300の艦番号を与えられ、各種のテストを行われた。
そして今日、一九四六年七月一日。『プリンツ・オイゲン』はとある作戦に参加するため、故郷から遠く離れたビキニの地を訪れていた。ここにいる他の艦艇も皆、同じ境遇だった。
作戦開始時刻が近づく中、オイゲンは空を仰ぐ。所々に綿雲の浮かぶ鮮やかな青空を、オイゲンは鋭く睨む。やがて、遠くから低く唸るような重低音が聞こえてきた。
「来たか……」
接近してくる一機の爆撃機を見詰め、オイゲンが言う。彼女は迫り来る機影を見据えながら、静かに言葉を紡いだ。
「お前たちは、私の祖国を悪魔だと罵った……。だが、私たちがした事と、お前たちが生み出した『それ』は、どう違うのだ?」
爆撃機は、輪形陣の中央を目指して艦隊上空に侵入する。当然の如く、砲火を開いて抵抗を行う艦はいない。
機体は、ついに艦隊の中心に達した。爆弾倉の蓋が、ゆっくりと左右に開く。中に収められた『それ』が禍々しき姿を露わにする直前、オイゲンは言った。
「来い。どちらが本当の悪魔か、私が確かめてやる」
刹那、強烈な光が世界を包み込んだ。
一九四六年七月。アメリカは「クロスロード作戦」と呼ばれる原爆実験を行った。一日と二五日に実施された実験はそれぞれ「エイブル」「ベイカー」と呼ばれ、前者は空中、後者は水中での爆発効果を確かめた。実験には敗戦国から接収した軍艦やアメリカ旧式艦が使用され、『プリンツ・オイゲン』の他にはアメリカの空母『サラトガ』や日本の戦艦『長門』などが名を連ねていた。
『プリンツ・オイゲン』は「エイブル」の爆発を生き残り、続く「ベイカー」をも耐え抜いた。二五日の実験で『サラトガ』が沈み、四日後に『長門』が海中に姿を消した後も、彼女は浮かび続けた。
実験を生き延びた『プリンツ・オイゲン』は九月にクェゼリン環礁に曳航されたが、放射能による汚染が酷く、そこで放置されたまま十二月二二日、座礁し転覆。解体処分に付された。解体された同艦のスクリューの一つは、祖国ドイツのキール海軍記念公園に移管され、今も後身たちの成長を見守っている。
どうもこんにちは。石田零です。
私自身にとっては初めての短編小説(艦魂作品としては二作目)でしたが、如何でしたでしょうか。
さて、早速ですが、この物語の主役である巡洋艦『プリンツ・オイゲン』について説明したいと思います。
『プリンツ・オイゲン』は、アドミラル・ヒッパー級巡洋艦の三番艦として一九四〇年八月に竣工しました。彼女の艦名はオーストラリアの英雄、オイゲン・フランツ・フォン・サヴォイエン・カリグナンに由来します。見ての通り、長い名前ですので、普通は「プリンツ・オイゲン」と呼ばれます。「プリンツ」は「○○公」といった意味があるので、日本語に直すと「オイゲン公」となります。
因みにこの艦名を持つ艦としてはもう一隻、オーストリア帝国海軍の戦艦『プリンツ・オイゲン』があります。
ドイツの軍艦には通常、『ビスマルク』のように自国の英雄の名が冠せられるのですが、オイゲンはその限りではありません。そこには、極めて政治的な理由がありました。
彼女が進水する一九三八年八月二二日より遡ること五か月。ドイツ第三帝国総統アドルフ・ヒトラーは、三月十三日にオーストリアを無血併合しドイツに編入していました。彼は新たに進水する巡洋艦にオーストリアの英雄の名をつける事により、オーストリア国民のドイツに対する意識を好意的にしようと目論んだのです。進水式には時のオーストリア総督が招かれるなど、政治的な色合いが強く表れていました。
このようにして生まれた『プリンツ・オイゲン』は「ライン演習作戦」や「ツェルベルス作戦」などの危険な作戦に参加し、そして生還した事から水兵から幸運艦として慕われました。日本の『雪風』みたいな立場です(雪風がいつも無傷であったのに対し、オイゲンはしばしば深い損害を負っていますが)。大型艦が次々と失われていく中、彼女はしぶとく生き延び、ドイツが無条件降伏する日まで戦い続けました。
戦後、連合国に接収された彼女は各種の調査をされた後、とある実験に供される事になります。それが、「クロスロード作戦」--ビキニ環礁での原爆実験です。多くの人には日本の戦艦『長門』が最期を迎えた実験として有名でしょう。本編で述べた通り、オイゲンは二度の爆発を耐えましたが、重度の放射能汚染のため放置され、座礁転覆して解体されました。
政治的な理由から名前を授けられ、戦後の世界政治を動かす強力なカードとなる原爆の実験によって一生を終える……政治に翻弄された彼女の人生に触れた時、彼女の事を書きたいと思い、こうして短編を書きました。
至らぬ点もあるかと思いますが、これを読んで『プリンツ・オイゲン』という艦について少しでも興味を持っていただけたら幸いです。