後日談 色褪せた造花、誰にも拾われず
ジジジ、と古びた換気扇が回る音が、薄暗いワンルームの静寂を切り裂いている。
鼻をつくのは、饐えたような生活臭と、安っぽい芳香剤、そして昨日飲み干したストロング系酎ハイの空き缶から漂うアルコールの匂い。
私、相沢美月――いや、今は籍を抜かれて旧姓に戻っているから、ただの美月――は、煎餅布団の上で重たい瞼を持ち上げた。
「……頭、痛っ」
ズキズキと脈打つこめかみを押さえながら、私はのろのろと体を起こした。
枕元に転がっているスマホを手に取る。画面のガラスは蜘蛛の巣のようにひび割れ、一部は液晶漏れで黒く滲んでいる。
時刻は午後二時過ぎ。
カーテンの隙間から差し込む光が、埃の舞う部屋を無遠慮に照らし出している。
三十ニ歳。
かつて私が思い描いていた「三十ニ歳の私」は、こんな場所にはいなかったはずだ。
都心のタワーマンションの高層階で、ブランド物のルームウェアを着て、家事代行サービスが掃除を済ませたピカピカのリビングで、優雅にハーブティーを飲んでいるはずだった。
隣には、エリート商社マンか経営者の夫がいて、私を愛おしそうに見つめている。
そんな未来が、確かに手の中にあったのだ。十年くらい前までは。
「あーあ……なんでこうなっちゃったんだろ」
独り言は、誰にも届かずに虚空へ消える。
私はよろめきながら立ち上がり、狭いユニットバスへ向かった。
鏡に映る自分の顔を見て、ため息が出る。
肌はくすみ、目尻には笑ってもいないのに細かい皺が刻まれている。髪はパサパサで、プリン状態になった根元の黒が目立つ。
かつて「大学のアイドル」「天使みたい」ともてはやされた美貌は、見る影もなく崩れ去っていた。
安い化粧品と、不規則な生活、そして何より満たされない心が、私を内側から腐らせていったのだ。
顔を洗い、化粧水を叩き込む。
今日はこれから「仕事」だ。
私が今働いているのは、都心から電車で一時間以上離れた場末のスナック『夢あかり』。
時給は最低賃金に毛が生えた程度。客層は近所の工場の作業員や、定年退職した年金暮らしの老人ばかり。
二十代の頃は、六本木のキャバクラで働こうとしたこともあった。でも、すぐに挫折した。
プライドだけは高くて、客に媚びるのが下手だった私は、すぐに指名が取れなくなり、店を転々とした挙句、風俗にも沈みかけた。
けれど、そこでも私は「お姫様扱い」を求めてしまい、結局長続きしなかった。
結果、流れ着いたのがこの薄汚れた街の、薄汚れたスナックだ。
「化粧しなきゃ……」
ひび割れたファンデーションをスポンジに取り、肌に塗りたくる。
厚化粧で隠さなければならないものが、年々増えていく。
シミ、クマ、そして後悔。
準備を終え、私はアパートを出た。
駅前のコンビニで、夕食兼朝食となるおにぎりとサラダチキンを買う。
レジに並んでいる時、ふと雑誌コーナーが目に入った。
ビジネス誌の表紙。そこに、見覚えのある顔があった。
『次世代を担うリーダーたち特集――株式会社AMソリューションズ代表・相沢湊』
心臓が、早鐘を打った。
湊。
十年前に私を捨てた、義理の兄であり、元婚約者。
私は震える手でその雑誌を手に取った。立ち読み防止の紐がかかっていたが、表紙の彼の顔ははっきりと見えた。
三十ニ歳になった彼は、十年前よりもずっと洗練され、男としての色気が増していた。
仕立ての良いスーツ、知的な眼差し、自信に満ちた口元。
オーラが違う。住む世界が違う。
彼は完全に「成功者」の顔をしていた。
「……嘘でしょ」
喉の奥から、乾いた声が漏れた。
私と別れてから、彼は不幸になればいいと思っていた。
私を追い出したことを後悔して、毎日泣いて暮らせばいいと呪っていた。
それなのに、現実はどうだ。
彼は光の当たる場所で輝き、私は泥の中で足掻いている。
この格差はなんだ。
元はと言えば、同じ家で育ち、同じ食卓を囲んでいたはずなのに。
私は逃げるように雑誌を棚に戻し、会計を済ませて店を出た。
胸が苦しい。妬ましい。悔しい。
もし。
もし、あの時、蓮くんの誘いに乗らなければ。
もし、湊の浮気調査なんて馬鹿なことをせず、大人しく結婚していれば。
今頃、あの雑誌の隣に写っていたのは私だったかもしれない。
「社長夫人」として、優雅に微笑んでいたかもしれない。
「全部、あいつのせいよ……」
高城蓮。
私を唆し、人生を狂わせた男。
あいつの実家が倒産した後、私は一度だけあいつに連絡を取ろうとしたが、着信拒否されていた。
風の噂では、どこかのドヤ街でホームレス同然の暮らしをしているとか、借金取りに追われて蒸発したとか聞くが、どうでもいい。
あいつも不幸なら、少しは溜飲が下がる。
でも、湊だけが幸せになるなんて許せない。
私はこんなに惨めなのに。
スナック『夢あかり』の重いドアを開けると、カビとタバコの匂いが充満していた。
「あら、美月ちゃん。早かったわね」
ママと呼ばれる六十代の女性が、カウンターの中でグラスを拭いていた。
厚化粧に派手な衣装。それが私の未来の姿かと思うと、ぞっとする。
「おはようございます、ママ」
「今日ね、団体の予約が入ってるから。しっかり稼いでちょうだいよ」
「はい……」
開店時間が過ぎると、常連の老人たちがやってきた。
「おお、美月ちゃん! 今日も綺麗だねえ!」
「ありがとうございまーす、鈴木さん。また来てくれたんですね」
私は引きつった笑顔を張り付け、水割りを着る。
セクハラまがいの発言や、ベタベタと触ってくる手。
生理的な嫌悪感を必死に押し殺し、作り笑いで受け流す。
これが私の仕事だ。これが私の価値だ。
一晩中、愛想を振りまいて、得られるのはわずかな日銭と、翌日に残る頭痛だけ。
深夜二時。店が終わり、私はふらつく足取りで帰路についた。
夜風が冷たい。
ふと、スマホを取り出し、SNSを検索してしまった。
昼間に見た雑誌の記事が頭から離れないのだ。
『相沢湊 妻』
検索窓に打ち込む指が震える。
見たくない。でも、確認せずにはいられない。
もしかしたら、彼はまだ独身かもしれない。仕事人間になって、家庭を持っていないかもしれない。
そんな淡い期待は、検索結果の一枚の写真によって粉砕された。
それは、湊の会社の広報ブログか何かに掲載された、社員旅行かパーティーの写真だった。
湊の隣に、清楚で美しい女性が立っている。
モデルのような派手さはないが、育ちの良さが滲み出るような、上品な美人だ。
そして、湊の腕の中には、三歳くらいの女の子が抱かれている。
女の子は湊にそっくりな大きな瞳で笑い、湊は愛おしそうにその頬にキスをしている。
『代表の相沢と、奥様の優里さん、そして愛娘の愛理ちゃん。幸せいっぱいのファミリーです!』
キャプションの文字が、ナイフのように目に突き刺さる。
幸せいっぱい。
ファミリー。
そこにあるのは、私がかつて夢見ていた「理想の家庭」そのものだった。
私が座るはずだった場所に、別の女が座っている。
私が抱かれるはずだった腕の中に、別の女と子供がいる。
「……あ、あぁ……」
道端にうずくまり、嗚咽が漏れた。
奪われた。
いや、違う。私が捨てたんだ。
私が、一時的な快楽と、蓮くんの金に目がくらんで、自らドブに捨てたんだ。
その事実は、十年経った今でも、いや、十年経った今だからこそ、鋭利な刃物となって私の心臓を抉る。
十年前、実家を追い出された日のことを思い出す。
お父さんの怒号。お母さんの冷たい目。
あの時、私はまだ心のどこかで「どうせ許してもらえる」と思っていた。
家族だもの。血は繋がっていなくても、長い時間を過ごした家族だもの。
頭を冷やせば、きっと迎えに来てくれる。
そう思っていた。
でも、彼らは来なかった。
私が電話で助けを求めた時、お母さんは「二度とかけてくるな」と言って切った。
お父さんは会社に手紙を送っても無視した。
彼らは本気だったのだ。
私という異物を、家族から完全に切除する決断をしたのだ。
「会いたい……」
涙で滲むスマホの画面を見つめながら、私は呟いた。
湊に会いたい。
お父さんに、お母さんに会いたい。
そして、「ごめんなさい」と言いたい。
今さら許してもらおうなんて思っていない。ただ、私の存在を、もう一度認識してほしい。
私はここにいる。
あなたたちが愛してくれた美月は、こんなにボロボロになって、まだ生きているのよ。
翌日。
私は衝動的に電車に乗っていた。
行き先は、湊の会社がある都心のオフィス街だ。
雑誌に載っていた会社の住所を頼りに、彼に一目だけでも会おうと思ったのだ。
会ってどうする? 金をせびる? 復縁を迫る?
そんなことができるはずがない。
ただ、確認したかった。彼が本当に幸せなのか。そして、私の中に残っている未練を、完全に断ち切りたかったのかもしれない。
高層ビルが立ち並ぶエリア。
ガラス張りの綺麗なオフィスの前で、私は立ち尽くしていた。
道行く人々は皆、きちんとした身なりをして、忙しそうに歩いている。
しまむらで買った安物のコートを着て、厚化粧で顔を覆った私は、明らかに浮いていた。
警備員の視線が痛い。
私は物陰に隠れるようにして、ビルの出入り口を見つめ続けた。
一時間、二時間。
足が棒になりかけた頃、自動ドアが開いた。
出てきたのは、数人の部下を引き連れた湊だった。
写真で見た通りの、完璧な姿。
部下たちと談笑しながら、余裕のある足取りで歩いてくる。
「っ……!」
声が出そうになった。
湊。お兄ちゃん。
私の、湊。
その時、一台の白い高級車がロータリーに滑り込んできた。
運転席から降りてきたのは、昨日の写真で見た女性――奥さんだ。
後部座席から、小さな女の子が飛び出してくる。
「パパ~!」
「おっ、愛理! お迎えありがとう」
湊は満面の笑みでしゃがみ込み、女の子を抱き上げた。
奥さんがハンカチで湊の額の汗を拭う。
湊は奥さんに何かを囁き、二人は幸せそうに笑い合った。
絵に描いたような、完璧な家族の肖像。
そこには、一ミリの隙間もない。
私が入り込む余地など、最初から存在しなかったかのように、彼らの世界は完結していた。
私は物陰から一歩踏み出そうとした。
「湊」と呼ぼうとした。
けれど、足が動かなかった。
ショーウィンドウに映った自分の姿が目に入ったからだ。
猫背で、疲れ切った顔をした、中年の入り口に立つ女。
目の下のクマはコンシーラーでも隠しきれず、髪はパサついて乱れている。
あそこにいる光り輝く彼らとは、生物としての種類が違うようにさえ見えた。
もし今、私が飛び出していったら?
彼はどんな顔をするだろう。
驚く? 軽蔑する?
いや、きっと――「誰ですか?」と言うだろう。
十年という歳月と、あまりの格差は、私を彼の記憶から消し去るのに十分だ。
あるいは、汚いものを見るような目で、警備員を呼ぶかもしれない。
「……無理だ」
私は悟った。
近づけない。近づいてはいけない。
私は、彼らにとって「終わった過去」ですらない。「存在しなかった汚点」なのだ。
私の知っている湊はもういない。
あそこにいるのは、AMソリューションズ代表の相沢湊であり、優里さんの夫であり、愛理ちゃんの父親だ。
私の「お兄ちゃん」でも、「婚約者」でもない。
湊が娘をチャイルドシートに乗せ、助手席のドアを開けて奥さんをエスコートする。
そして自分も運転席に乗り込み、車は静かに走り出した。
幸せを乗せた白い箱は、夕日の中に溶け込んでいく。
私を、この冷たいコンクリートのジャングルに置き去りにして。
「さよなら……」
その言葉は、誰に向けたものだったのだろう。
湊へ? 家族へ?
それとも、かつて幸せになるはずだった「相沢美月」という幻影へ?
私はふらふらと駅へ向かった。
帰らなければならない。あの、カビ臭い部屋へ。
そして夜になれば、また厚化粧をして、酒臭い店で作り笑いを浮かべなければならない。
それが、私が選んだ道の行き着く先だ。
死ぬまで続く、終わりのない罰。
電車に揺られながら、私は窓の外を流れる夜景を見つめた。
街の灯りが滲んで見える。
涙が頬を伝った。
でも、誰も拭ってはくれない。
ハンカチを差し出してくれる優しい婚約者は、もう二度と現れない。
「いらっしゃいませー」
夜。
『夢あかり』のドアを開けると、いつもの淀んだ空気が私を迎えた。
「あら、美月ちゃん。目、赤くない? 泣いたの?」
「……いえ、ゴミが入っただけです」
私は精一杯の笑顔を作った。
ひび割れた仮面を被り直す。
私はここで生きていくしかない。
泥にまみれ、色褪せ、誰にも拾われることのない造花として。
「さあ、飲みましょうか、鈴木さん! 今日はボトル入れちゃいます?」
私の甲高い声が、狭い店内に空虚に響いた。
その響きは、私の空っぽの心そのものだった。
戻れない過去を悔やみながら、私は今日もまた、安酒の海で溺れていく。




