後日談 母の贖罪、そして決別
朝、キッチンの窓から差し込む光は柔らかく、庭の木々の緑を鮮やかに照らしている。
トントントン、と包丁がまな板を叩く規則的な音が、静まり返ったリビングに響く。
私、相沢恵子は、いつものように朝食の支度をしていた。
味噌汁の出汁の香り。炊きたてのご飯の湯気。焼き鮭の香ばしい匂い。
かつては、この匂いと共に「お母さん、お腹すいたー!」という明るい声が二階から聞こえてきたものだった。
ドタドタと階段を駆け下りてくる足音。
「美月、走らないの」と注意する夫の声。
「おはよう、母さん」と少し眠そうに挨拶する湊くんの声。
けれど今、この家に響くのは、私の立てる調理の音と、時計の秒針の音だけだ。
「……おはようございます、母さん」
背後からかけられた声に、私はビクリと肩を震わせ、慌てて振り返った。
そこには、スーツに身を包んだ義理の息子――相沢湊くんが立っていた。
「あ、あら、おはよう湊くん。ごめんなさいね、気づかなくて。今、配膳するわね」
「いいよ、俺がやるから。母さんは座ってて」
湊くんは私の手からお盆を優しく受け取ると、手際よく食卓に並べ始めた。
その背中を見つめながら、私の胸は万力で締め付けられるような痛みに襲われる。
なんて優しくて、立派な子なんだろう。
血の繋がらない私を「母さん」と呼び、再婚当初から少しも変わらぬ敬意と愛情を注いでくれる。
それなのに。
私の腹を痛めて産んだ娘は、この子の心を、尊厳を、そして未来を、これ以上ないほど残酷な形で踏みにじったのだ。
「いただきます」
向かいの席に座った湊くんが、静かに箸を手に取る。
夫の隆一も、無言で味噌汁を啜っている。
食卓には、重苦しい沈黙が漂っていた。以前のような、結婚式の話題で盛り上がる華やいだ空気は、もう二度と戻らない。
あの日――「最後の晩餐」となったあの夜のことは、今でも悪夢として鮮明に蘇る。
湊くんがプロジェクターで見せた映像。
そこに映っていたのは、私が手塩にかけて育てたはずの娘、美月の、信じられないほどふしだらで、醜悪な姿だった。
湊くんの親友である蓮くんと肌を重ね、湊くんを嘲笑うメッセージの数々。
『湊には内緒だぞ』
『あいつはATM』
スクリーンに映し出されたその言葉を見た瞬間、私は自分の血液が逆流するような感覚に陥った。
嘘だと思いたかった。
あの子は、美月は、私の自慢の娘だった。
明るくて、人懐っこくて、湊くんのことを「お兄ちゃん」と慕っていた頃から、二人が結ばれることを誰よりも願っていた。
二人が婚約した時、私は嬉しくて嬉しくて、夫と手を取り合って泣いたのだ。
神様がくれた最高の奇跡だと思った。家族が本当の意味で一つになれるのだと。
けれど、それは全部、美月の嘘の上に成り立っていた砂上の楼閣だった。
彼女は天使の仮面を被った怪物だったのだ。
「……湊」
夫が重い口を開いた。
「引越しの準備は、順調か?」
「うん。今週末にはあらかた片付くと思うよ。来週からは新しいアパートでの生活になる」
「そうか……何か必要なものがあれば、遠慮なく言いなさい。敷金や礼金はもちろん、家具も新調するといい」
「ありがとう、父さん。でも、自分で貯めたお金があるから大丈夫だよ」
湊くんは穏やかに微笑んだ。
その笑顔を見るたびに、私は自分の罪の深さを突きつけられる。
この子は、私たちを責めない。
「父さんと母さんは悪くない」と言ってくれた。
でも、そんなわけがない。
美月を育てたのは私だ。
シングルマザーだった時期、寂しい思いをさせまいと甘やかしてしまったのがいけなかったのか。
再婚した後、湊くんという優秀な兄ができたことで、コンプレックスを抱かせてしまったのか。
考えれば考えるほど、答えのない問いが頭の中をグルグルと回り続ける。
「母さん?」
ふと、湊くんの声で我に返る。
彼は心配そうに私を覗き込んでいた。
「顔色が悪いよ。大丈夫? 無理しないでね」
「ええ……ごめんなさい、ちょっと考え事をしていて。大丈夫よ、味噌汁、冷めないうちに召し上がれ」
私は必死に笑顔を作った。
これ以上、この子に心配をかけてはいけない。
被害者は彼なのだ。一番傷つき、一番苦しんでいるはずの彼に、加害者の親が気遣われているなんて、あってはならないことだ。
湊くんが出勤し、夫も会社へ向かった後。
私は一人、広すぎるリビングに取り残された。
掃除機をかけ、洗濯物を干す。
体を動かしている間だけは、余計なことを考えずに済む。
二階の奥にある部屋――かつて美月が使っていた部屋の前を通るたび、私は息を止めて早足で通り過ぎる。
あの部屋の中には、まだ彼女の荷物が残っている。
洋服、バッグ、化粧品。
あの日、着の身着のままで追い出された彼女は、何一つ持ち出すことができなかった。
私はあの夜、泣き叫ぶ美月を庇うことができなかった。
いや、庇おうとは思わなかった。
夫が「出ていけ」と怒鳴りつけた時、私の心の中にあったのは、娘への同情ではなく、夫と湊くんへの申し訳なさと、娘に対する激しい怒りだけだった。
「どうして」
「どうしてこんなことを」
「どうして私の幸せまで壊すの」
そんなエゴイスティックな感情も混じっていたかもしれない。
私は母親失格だ。娘が道を誤った時に正すこともできず、最後には切り捨ててしまったのだから。
その時、リビングの電話が鳴った。
固定電話だ。
最近はセールスの電話くらいしかかかってこない。
私はため息をつきながら受話器を取った。
「はい、相沢です」
『……お母さん?』
心臓が跳ね上がった。
聞き間違えるはずもない。その声は、美月のものだった。
「……美月?」
『よかった……繋がった……! お母さん、助けて! 私、もうダメなの!』
受話器の向こうから聞こえる声は、涙で濡れ、悲痛な響きを帯びていた。
「どうしたの。一体どこからかけているの」
『公衆電話……スマホ、解約されちゃってて……お母さん、お願い、お金送って! 今、食べるものもなくて……ネットカフェにも泊まれなくて、昨日は公園で寝たの……』
美月が早口でまくし立てる。
公園で野宿。
箱入り娘として育ててきたあの子が、そんな生活をしているなんて。
普通の母親なら、ここで「すぐに帰りなさい」と言うのかもしれない。あるいは、隠れて送金をするのかもしれない。
私の心が一瞬、大きく揺れ動いた。
可哀想な我が子。お腹を空かせ、寒さに震えている娘。
『ねえ、聞いてる!? お父さんには内緒でいいから! 湊にも言わないで! とりあえず十万……いや、五万でいいから! どこかに振り込んで! キャッシュカードは持ってるから!』
その言葉が、私の揺れる心を冷水で冷やした。
「湊にも言わないで」。
彼女の口から出たのは、謝罪の言葉ではなく、保身と金銭の要求だけだった。
彼女はまだ、自分が何をしたのか理解していない。
湊くんの人生を狂わせ、家族の絆を粉砕したことへの贖罪など、欠片も感じていないのだ。
「美月」
『なに!? 送ってくれるの!?』
「……蓮くんはどうしたの。彼と一緒なのでしょう?」
『あいつのことなんか言わないでよ! 最低なの! 実家が倒産した途端、私を置いて逃げたのよ!? 「お前といると金がかかる」とか言って! 私があいつの誘いに乗ってあげたのに、恩知らずもいいとこじゃない!?』
美月は金切り声を上げて蓮くんを罵った。
その醜悪な言葉の一つ一つが、私の耳に毒のように染み込んでいく。
ああ、そうか。
この子は、変わっていない。
失って初めて気づくとか、後悔するとか、そんな美しい物語の登場人物ではないのだ。
ただ、自分が可愛いだけ。
自分が一番の被害者だと思っているだけ。
私の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
それは同情の涙ではなく、決別の涙だった。
「……いい加減にしなさい」
私は声を震わせながら、けれどはっきりと言った。
『え……?』
「あなたは、湊くんを裏切ったのよ。家族全員を裏切ったのよ。それなのに、まだ自分のことばかり……どうしてそんな人間に育ってしまったの」
『だ、だって……仕方ないじゃない! 私は悪くないもん! 蓮くんが誘ったんだし、湊だって鈍感なのが悪いし……!』
「黙りなさいッ!!!」
私は受話器に向かって叫んでいた。
こんな大声を出したのは、生まれて初めてかもしれない。
「あなたのせいで、湊くんがどれだけ傷ついたと思っているの! あんなに優しかったお父さんが、どれだけ苦しんだと思っているの! あなたはもう、この家の娘じゃないわ!」
『お、お母さん……?』
「お金なんて送らない。助けにも行かない。自分のしたことの責任は、自分で取りなさい。それが、私があなたにしてあげられる最後の『教育』よ」
『待って! 待ってよお母さん! 死んじゃうよ! 私、死んじゃうよ!? それでもいいの!?』
美月の脅すような叫び声。
私は強く目を閉じた。
胸が引き裂かれそうだ。
それでも、ここで手を差し伸べてしまえば、私は湊くんを二度裏切ることになる。
そして、美月のためにもならない。
「……死ぬ気で生きなさい。二度とかけてこないで」
私はそう告げると、ガチャリと受話器を置いた。
電話線を引き抜くように、私の体から力が抜けていく。
そのまま床に座り込み、私は声を殺して泣いた。
ごめんなさい。ごめんなさい、美月。
産んであげたのに、まともに育ててあげられなくて。
怪物にしてしまって。
そして、見捨ててしまって。
私の罪は消えない。一生、この十字架を背負って生きていく。
どれくらい時間が経っただろうか。
玄関のドアが開く音がした。
夫が帰ってきたのだ。いつもより早い。
「ただいま……恵子? どうしたんだ!?」
床にうずくまる私を見て、夫が鞄を放り出して駆け寄ってきた。
「あなた……あなた……っ」
「泣いているのか? 何かあったのか?」
夫の太くて温かい腕が私を包み込む。
その温もりに触れた瞬間、堰を切ったように嗚咽が漏れた。
「美月から……電話が……」
「なに? あいつからか?」
夫の声が硬くなる。
「お金を送ってくれって……助けてくれって……」
「……そうか。それで、君はどうしたんだ」
「断ったわ……二度とかけてくるなって……もう娘じゃないって……突き放したの……っ」
私は子供のように夫の胸に顔を埋めた。
「辛かったな……恵子。辛かっただろう」
「私……酷い母親よ……あの子を見捨てたのよ……」
「いや、君は間違っていない。それが親としての最後の務めだ」
夫の手が、私の背中を優しく撫でてくれる。
その手は震えていた。彼にとっても、美月は長く一緒に暮らした娘だったのだ。
二人で泣いた。
失われた娘のために。そして、守るべき家族のために。
数日後。
湊くんの引越しの日がやってきた。
荷物は業者によって運び出され、彼の部屋は空っぽになった。
「それじゃあ、父さん、母さん。長い間お世話になりました」
玄関先で、湊くんが深々と頭を下げる。
その姿は、一回りも二回りも大きく見えた。
この家での辛い記憶を乗り越え、彼は新しい未来へと歩き出そうとしている。
「湊……いつでも帰ってこいよ。ここは、お前の家なんだからな」
「うん、ありがとう父さん」
「湊くん……」
私は湊くんの手を握りしめた。
言いたいことは山ほどある。「ごめんなさい」も「ありがとう」も、言葉にすると安っぽくなってしまう気がした。
「母さん、元気でね。父さんのこと、よろしく頼むよ」
「ええ、もちろんよ。湊くんも……体に気をつけて。ちゃんとご飯食べるのよ」
「あはは、分かってるよ。母さんの料理が恋しくなったら、また食べに来るから」
「……ええ。いつでも、一番好きなハンバーグ作って待ってるわ」
湊くんはニカっと笑うと、背を向けて歩き出した。
その背中は、迷いなく真っ直ぐだった。
雲ひとつない青空の下、彼は一度も振り返らなかった。
それが、彼の決意の表れのように思えた。
彼が見えなくなった後、私は夫と二人で空を見上げた。
「……あいつは強いな」
「ええ。本当に……自慢の息子ね」
私たちは、加害者の親であり、被害者の親でもある。
その複雑な立場を抱えながら、それでも生きていかなければならない。
美月のことは一生忘れないだろう。彼女がどこかで野垂れ死のうと、泥水をすすって生き延びようと、その痛みは私の心から消えることはない。
けれど、私には守るべき夫がいる。
そして、いつか湊くんが笑顔で「ただいま」と帰ってこられる場所を守り続けなければならない。
「さあ、あなた。夕飯の買い物に行きましょうか」
「そうだな。今日は湊がいないから、少し静かになるな」
「ふふ、二人きりの静かな食事も、たまにはいいじゃない?」
私たちは手を繋いだ。
その手はシワが増え、少し冷たかったけれど、確かに温かかった。
嵐は過ぎ去った。
残された傷跡は深いが、それでも日はまた昇る。
私たちは、静かに、けれど確実に、前を向いて歩き始めた。
それが、残された者にできる、唯一の贖罪なのだから。




