第4話 崩壊の連鎖
あの夜、美月と蓮が逃げるように去ってから数日が経った。
俺、相沢湊の生活は、驚くほど静かで、そして平和だった。
家の中には、かつて美月が使っていた私物がまだ残されているが、両親と俺とで少しずつ整理を始めている。彼女の気配が消えていくにつれ、家の中の空気は重苦しさから解放され、清浄さを取り戻しつつあった。
大学に行くと、キャンパス内はいつも通りの喧騒に包まれていた。
だが、一部の学生たちの間で、ある噂が囁かれているのを耳にした。
「おい、聞いたか? 高城のやつ、退学になるらしいぞ」
「マジ? なんで?」
「論文の不正だってさ。代行業者使ってたのがバレたらしい。しかも、全部の単位取り消しだって」
「うわー、あいつ『俺の才能』とか自慢してたのにな。ダサすぎ」
食堂の隅で談笑する学生たちの声。
俺はそれをBGMに、一人でランチの定食を食べていた。味気ないはずの学食の白米が、今日は妙に甘く感じられる。
俺が匿名で提出した証拠は、確実に大学当局を動かしたようだ。
高城蓮は、あの日以来、大学に姿を見せていない。おそらく、呼び出しを受けて、今は弁明の余地なく追い詰められている最中だろう。
スマホを取り出し、Twotterを開く。
蓮のアカウントを検索する。あいつは承認欲求の塊だから、何かアクションを起こしているはずだ。
予想通り、最新の投稿があった。
『大学側から言いがかりつけられてる。全部誤解なのに信じてもらえない。まじでこの国終わってるわ』
被害者面をした投稿。
しかし、リプライ欄は地獄絵図と化していた。
『お前、論文代行の証拠メール流出してるぞ』
『親の会社も脱税疑惑あるってマジ?』
『不倫して友達の婚約者寝取ったって噂も本当ですか~?』
『人生終了乙』
誰かが、俺が提示した証拠の一部や、あの日以降に広まった噂を書き込んだのだろう。ネットの特定班の動きは早い。蓮の過去の自慢ツイートや、美月との匂わせ投稿が掘り返され、拡散されている。
蓮のアカウントは炎上し、通知が止まらない状態になっているはずだ。デジタルタトゥーは一生消えない。彼が今後、どこで何をしようとも、「不正論文」「不倫」「親の七光り」というレッテルがついて回る。
「自業自得だな」
俺は呟き、画面を閉じた。
蓮の破滅は確定した。次は、彼を支えていた基盤の崩壊だ。
その日の午後、ニュース速報が流れた。
『建設会社「高城建設」に国税局が強制調査。数億円規模の粉飾決算と脱税の疑い』
テレビの画面に映し出されるのは、段ボール箱を抱えた係官たちが、高城建設の本社ビルへと次々と入っていく様子だ。
カメラのフラッシュが焚かれ、報道陣が詰めかけている。
その中には、呆然とした表情で立ち尽くす蓮の父親の姿もあった。かつての威厳ある社長の面影はなく、ただの老いぼれた男に見える。
俺は自宅のリビングで、そのニュースを両親と見ていた。
「……本当だったんだな」
父が重々しく口を開く。
「ああ。俺が調べた通りだよ。自転車操業で、見せかけの利益を作ってたんだ。これで銀行も融資を引き上げるだろうし、倒産は時間の問題だね」
「蓮くんの家、どうなっちゃうのかしら……」
母が心配そうに言うが、その声には以前のような同情の色は薄い。自分たちの娘を唆し、家族を裏切らせた男の家族だ。情けをかける義理はないと理解しているのだろう。
「全財産没収されても借金は残るだろうな。蓮も、退学になって内定も取り消し。これからは借金取りに追われて、まともな職にも就けないだろうよ」
俺は淡々と事実を述べた。
これは復讐ではない。ただの因果応報だ。彼らが積み上げてきた嘘が、重力に従って崩れ落ちたに過ぎない。
一方、美月はどうしているだろうか。
実家を追い出された彼女は、行く当てもなく、所持金も少ないはずだ。
俺は彼女のスマホを解約し、クレジットカードの家族カードも停止した。彼女自身の貯金などたかが知れている。
蓮を頼ろうにも、彼自身がこの有様だ。共倒れするのは目に見えている。
その夜、俺のスマホに見知らぬ番号から着信があった。
公衆電話からだ。
普段なら無視するが、虫の知らせか、俺は通話ボタンを押した。
「……もしもし」
『み、湊……?』
微かに震える声。美月だ。
背景からは車の走行音や街の雑踏が聞こえる。
「……誰ですか? 知らない番号なんですけど」
俺は冷たく突き放した。
『やだ、湊! 私よ、美月よ! お願い、切らないで!』
「美月? ああ、元婚約者の。何の用だ? もう話すことはないはずだが」
『ごめんなさい、本当にごめんなさい……! 私、どうしたらいいか分からなくて……蓮くんとも連絡取れないし、カードも使えなくて……今、ネットカフェにいるの……』
泣きじゃくる声が鼓膜を打つ。
以前なら、すぐに駆けつけて助けていただろう。
だが今の俺には、彼女の涙はワニの涙にしか思えない。
「それがどうした? 自分で選んだ道だろう。蓮と一緒に幸せになるんじゃなかったのか?」
『ちがうの! 蓮くん、私のこと見捨てて逃げたの! あの後、連絡しても着信拒否されて……それに、あいつの家、大変なことになってるってニュースで見て……』
保身。
どこまでも自分本位な言葉に、俺は呆れを通り越して笑いそうになった。
彼女は蓮を愛していたわけではない。蓮の持つ金やステータス、そして背徳感を楽しんでいただけだ。それがなくなった途端、被害者ぶって俺に縋り付こうとしている。
「そうか。それは残念だったな。でも、俺には関係ない」
『湊! お願い、家に帰らせて! お父さんとお母さんに謝りたいの! もう二度と裏切らないから!』
「無理だ。親父もお袋も、お前の顔なんか見たくないって言ってる。二度と敷居を跨ぐなと言われたのを忘れたのか?」
俺は言葉のナイフを容赦なく突き立てる。
「それに、俺たちはお前がいない生活に慣れ始めてるんだ。静かで、嘘がなくて、とても快適だよ。お前が戻ってくる場所なんて、もうどこにもないんだ」
『そんな……ひどい……私、家族でしょ……?』
「家族だった、だろ。過去形だ。お前がその絆を断ち切ったんだ」
俺は深呼吸をして、最後通告を行った。
「もう二度とかけてくるな。これ以上しつこくするなら、警察に通報してストーカー規制法で対処する。……じゃあな」
『あっ、待っ――』
プツン。
俺は通話を切り、その番号を着信拒否リストに追加した。
スマホをテーブルに置く。
胸の奥に澱んでいた黒い塊が、少しだけ軽くなった気がした。
これでいい。これで完全に終わったのだ。
数日後、大学の掲示板に『懲戒処分のお知らせ』が張り出された。
高城蓮の名前と共に『退学処分』の文字。理由は『学則違反(不正行為)』とだけ記されていたが、学生たちの間では周知の事実となっていた。
蓮は大学から姿を消した。
噂では、実家の会社が倒産し、父親が逮捕され、一家離散したという。蓮自身も借金取りから逃げるように地方へ飛び、日雇い労働で食いつなぐ生活をしているらしい。
あの輝かしい御曹司の未来は、完全に閉ざされた。
美月に関しても、風の噂が入ってきた。
大学を休学し(学費が払えないため、いずれ除籍になるだろう)、キャバクラか何かで働きながら、安アパートで暮らしているようだ。
共通の友人だった女子学生が、「美月、最近やつれてて別人のみたい」と話していた。
俺に連絡を取ろうとしてもブロックされているため、彼女は孤独の中で、自分の犯した罪の重さと向き合い続けるしかない。
俺は新しいアパートへの引越しを決めた。
実家を出て、一人暮らしを始める。
あの家には思い出が多すぎる。美月との記憶を完全にリセットし、新しい人生を歩むためには、環境を変えるのが一番だ。
両親も「それがいい」と賛成してくれた。
引越しの日。
段ボール箱を積み込んだトラックを見送りながら、俺は空を見上げた。
雲ひとつない青空が広がっている。
三ヶ月前、あの式場で見た空と同じ色だ。
だが、今の俺の心は、あの時よりもずっと澄んでいる。
「……さよなら、美月。さよなら、蓮」
俺は小さく呟き、新しい鍵をポケットに入れた。
もう振り返らない。
俺の前には、何の嘘もない、真っ白で自由な未来が広がっているのだから。
(数年後)
季節は巡り、俺は社会人としての日々を送っていた。
大学を卒業し、第一志望だったデータ分析系のコンサルティング会社に就職。忙しくも充実した毎日だ。
仕事の帰り道、俺はふと、ある場所の前で足を止めた。
『セレスティアル・ガーデン』。
かつて、美月と下見に来た結婚式場だ。
ライトアップされた外観は相変わらず美しく、幸せそうなカップルたちが出入りしている。
「懐かしいな……」
苦い記憶だが、今はもう痛みを感じない。ただの過去の事実として、淡々と受け止められるようになっていた。
その時だった。
式場の入り口付近の暗がりに、うずくまる人影が見えた。
ボロボロのコートを着て、髪も乱れた女性。
警備員に声をかけられ、追い払われているようだ。
「お願いします、中に入れてください……ここで、約束が……」
聞き覚えのある声。
俺は思わず息を呑んだ。
その声は、かつての美月のものだった。
だが、その姿はあまりにも変わり果てていた。痩せこけ、肌は荒れ、あの天使のような愛らしさは見る影もない。目だけが異様にぎらつき、虚空を見つめている。
「お客様、困ります。関係者以外は立ち入り禁止です」
「私は……ここで結婚式を挙げるはずだったの! 湊と、ここで……!」
彼女は妄想の中を生きているのか。
それとも、過去の亡霊に囚われ続けているのか。
俺はその光景を、道路の反対側からじっと見つめていた。
助けるべきか? 声をかけるべきか?
一瞬迷ったが、俺は踵を返した。
関わってはいけない。彼女はもう、俺の人生の登場人物ではないのだ。
俺が歩き出すと、背後で美月の叫び声が聞こえた気がした。
「湊! どこにいるの!?」
幻聴かもしれない。
俺はイヤホンを耳に押し込み、お気に入りの曲を再生した。
アップテンポな曲が、彼女の声を、そして過去のすべてをかき消していく。
俺は歩調を速めた。
この先に待っているのは、新しい恋人とのディナーの約束だ。
今度の彼女は、誠実で、俺のことを心から大切にしてくれる人だ。
スマホを取り出し、メッセージを送る。
『今、仕事終わったよ。もうすぐ着く』
すぐに既読がつき、可愛らしいスタンプが返ってくる。
俺の口元に、自然な笑みが浮かんだ。
これが本当の幸せだ。
誰かを陥れることで得られる快楽ではなく、誰かと信頼し合うことで得られる温もり。
俺はようやく、それを手に入れたのだ。
夜風が心地よく頬を撫でる。
俺は一度も振り返ることなく、光の溢れる街へと溶け込んでいった。
闇の中に残された者たちがどうなろうと、それは彼らが選んだ結末だ。
俺の物語は、ここから新しく始まるのだ。




