第3話 最後の晩餐
週末の夜、実家のリビングには、豪勢な料理の数々と、微かな緊張感が漂っていた。
俺、相沢湊は、ダイニングテーブルの中央に置かれたローストビーフの皿の位置をミリ単位で調整しながら、これから始まる「劇」の幕開けを静かに待っていた。
「わあ、すごいご馳走! お母さん、気合入りすぎじゃない?」
美月がキッチンから大皿を運びながら、弾んだ声を上げる。
今日の彼女は、清楚な白いブラウスにフレアスカートという、いかにも「良家のお嬢様」といった装いだ。両親の前で見せる完璧な娘の姿。だが、その首元には、ファンデーションで隠しきれていないキスマークが薄っすらと残っているのを、俺は見逃していなかった。
「当たり前でしょう。今日は湊と美月の結婚式の詳細を決める大事な日だし、蓮くんも来てくれるんだから」
美月の母、つまり俺の義母が嬉しそうに答える。
俺の父も、上機嫌でワインのボトルを開けていた。
「蓮くんには感謝してもしきれないよ。湊の親友として、ずっと二人を支えてくれたんだからな。今日はとびきりいいワインを開けよう」
「そうだね、父さん。蓮には……本当に、色々な意味で感謝してるよ」
俺は笑顔で答えた。嘘ではない。奴のおかげで、俺は人間の醜さと、自分の中に眠っていた冷徹さに気づくことができたのだから。
ピンポーン。
チャイムが鳴った。役者が揃ったようだ。
「あ、僕が出るよ」
俺は玄関へと向かう。ドアを開けると、そこにはブランド物のジャケットを着こなし、手土産の菓子折りを持った高城蓮が立っていた。
「よう、湊! 招んでくれてありがとな。これ、つまらないものだけど」
「いらっしゃい、蓮。わざわざありがとう。上がってくれよ」
蓮は爽やかな笑顔を浮かべている。その笑顔の裏で、俺のことを「間抜けなピエロ」と嘲笑っているとも知らずに。
リビングに通すと、両親が大歓迎で彼を迎えた。
「あらあら、蓮くん! いらっしゃい。まあ、素敵なお菓子まで」
「お邪魔します、お母さん、お父さん。いつもお世話になってます。今日はお二人の結婚のお祝いも兼ねて、是非参加させてください」
蓮の人当たりの良さは天下一品だ。両親はすっかり彼を信頼しきっている。
美月もまた、蓮の方を見て、小さく目配せをした。ほんの一瞬、二人の間に流れる「共犯者」特有の甘く背徳的な空気。
俺はそれを冷ややかに観察しながら、全員のグラスにワインを注いだ。
「それじゃあ、まずは乾杯しようか。湊、美月、結婚おめでとう」
「おめでとう!」
グラスが触れ合う澄んだ音が響く。
それが、崩壊へのカウントダウンの合図だった。
食事は和やかに進んだ。
話題は主に、来春に行われる結婚式のことだ。
「式場の下見はどうだった? やっぱり大聖堂がいいのか?」
「うん、すごく綺麗だったよお父さん! ステンドグラスが素敵でね」
「へえ、いいじゃん。美月ちゃん、ドレス姿似合いそうだしな」
蓮が自然に会話に入ってくる。
「俺、友人代表のスピーチ頼まれてるからさ、今から緊張しちゃって。二人の馴れ初めとか、俺しか知らないエピソード話しちゃおうかな」
「やめてよ蓮くん、変なこと言わないでよね」
美月が恥ずかしそうに頬を赤らめる。
まるで仲の良い兄妹のようなやり取り。だが、その実態は、親友とその婚約者という立場を利用した、ただの不倫カップルだ。
俺はローストビーフを口に運びながら、心の中で反芻する。
「俺しか知らないエピソード」か。確かに、俺も知らない二人のエピソードは山ほどあるだろう。ホテルのベッドの上でのことや、俺の悪口で盛り上がったことなど。
「そういえば蓮、就職の方はどうなんだ? 高城建設、継ぐんだろ?」
父が尋ねると、蓮は自信満々に頷いた。
「ええ、内定も決まってますし、いずれは親父の跡を継いで社長になるつもりです。湊には負けられないっすね」
「頼もしいな。湊もいいライバルを持って幸せだ」
ライバル、か。
俺はワイングラスを揺らしながら、蓮を見つめた。
お前のその自信が、どこから来るのか。金で買った学位と、粉飾された会社の業績。全てが嘘で塗り固められた砂上の楼閣。
今夜、それを更地にしてやる。
食事が一段落し、デザートの時間が近づいた頃。
俺は立ち上がり、部屋の照明を少し落とした。
「実は今日、みんなに見せたいものがあって動画を作ってきたんだ。二人の生い立ちムービーみたいなやつ」
「えっ、すごーい! 湊、そんなの作れるの?」
「まあね。ちょっと自信作だから、見てほしいんだ」
俺はあらかじめセットしておいたプロジェクターを起動し、白い壁にPCの画面を投影した。
両親と美月、そして蓮が、期待に満ちた表情でスクリーンを見つめる。
「それじゃ、上映するよ」
俺はキーボードのエンターキーを押した。
軽快なBGMと共に、画面には幼い頃の俺と美月の写真がスライドショー形式で流れ始める。
再婚した当初の、少し距離感のあるツーショット。
高校の入学式。
大学のキャンパスでの笑顔。
「懐かしいわねえ……」
「二人とも若かったな」
両親が目を細める。美月も「やだ、この時の私、髪型変!」と笑っている。
蓮も「いい写真だな」と余裕の表情だ。
だが、動画が中盤に差し掛かった時。
BGMが突然、不協和音のようなノイズ混じりの音に切り替わった。
画面が暗転する。
「あれ? 故障か?」
父が不思議そうに声を上げる。
次の瞬間、スクリーンに映し出されたのは、鮮明な「現在」の画像だった。
薄暗いホテルの室内。
乱れたベッド。
そして、裸の肩を寄せ合い、ふざけたように舌を出してピースサインをする、美月と蓮の姿。
先日、俺が美月のスマホで見たあの写真だ。
「――――え?」
美月の喉から、空気が漏れるような音がした。
部屋の空気が一瞬で凍りつく。
画像は一枚では終わらない。
レストランでの密会写真。
車の中でのキスシーン。
そして、MINEのスクリーンショットが次々とスライドしていく。
『湊、今日も鈍感で助かるわーw』
『あいつのプレゼント、センスなさすぎ。メルカリで売っちゃお』
『早く別れたいけど、世間体あるしなー。適当に結婚して、裏で遊ぼうよ蓮くん』
『最高だなそれ。湊には一生ATMになってもらおうぜ』
残酷な文字の羅列が、巨大なスクリーンに映し出され、全員の網膜を焼き尽くしていく。
BGMはなく、ただ静寂だけが支配する部屋の中で、プロジェクターのファンの音だけが虚しく響いていた。
「な……なに、これ……?」
母の震える声が沈黙を破った。
美月は顔面蒼白になり、口をパクパクとさせている。言葉が出てこないのだ。
蓮は目を見開き、額から脂汗を流しながら、椅子に縫い付けられたように硬直している。
俺はゆっくりと立ち上がり、スクリーンの横に立った。
手には、分厚いクリアファイルを抱えている。
「ご覧の通りです。父さん、母さん。これが、僕たちが結婚を控えた『幸せな日々』の裏側でした」
淡々とした口調で告げると、父が激昂して立ち上がった。
「美月!! これはどういうことだ!! 説明しなさい!!」
「ち、ちが……これ、は……合成よ! そう、合成! 誰かが悪ふざけで作ったの!」
美月が悲鳴のような声で叫ぶ。
予想通りの反応だ。人間、追い詰められるとまずは否定する。
だが、俺は逃さない。
「合成? 残念だけど、これ全部、君の裏アカと、君がクラウドに保存していたバックアップから抽出したデータだよ。撮影日時も、位置情報のログも、全部ここにある」
俺はクリアファイルから資料を取り出し、テーブルの上に放り投げた。
バサリ、と音がして、生々しい証拠の数々が散らばる。
「蓮、お前もだ。俺のこと、随分と馬鹿にしてくれていたみたいだな」
「み、湊……誤解だ、俺は……美月ちゃんに相談に乗ってくれって言われて……」
蓮がしどろもどろに言い訳を始める。
俺は冷たい目で彼を見下ろした。
「相談? ホテルで裸になって相談か? ずいぶん熱心なカウンセリングだな」
俺の言葉に、蓮は押し黙る。
父は怒りのあまり顔を真っ赤にし、母はショックで泣き崩れている。
美月はガタガタと震え出し、俺に縋り付こうと手を伸ばしてきた。
「ごめんなさい、ごめんなさい湊! 一時の迷いだったの! 本当に愛してるのは湊だけなの! 信じて!」
「触るな」
俺は彼女の手を冷たく振り払った。
汚い。ただひたすらに、汚い。
「一時の迷い? 三ヶ月も続いていてか? 俺をATM呼ばわりしておいてか?」
「それは……!」
「美月、婚約は破棄だ。当然だよな。慰謝料もきっちり請求させてもらう。この家からも出ていけ。今すぐにだ」
俺の宣告に、美月は絶望の表情を浮かべた。
実家を追い出されれば、彼女に行く当てはない。
「そして蓮。お前にはもっと大きなプレゼントがある」
俺はもう一つの封筒をテーブルに置いた。
中身が見えるように、書類の一部を引き出す。
「お前の大学の論文、全部代行業者が書いたものだよな? 送金履歴と業者とのメール、全部大学の懲戒委員会に送っておいたよ。明日あたり、呼び出しがあるんじゃないか?」
「は……?」
蓮の顔から血の気が完全に引く。
大学での立場、そして内定。それらが音を立てて崩れ落ちる音が聞こえた気がした。
だが、まだ終わりではない。
「それと、お前の親父さんの会社。『高城建設』だったか。随分と派手な粉飾決算をしているみたいだな」
俺がそう告げると、蓮は椅子から転げ落ちんばかりに仰け反った。
「な、なんでそれを……!?」
「公開データを分析すれば一発だよ。架空在庫の計上、関連会社への利益付け替え。あまりにも杜撰だ。これも、国税局とメインバンクに通報済みだ。……受理の通知も来てるよ」
俺はスマホの画面を蓮に見せた。
『情報提供ありがとうございます。担当部署にて調査を開始します』という自動返信メールの文面。
それを見た蓮は、パクパクと口を開閉させ、呼吸困難に陥ったかのように喉を鳴らした。
「嘘だ……嘘だろ……? 俺の人生……会社……」
「嘘じゃない。お前が俺の人生を壊そうとしたように、俺もお前の人生を壊した。それだけのことだ。対等な取引だろう?」
俺は冷徹に言い放ち、プロジェクターの電源を切った。
部屋は再び薄暗闇に包まれたが、そこに漂う空気は、先ほどまでの和やかなものとは全く別の、重く、冷たい絶望に満ちていた。
「出ていけ」
父が低い声で言った。
怒りに震える拳を握りしめ、美月と蓮を睨みつけている。
「二度と、俺たちの前に顔を見せるな。美月、お前とは縁を切る。二度と敷居を跨ぐな」
「お父さん……! いや、お願い……!」
「出ていけッ!!!」
父の怒号がリビングに響き渡る。
美月は泣きじゃくりながら立ち上がり、蓮の方へ助けを求めるような視線を送るが、蓮自身が既に廃人のようになっており、彼女を助ける余裕などない。
二人は逃げるように玄関へと向かった。
着の身着のまま、靴もまともに履けずに、夜の闇へと放り出されていく。
バタン。
玄関のドアが閉まる音が、まるで処刑台の落とし戸の音のように響いた。
後に残されたのは、手つかずのデザートと、泣き崩れる母、肩を震わせる父、そして、奇妙なほど心が凪いでいる俺だけだった。
「……すまない、湊。俺たちが……もっとちゃんと見ていれば……」
父が絞り出すように言った。
俺は首を横に振った。
「父さんと母さんは悪くないよ。悪いのは、裏切った奴らだ」
俺はテーブルの上に散らばった証拠写真を、ゴミのようにかき集めた。
あんなに愛していた笑顔が、今はただの紙切れに見える。
胸の痛みがないわけではない。喪失感はある。
だが、それ以上に、やるべきことをやり遂げたという、冷たい達成感が体を満たしていた。
これで終わりではない。
むしろ、彼らにとっての地獄はここからが本番だ。
大学からの処分、会社への査察、借金地獄、社会的信用の失墜。
俺が仕込んだ毒が、じわじわと彼らの人生を蝕んでいく様を、俺は高みの見物と洒落込むつもりだ。
「さあ、片付けようか。こんな料理、冷めてしまったら美味しくないからね」
俺は努めて明るい声を出した。
両親を安心させるためでもあるし、自分自身への決別宣言でもあった。
新しい人生を始めるために、まずはこの汚れたテーブルを綺麗にしなければならない。
俺はローストビーフの皿をキッチンへと下げた。
窓の外には、暗い夜空が広がっている。
どこかで美月の泣き声が聞こえたような気がしたが、俺はカーテンを閉め、その声を遮断した。
もう、俺には関係のないことだ。
俺の復讐劇の第一幕は、完璧な形で幕を下ろした。
そして、彼らにとっての崩壊の連鎖――第二幕が、静かに幕を開けようとしていた。




