第2話 冷たい解析
翌朝、リビングに差し込む陽光は昨日と変わらず穏やかだったが、俺、相沢湊の目に映る世界は、彩度を失ったモノクロームの景色のように冷たく変貌していた。
キッチンでコーヒーを淹れる香りが漂う中、美月が起きてきた。
「んー、おはよぉ湊。いい匂い」
寝ぼけ眼をこすりながら、彼女は俺の背中にぴたりとくっついてくる。
昨日までなら、愛おしくてたまらなかった体温。
だが今は、背筋に冷たい芋虫が這ったようなおぞましさを感じる。俺はポットを持つ手に力を込め、微かな震えを抑え込んだ。
「おはよう、美月。コーヒー飲むか?」
「うん、ミルクたっぷりでね」
俺は振り返り、彼女にマグカップを手渡す。
美月はそれを受け取ると、ふと壁の時計を見た。
「あ、やば! 準備しなきゃ。今日のランチ、11時に待ち合わせなんだよね」
そう言って彼女は慌ただしく洗面所へと向かった。
昨夜、「大学の友達とランチ」と言っていた予定だ。だが、俺は知っている。それが真っ赤な嘘であることを。
俺はリビングのソファに深く沈み込み、手元のタブレット端末を起動した。
美月が洗面所で身支度を整えている間、俺は昨夜のうちに仕込んでおいたプログラムのログを確認する。
俺は経済学部だが、データ分析や統計学を専攻しており、趣味でプログラミングやセキュリティ関連の知識も蓄えていた。かつて美月のスマホの調子が悪かった時、バックアップの設定などを手伝ったことがある。その際、彼女のアカウント情報は俺の管理下にあるPCとも同期される設定になっていた。
彼女はITリテラシーが決して高くない。便利だからと俺に言われるがままに設定し、その意味など理解していないだろう。
『iCloud 同期完了:写真、カレンダー、位置情報』
画面に表示された文字を見て、俺は小さく息を吐いた。
美月のスマホで撮影された写真は、リアルタイムで俺のクラウドストレージにも共有される。
カレンダーには『Rくんとデート♡』という、隠す気があるのかないのか分からない予定が書き込まれていた。表示上は非公開設定にしているつもりなのだろうが、管理者権限を持つ俺のアカウントからは筒抜けだ。
「よし、メイク完璧! どうかな湊、この服」
30分後、美月がリビングに戻ってきた。
淡いラベンダー色のワンピースに、白いカーディガン。清楚さを装っているが、胸元の開き具合やスカートの丈は、女友達とのランチにしては些か「攻め」ている。
そして何より、香水の匂いがきつい。いつも俺とデートする時よりも気合が入っているのが分かってしまう。
「うん、すごく似合ってるよ。友達も驚くんじゃないか?」
「えへへ、そうかな? じゃあ行ってくるね! 帰りは夕方くらいになると思う!」
美月は上機嫌で手を振り、玄関を出て行った。
ドアが閉まり、鍵のかかる音が響く。
その瞬間、俺の顔から表情が消え失せた。
「……さて、始めるか」
俺は立ち上がり、自室へと向かった。
高性能なデスクトップPCを起動する。冷却ファンが低く唸りを上げ、複数のモニターが青白い光を放ち始めた。
感情的になってはいけない。怒りに任せて暴れたところで、何も解決しない。
俺に必要なのは、彼らを社会的に抹殺するための「凶器」だ。
それも、言い逃れが一切できないほど鋭利で、重たい凶器が。
まず着手したのは、美月のSNS調査だ。
表向きのアカウントは知っているが、あれだけ大胆な行動を取る人間だ。承認欲求を満たすための「裏口」が必ずあるはずだ。
俺は彼女がよく使うIDのパターンや、誕生日の組み合わせ、あるいは好きなキャラクターの名前などを組み合わせ、OwstaやTwotterのアカウント検索にかける。
特定は容易だった。
『moon_rabbit_1224』
鍵付きのアカウントだが、フォローリクエストの承認が甘いタイプのアカウントだ。プロフィール文には『彼氏持ち/でも秘密の恋/Rくん』とある。
俺は以前、調査用に作成しておいた架空の女性アカウント――美容やカフェ巡りが趣味のキラキラした女子大生を装ったもの――からフォローリクエストを送った。
数分もしないうちに承認通知が来る。やはり、警戒心が薄い。
タイムラインを開いた瞬間、俺の目の前に地獄が広がった。
『今日はRくんとホテルデート! 旦那(仮)は家で留守番w まじウケる』
『Rくんがくれたネックレス、絶対旦那(仮)よりセンスいいしお金持ちだし最高~』
『結婚式の打ち合わせだるすぎ。Rくんと結婚したかったなぁ』
投稿の日付と共に、顔の一部を隠した蓮とのツーショット写真や、高級レストランでの食事の写真が並んでいる。
俺がアルバイトで必死に貯めた金で買ったプレゼントを「センスない」と嘲笑う投稿もあった。
吐き気が込み上げてくるのを、冷たい水で流し込む。
俺は無表情のまま、全ての投稿をスクリーンショットで保存し、動画ダウンローダーを使ってストーリーズのアーカイブも根こそぎ保存した。
画像データには撮影日時や位置情報のメタデータも残っている。これらは不貞行為の動かぬ証拠となる。
「……次は、お前だ。高城」
ターゲットを親友――いや、元親友の高城蓮に切り替える。
蓮は俺の親友として振る舞いながら、裏では俺を見下し、俺の女を寝取っていた。
その歪んだ優越感を粉々に砕くには、ただ不倫を暴露するだけでは足りない。奴が拠り所としている「社会的地位」と「将来」を奪う必要がある。
蓮は実家の建設会社「高城建設」の御曹司であることを鼻にかけていた。
大学では羽振りが良く、後輩たちに奢っては取り巻きを作っていた。成績も優秀で、教授からの評価も高い。
だが、俺はずっと違和感を抱いていた。
蓮は講義をサボりがちで、ノートを見せるのはいつも俺だった。それなのに、提出されるレポートや論文は、プロ顔負けの完成度なのだ。
「俺、集中するとすごいんだよね」と彼は笑っていたが、今なら分かる。あれは金で買った成果だ。
俺は蓮がよく使っていた大学の共有PCのログを思い出す。あいつはセキュリティ意識も低い。
「湊、パスワード忘れちゃったから覚えといてよ」なんて言っていたIDとパスワード。
俺はブラウザを立ち上げ、蓮の大学のアカウント、そして彼が使っているであろうプライベートなメールアドレスへのアクセスを試みた。
違法なハッキングはリスクが高い。だが、推測可能なパスワードや、秘密の質問(「母親の旧姓」や「ペットの名前」など、俺が知っている情報ばかりだ)を突破するのは、ソーシャル・エンジニアリングの範疇だ。
ビンゴだった。
蓮のメインメールボックスには、『【重要】論文作成代行サービス:納品のご案内』という件名のメールがずらりと並んでいた。
中身を確認すると、卒論の構成案から本文の執筆まで、すべて業者に丸投げしているやり取りが残っていた。
一通あたり数万円から十数万円。
あいつが「俺の最高傑作」と自慢していた卒論も、金で買った紛い物だったわけだ。
俺はメールのヘッダー情報を含めて全て保存し、送金履歴の明細もダウンロードした。
これで蓮の大学での立場は消滅する。学位剥奪、内定取り消しは免れないだろう。
だが、これだけでは終わらせない。
俺の復讐のスコープは、彼を生み出した「家」にも向いていた。
高城建設。
地方の中堅ゼネコンだが、蓮の羽振りの良さを支えている源泉だ。
俺は上場企業の財務データを検索できるサイトではなく、信用調査会社のデータベースや、建設業許可の公開情報を漁り始めた。
高城建設は非上場だが、一定規模以上の会社は決算公告の義務がある。
俺はネット上のアーカイブや、過去に蓮が「親父の会社のパンフレット」として持ってきた資料に記載されていた数値を引っ張り出し、エクセルに入力していった。
モニターに並ぶ数字の羅列。
一般人が見ればただの数字だが、経済学部で会計学を学び、数字の裏を読むことに長けた俺の目には、それが悲鳴を上げているように見えた。
「……おかしい」
売上高に対して、売掛金の回収サイトが異常に長い。
そして、在庫(未成工事支出金)の金額が年々肥大化している。
これは典型的な粉飾決算の手口だ。架空の売上を計上し、回収できない現金の代わりに売掛金や在庫を膨らませて、帳簿上の利益を捻出している可能性が高い。
さらに、関連会社との不透明な取引も見つかった。利益を付け替えて法人税を逃れている痕跡がある。
俺はキーボードを叩く手を速めた。
過去5年分のデータをグラフ化し、同業他社の平均値と比較する。
乖離は明らかだった。
高城建設は、実質的には火の車だ。それを無理やり黒字に見せかけ、銀行からの融資を引き出し続けている。
これが明るみに出れば、銀行は融資を引き上げ、脱税で国税局が動く。
蓮が自慢していた「将来の社長の座」など、砂上の楼閣に過ぎない。
「……詰んだな、高城」
俺は独り言を呟き、冷めたコーヒーを一口飲んだ。
苦味が口の中に広がるが、胸のすくような感覚はない。あるのは、ただ淡々と作業をこなす事務的な達成感だけだ。
俺は作成した資料を『Judgment_Day』と名付けた暗号化フォルダに格納した。
中身は以下の通りだ。
1.美月と蓮の不貞行為の証拠(写真、動画、メッセージ履歴、GPSログ)
2.蓮の論文不正・替え玉受講の証拠(代行業者とのメール、送金記録)
3.高城建設の粉飾決算および脱税疑惑に関する告発レポート
これらを、それぞれ適切な送り先へ届ける準備をする。
美月の両親へ。
大学のハラスメント対策委員会および懲戒委員会へ。
蓮の内定先の人事部へ。
そして、国税庁の脱税情報提供フォームと、メインバンクのコンプライアンス室へ。
時計を見ると、午後三時を回っていた。
ふと、GPSトラッカーの画面を見る。
美月の位置情報は、都心の高級ホテル街で静止していた。
滞在時間、既に三時間。
俺がこうして、彼らの人生を終わらせるための爆弾を組み立てている間も、彼らは何も知らずに快楽に耽っているのだ。
想像すると、胸の奥が焼けるように痛んだ。
怒りではない。ただ、虚しい。
あんなに信じていたのに。あんなに好きだったのに。
俺の三年間の青春は、こんな汚い裏切りで幕を閉じるのか。
「……いや、幕を引くのは俺だ」
俺は自分に言い聞かせるように呟いた。
被害者として泣き寝入りなんてしない。
俺は、彼らの人生における「処刑人」になる。
彼らが俺を裏切った代償は、彼らの未来そのもので支払ってもらう。
夕方になり、日が傾き始めた頃、玄関が開く音がした。
「ただいまー! 湊、帰ったよぉ」
美月の声だ。
俺はモニターの電源を落とし、大きく深呼吸をしてから立ち上がった。
鏡の前で表情を作る。
優しく、少し間抜けで、彼女を疑うことなど知らない「善人の湊」の仮面を被る。
リビングに行くと、美月がソファに座り込んでいた。
髪が少し濡れている。シャワーを浴びてきた証拠だ。
化粧も直されているが、首元にうっすらと赤い痕が見える。キスマークだ。ファンデーションで隠しきれていない。
俺の心臓が一瞬跳ねたが、すぐに氷点下に戻る。
「おかえり、美月。楽しかった?」
「うん! すっごく楽しかったよ。久しぶりに女子トークで盛り上がっちゃってさ」
「そっか。いい息抜きになったみたいだね」
「うん。あ、そうそう。これお土産。駅前のケーキ屋さんで買ってきたの」
美月が箱を差し出す。
俺の好物のショートケーキだ。罪滅ぼしのつもりか、あるいは単なる気まぐれか。
どちらにせよ、そのケーキには欺瞞の味がするだろう。
「ありがとう。後で一緒に食べようか」
「うん!」
美月は無邪気に笑う。
その笑顔の下に、どれほどの嘘が隠されているのか、俺はもう知ってしまった。
彼女の背後に、蓮の影が重なって見える。
俺は彼女の頭をポンポンと撫でた。
これが、彼女に触れる最後の慈悲になるかもしれないと思いながら。
「……ねえ、美月」
「なぁに?」
「来週の週末、実家で食事会しようか。親父たちも旅行から戻ってくるし、結婚式の詳細も決めたいからさ」
「あ、いいよ! お父さんたちにも会いたいし」
「それと、蓮も呼ぼうと思ってるんだ。友人代表のスピーチ、頼みたいから」
俺が蓮の名前を出した瞬間、美月の表情が一瞬強張り、すぐに安堵の色に変わった。
公堂で会える口実ができたと思ったのだろう。
「うん! 蓮くんも呼ぼうよ。きっと喜ぶね」
「ああ、きっと喜ぶ。……忘れられない夜になると思うよ」
俺は静かに微笑んだ。
そう、忘れられない夜になる。
それが「最後の晩餐」になるとも知らずに、美月は嬉しそうにケーキの箱を開け始めた。
俺はその横顔を見つめながら、心の中でカウントダウンを開始した。
残り一週間。
それまでは、この茶番劇を完璧に演じきる。
そしてその時が来たら、俺は容赦なくスイッチを押す。
二人の未来も、家族の絆も、全てを灰にするスイッチを。
甘いケーキの匂いが部屋に充満する中、俺の腹の底では、どす黒く冷たい炎が静かに燃え盛っていた。
準備は整った。
あとは、その時を待つだけだ。




