第1話 幸福の死角
「うわぁ……素敵。ねえ湊、見て。ここのステンドグラス、すごく綺麗だよ」
目の前で歓声を上げる婚約者の横顔を見つめながら、俺、相沢湊は自然と口元が緩むのを止められなかった。
場所は都内でも有数の人気を誇る結婚式場『セレスティアル・ガーデン』。そのメインバンケットに併設された大聖堂の中だ。高い天井から降り注ぐ陽光が、歴史を感じさせる重厚なステンドグラスを透過し、五色の光となってバージンロードに降り注いでいる。
「ああ、本当に綺麗だね。美月が気に入るのも分かるよ」
俺がそう答えると、相沢美月――俺の義理の妹であり、そして最愛の婚約者は、満面の笑みを浮かべて振り返った。
柔らかなブラウンのロングヘアがふわりと揺れ、彼女特有の甘い香水の匂いが鼻をくすぐる。大きな瞳には、未来への希望だけが映し出されていた。
「ここなら、お父さんもお母さんも喜んでくれるかな? バージンロード、結構長いし、お父さん泣いちゃうかも」
「親父は確実に泣くだろうな。今からハンカチをダース単位で用意しておかないと」
「ふふっ、湊のお父さんらしいね。でも、私のお母さんもきっと泣くよ。二人が再婚した時も、あんなに泣いてたもん」
俺たちは顔を見合わせて笑い合った。
俺と美月は、少し特殊な関係だ。俺が中学二年生、美月が中学一年生の時、互いの親が再婚したことで「兄妹」になった。最初はぎこちなかった関係も、高校、大学と進むにつれて家族としての情愛が深まり、やがてそれは男女の愛へと変わっていった。
両親に交際を報告した時の緊張感は今でも覚えている。だが、二人は驚きこそしたものの、「湊と美月なら安心だ」と、涙を流して祝福してくれたのだ。
大学卒業と同時に結婚することは、家族全員にとっての悲願であり、決定事項だった。俺たちは今、人生で最も幸せな瞬間のど真ん中にいる。そう確信していた。
「では、お見積もりの方を作成してまいりますので、お二人はこちらのサロンでお待ちいただけますか?」
ウェディングプランナーの女性が、恭しい態度で俺たちを案内する。
案内された個室のソファに腰を下ろすと、美月はテーブルに置かれたドレスのカタログを食い入るように見つめ始めた。
「ねえ湊、お色直しはどうしようか。やっぱり定番のピンクかな? でも、蓮くんが言ってたみたいに、意外性を狙ってネイビーとかも大人っぽくていいかも」
その名前が出た瞬間、俺はごく自然に頷いた。
「蓮か。あいつ、妙にそういうセンスいいからな。あいつの意見なら参考にしていいかもね」
「でしょ? こないだ大学で会った時も、『美月ちゃんは肌が白いから、濃い色が映えるよ』って言ってたし」
「へえ、あいつそんなこと言ってたんだ。……じゃあ、式にはあいつを友人代表として呼ばないとな」
高城蓮。
俺の大学時代からの親友であり、実家が建設会社を経営している御曹司だ。派手好きで女遊びも激しい奴だが、俺とは妙に馬が合い、美月とも仲良くしてくれていた。俺たちの関係を最初に応援してくれたのも蓮だった。
俺にとって、美月が最愛のパートナーなら、蓮は最高の親友だ。この二人がいれば、これからの人生、どんな困難も乗り越えていける。本気でそう思っていた。
式場を出る頃には、日はすっかり西に傾いていた。
具体的な日取りと内金の支払いを済ませ、俺たちは軽い足取りで帰路についた。現在は、両親が所有する実家の一軒家で、俺と美月、そして両親の四人で暮らしている。今日は両親が旅行で不在のため、家には俺たち二人きりだ。
「疲れたけど、楽しかったねぇ」
玄関のドアを開けるなり、美月はパンプスを脱ぎ捨ててリビングのソファへダイブした。
「ほら、着替えないと服にシワがつくぞ」
「はーい……あ、湊、喉乾いた。お茶淹れて?」
「はいはい」
甘えた声を出す美月に苦笑しながら、俺はキッチンへと向かう。
冷蔵庫から麦茶を取り出し、グラスに注ぐ。カラン、と氷が涼やかな音を立てた。
何もかもが平和で、満ち足りている。
就職先も決まり、結婚式の準備も順調。愛する女性がすぐそばにいて、無防備な姿を晒してくれている。
俺はこの幸せを守るためなら何だってできる。そう、自分の命さえ惜しくはないと、大袈裟ではなく思っていた。
「ありがと、湊」
グラスを受け取った美月は、一口飲むと満足げに息を吐いた。
「私、先にお風呂入ってきちゃおうかな。今日は歩き回って汗かいたし」
「ああ、いいよ。俺はその間に夕飯の準備でもしておくか。何かリクエストある?」
「んー、パスタがいい! カルボナーラ!」
「了解。じゃあ、ゆっくり入ってきな」
美月は鼻歌交じりに立ち上がると、脱衣所の方へと消えていった。
パタン、とドアが閉まる音がリビングに響く。
後に残されたのは、静寂と、彼女が脱ぎ散らかしたカーディガン、そして――ローテーブルの上に無造作に置かれた、彼女のスマートフォンだった。
俺はキッチンでパスタを茹でるための湯を沸かし始めた。
換気扇の回る音が低く響く中、ふとリビングの方を見る。
美月のスマホが、テーブルの上で場違いなほど可愛らしいパステルカラーのケースに包まれて鎮座している。
いつもなら気にも留めない。俺たちは互いのプライバシーを尊重しているし、スマホを勝手に見るような真似はしない。それが信頼の証だと思っていたからだ。
しかし、その時は偶然だった。本当に、神様の悪戯としか思えないタイミングだった。
ブブッ。
テーブルの上のスマホが短く震え、画面が明るく点灯したのだ。
MINEの通知だ。
俺はキッチンのカウンター越しに、何気なくその光を目で追った。
距離にして数メートル。視力の良い俺には、ポップアップされた通知の内容がはっきりと見えてしまった。
表示された差出人の名前は『蓮くん』。
親友の名前だ。
結婚式の相談か何かだろうか? あるいは、俺へのサプライズの打ち合わせ?
そんな呑気な推測が脳裏をよぎったのは、ほんの一瞬のことだった。
その下に表示されたメッセージの冒頭文が、俺の思考を強制的に凍結させた。
『昨日のホテル、最高だったな。湊には内緒だぞ(笑)』
え?
俺の手から、菜箸が滑り落ちそうになった。
見間違いか?
いや、確かにそう書いてあった。「ホテル」「最高」「湊には内緒」。
意味が分からない。脳が情報の処理を拒絶している。
蓮と美月? ホテル? 昨日?
昨日は確か、美月は大学のゼミの集まりだと言って、帰りが遅かったはずだ。俺はそれを疑いもしなかった。
全身の血が逆流するような感覚に襲われながら、俺は吸い寄せられるようにリビングのテーブルへと近づいた。
心臓が早鐘を打つ。ドクン、ドクン、と嫌な音が耳の奥で響く。
見てはいけない。見れば、もう後戻りはできない。
そんな理性の警告を、湧き上がる疑惑と恐怖がかき消していく。
俺は震える手で、美月のスマホを覗き込んだ。
ロック画面には、通知のプレビューが表示されたままだ。
さらに悪いことに、そこにはメッセージだけでなく、画像も添付されていた。
小さなサムネイル画像。だが、何が写っているのかを理解するには十分すぎるほど鮮明だった。
薄暗い間接照明。
乱れたシーツ。
そして、裸の肩を寄せ合い、ふざけたように舌を出してピースサインをする、美月と蓮の姿。
「――――ッ」
声が出なかった。
喉の奥が引きつり、酸素が肺に入ってこない。
殴られたような衝撃とは、こういうことを言うのだろうか。
視界がぐらりと歪む。
俺が今日、式場で感じたあの幸福感は?
美月が見せていたあの笑顔は?
蓮が俺に向けていた親愛の情は?
『湊には内緒だぞ』
その文字列が、まるで呪いのように網膜に焼き付いて離れない。
日付を確認する。昨日の夜、22時過ぎ。
俺が家で「美月、遅いな。大丈夫かな」と心配してMINEを送っていた時間帯だ。
その時、二人はホテルで、俺をあざ笑うように体を重ねていたのか。
「……は、はは」
乾いた笑いが漏れた。
三ヶ月。
遡って表示されていた通知履歴の中に、三ヶ月前の日付が見えた。
少なくとも三ヶ月前から、二人は関係を持っていたことになる。
俺たちが婚約を発表し、両親が涙を流して喜んでいたあの時期から。
俺が蓮に「お前のおかげで幸せになれたよ」と感謝を伝えたあの夜から。
吐き気がした。
強烈な嘔吐感が胃の底からせり上がってくる。
裏切り。欺瞞。嘲笑。
俺の人生の基盤だと思っていたものが、音を立てて崩れ落ちていく。
あんなに綺麗だと思ったステンドグラスの光が、今はどす黒い汚泥のように思えた。
俺は美しいドレスを着た美月を想像し、その横に立つ自分を想像していた。
だが現実はどうだ。
俺の知らないところで、俺の最も信頼する二人が、俺を「道化」にして楽しんでいたのだ。
怒り? いや、違う。
最初に訪れたのは、底なしの絶望と、心の一部が完全に死滅する感覚だった。
熱いものが冷めていく。
美月への愛おしさも、蓮への友情も、急速に冷却され、絶対零度の氷塊へと変わっていく。
俺は大きく深呼吸をした。
酸素を無理やり脳に送り込み、混乱する思考を強制的に鎮める。
今、ここで騒ぎ立ててはいけない。
今、美月を問い詰めても、「誤解だ」とか「一度だけだ」とか、適当な嘘で言いくるめられるだけだ。
証拠は見た。だが、これだけでは足りない。
俺が受けたこの屈辱と痛みを、倍にして……いや、百倍にして返してやるには、これだけでは不十分だ。
カチャリ。
脱衣所のドアノブが回る音がした。
「ふー、さっぱりしたぁ! 湊、お水もう一杯ちょうだい」
美月が戻ってくる。
俺は反射的にスマホを元の位置に戻し、表情筋を総動員して「平静」を作った。
心臓はまだ激しく脈打っているが、顔に出てはいけない。
俺はキッチンへ戻り、冷蔵庫を開けるふりをして背中を向けた。
「ああ、今入れるよ」
自分の声が震えていないか不安だったが、意外なほど冷静な声が出た。
人間、極限状態になると逆に冷静になるというのは本当らしい。
「なんかいい匂いしてきた! ソースもう作ってる?」
「うん、ベーコン炒めてるところ」
美月がリビングに入ってくる気配がする。
彼女はテーブルの上のスマホを手に取り、画面を確認したようだ。
一瞬の沈黙。
俺は背中越しに全神経を集中させる。
彼女は今、どんな顔をしている?
焦っているか? それとも、俺が見ていないと確信して、舌を出しているか?
「……ふふっ」
小さな含み笑いが聞こえた。
そして、軽やかなタップ音が響く。
おそらく、蓮に返信しているのだろう。『湊、気づいてないよ』と。
「湊、明日なんだけどさ、大学の友達とランチ行ってきてもいい? ちょっと帰るの遅くなるかも」
美月が明るい声で言った。
嘘だ。
どうせ明日も、蓮と会うのだろう。
俺の知らないところで、俺を馬鹿にしながら。
俺はグラスに水を注ぎ、ゆっくりと振り返った。
そこには、風呂上がりの火照った頬をした、天使のように可愛い婚約者がいた。
数分前まで、世界で一番愛していた女性。
今は、世界で一番理解し難い、薄汚い他人に見える。
「いいよ、行ってきなよ。楽しんでおいで」
俺は微笑んだ。
鏡を見ていないから分からないが、おそらく完璧な笑顔だったと思う。
俺の心の中で、何かが完全に砕け散り、別の何かが黒く胎動し始めていた。
「ありがとう! 湊大好き!」
美月が無邪気に俺に抱きついてくる。
その温もりを、かつては至上の幸福だと感じていた。
今はただ、不快な生温かさだけが皮膚を伝う。
彼女の髪から漂うシャンプーの香りの奥に、微かに、本当に微かにだが、俺の知らない男の香水の匂いが混じっている気がした。
俺は彼女の背中に腕を回し、優しく抱きしめ返した。
その目は、彼女の肩越しに、虚空を冷たく見据えている。
(楽しんでおいで、美月。今のうちに、せいぜい楽しんでおくといい)
俺の中で、感情のスイッチが切り替わった。
愛おしさは殺意へ。信頼は策略へ。
これは、ただの痴話喧嘩ではない。
俺の人生と尊厳をかけた、徹底的な「断罪」の始まりだ。
「さ、パスタ伸びちゃうから食べようか」
「うん!」
美月が体を離し、食卓に着く。
俺はその背中を見ながら、心の中で静かに誓った。
泣き叫んで許しを乞うその時まで、俺は最高の婚約者を演じ続けてやる。
そして、最も高い場所から、お前たちを地獄の底へと突き落としてやる。
俺は感情を殺し、冷たい復讐のシナリオを脳内で描き始めた。
まずは証拠の保全だ。そして、蓮の周辺調査。
会社の決算書、大学での素行、全てを洗い出す。
三ヶ月。
三ヶ月も俺を騙し続けた代償は、彼らの人生すべてをもってしても支払いきれないほど高くつくことになるだろう。
「いただきまーす! ん、おいしー!」
何も知らずにパスタを頬張る美月を見ながら、俺は自分の分のフォークを握りしめた。
金属の冷たさが、今の俺の心には心地よかった。
戦いのゴングは、誰にも聞こえない場所で、静かに、しかし激しく鳴り響いたのだった。




