奇妙なモンスター学校へようこそ!
レオ・クロムウェルが住む街はいつも湿った霧に覆われていた。
古い石畳の道は濡れて光り、ガス灯のぼんやりとした灯りが歴史の染みついた煉瓦を照らし出す。
それが彼の日常であり、世界の全てだった。
ごく平凡な学生であるレオにとってその日常に不満はなかったが、埋めようのない空虚感が常に胸の奥にわだかまっていた。
数年前に、母親が失踪したあの日からずっと。
「まただ……」
図書館の古い木の机で本を読んでいたレオはふっと、奇妙な感覚に襲われた。
周囲の音が遠のき、ページをめくる老婆の指、窓の外で羽ばたく鳩の動き、その全てが一瞬、完璧に静止したかのように感じる。
次の瞬間、世界は何もなかったかのように動き出す。
軽いめまいと既視感だけを残して。
医者はストレスだと言った。
レオ自身も、母を思うあまりの感傷的な癖なのだろうと、そう結論付けていた。
その日、古びたアパートの部屋に帰ろうとしていると奇妙なことにやけに月が赤く見えた。それが運命の合図だったのかもしれない。
郵便受けに見慣れない一通の封筒が届いていた。
消印はなく、古風なシーリングワックスで封がされている。蝋に押された紋章はウロボロスの蛇が樫の木に絡みつく奇妙なデザインだった。
胸騒ぎを覚えながら封を切る。
中から出てきたのは、一枚の羊皮紙。
そこに綴られていたのは、インクの匂いまで懐かしい、紛れもない母の筆跡だった。
『親愛なるレオへ
あなたがこれを読んでいるのなら、私は役目を果たし、そしてあなたは新たな道を歩む時が来たということです。驚かないで聞いて。私たちの世界は、あなたが知っている姿が全てではありません。
同封した許可証を持って、指定の場所へ向かいなさい。
オールウェル・アカデミーへ。
そこに、あなたが探すべき全ての答えがあります』
許可証にはレオの名前と「新入生」という肩書きが記されていた。
オールウェル・アカデミー。
聞いたこともない学校だ。
しかし、これが母からの数年ぶりのメッセージ。
行かないという選択肢は、レオの中にはなかった。
指定された場所は街外れにある古びた鉄道駅の今は使われていないはずの「13番線」だった。
母の言葉だけを信じ、夕闇に染まる空の下で待っていると巨大な蒸気機関車が静かに煙を上げていた。
客車には人ではない「何か」の影がいくつも揺れている。
これが、母が示した答えへと続く道だった。
蒸気機関車がたどり着いたのは天を突くほどの尖塔がいくつもそびえ立つ、巨大なゴシック様式の城だった。
霧深い湖の畔にそびえるその学び舎こそがオールウェル・アカデミー。
校門の前で呆然と立ち尽くすレオに背後から落ち着いた声がかけられた。
「新入生ですね、クロムウェル君」
振り返るとそこに立っていたのはツイードのスーツを上品に着こなした厳格そうな女性だった。
その姿を見て思わずギョッとしてしまい、腰が抜けそうになった。
なぜならその髪が何十匹もの小さな蛇でできており、それぞれがちろちろと舌を出していることだった。
「副学長のメドラです。ようこそ、オールウェル・アカデミーへ。この学園は、人間界と裏世界の間に立ち、来るべき共存の時代を担う若人たちを育む場所」
メドラと名乗った女性(ゴルゴンなのだろう、とレオは神話の知識を必死に手繰り寄せた)の言葉に、レオはただ頷くことしかできない。
困惑した状態で案内されるままに城内へ足を踏み入れるとそこはまさに異世界だった。
廊下を歩くのは蝙蝠の羽を生やした生徒や明らかに狼の耳と尻尾を持つ生徒たち。
誰も彼もが伝説や神話の登場人物そのものだった。
「第一オリエンテーションホールはこちらです。他の新入生たちも集まっています」
重厚な扉が開かれる。
中には十数名の新入生が集まっていた。
レオが入ると一斉に視線が突き刺さる。
値踏みするような好奇の、あるいは敵意の視線。
「ほぅ、今年最後の一人か。随分と……匂いのない奴だな」
声をかけてきたのはビロードの豪奢な制服を着こなした、彫刻のように美しい銀髪の少年だった。
彼の首筋から覗く犬歯はやけに鋭く尖っている。
「僕はドリアン・ヴラディスラウス。見ての通り、吸血鬼だ。君は?」
「……レオ・クロムウェルだ」
「クロムウェル……? 聞かない名だな。まあいい。この学園では血統が全てだ。せいぜい足手まといにならんことだな、"人間もどき"」
ドリアンが嘲るように鼻を鳴らすと今度は快活な声が割り込んできた。
「まあまあ、そう言うなって! 俺はライコス・ウェーバー! ドイツの黒い森から来た人狼だ! よろしくな、レオ!」
がっしりとした体躯のライコスは人懐っこい笑顔でレオの肩を叩く。
その強さにレオは思わずよろめいた。
視線を巡らせると他にも様々な種族がいることがわかる。
壁際に静かに佇んでいるのは純白の着物のような制服を纏った黒髪の美しい少女。
彼女の周りだけ空気がひときわ冷たいように感じられた。目が合うと彼女は静かに一礼した。
後で知ったことだが彼女の名前は雪城ツララ。
日本から来た雪女の一族らしかった。
レオは自分が完全に場違いな場所にいることを痛感していた。ここはモンスターの学校だ。
母はなぜ、ただの人間である自分をここに?
彼はこの状況から固く決意した。
おそらく自分が人間であるとバレればどうなることか分からない。ここには人間が一切いない。
何があっても自分が人間であることは隠し通さなければならない、と。
最初の授業は「幻獣飼育学」だった。
担当するのは中国神話にルーツを持つという白澤先生。
彼は穏やかな学者然とした男だがその額には第三の目が光っていた。
「今日は皆さんに、マンティコアの幼体と触れ合ってもらいます。マンティコアはライオンの体に、サソリの尾を持つ危険な幻獣ですが幼体は比較的安全……なはずです」
白澤先生の「なはずです」という言葉に、教室がざわめいた。
巨大な鉄の檻が運び込まれ、中から唸り声を上げて赤茶色の獣、マンティコアの幼体が出てくる。
体長は2メートルほど。
幼体と呼ぶにはあまりに威圧感があった。
生徒たちはそれぞれ自らの能力を使ってマンティコアをいなしていく。
ドリアンは優雅な身のこなしで攻撃を避け、ライコスは持ち前の腕力で突進を受け止める。
ツララが指を振るうと、マンティコアの足元が凍りつき、動きが鈍った。
問題はレオだった。
「おい、クロムウェル! 突っ立ってるだけか! 餌になりたいのか!」
ドリアンの罵声が飛ぶ。
レオにできることはただ後ずさることだけ。
そのレオの恐怖に反応したのか、マンティコアが標的を彼に定めた。
低い唸り声を上げ、鋭い爪を立てて地を蹴る。
毒針のついた尾が不気味にしなっていた。
「危ない!」
ライコスの叫び声が響く。
だが、もう遅い。
マンティコアがレオの目の前に跳躍し、鋭い牙が彼の喉元に迫る。
死を覚悟した、その瞬間だった。
____世界が、止まった。
昨日までの、あの「めまい」とは比べ物にならない、完全な静寂と停止。
マンティコアは牙を剥いたまま、空中で完璧に静止している。
飛び散る唾液の一滴一滴まで、ガラス細工のように空中に留まっていた。
ライコスの驚愕の表情も、ドリアンの冷ややかな目も、全てがフリーズしている。
動いているのはレオ・クロムウェルただ一人だった。
「……なんだ、これ……?」
理解が追いつかない。
だが考えるよりも先に体が動いた。
彼は凍りついた時の中をすり抜けるようにマンティコアの側面へと転がる。
レオが体勢を立て直した、次の瞬間。
時間は再び、奔流のように流れ出した。
「グオオオオッ!」
マンティコアは、いるはずの場所にいない獲物を見失い、そのままの勢いで壁に激突した。
衝撃で気を失ったのか、巨体はピクリとも動かない。
静まり返る教室。
生徒たちの視線は無傷で立っているレオに集中していた。
「……信じられない……今、どうやって避けたんだ?」
ライコスが呆然と呟く。
ドリアンは忌々しげに舌打ちした。
「……運のいい奴め」
雪城ツララだけがじっとレオの目を見つめていた。
その透き通るような瞳は幸運を信じていない、何かを見極めようとする色をしていた。
レオは自分の両手を見下ろした。震えが止まらない。
あれは一体何だったのか?ただの偶然か?
いや、違う。あの完璧な静寂。
世界でただ一人、自分だけが動けるあの感覚。
あれは自分の力なのか?
授業の後、レオは一人、学園の巨大な図書館を訪れていた。さっきの出来事が頭から離れない。もし、あの力が自分のものなら母はそれを知っていたのだろうか?
「クロムウェル……クロムウェル……」
彼は母の名前「エレオノーラ・クロムウェル」を過去の在校生名簿から探していた。この学校を推薦した理由は母がここに来ていたからだと考えていたからだ。
何時間も探し続け、ようやく一つの記録を見つけ出す。しかし、それは在校生名簿ではなかった。
「禁書庫閲覧者リスト」という、埃をかぶった古いファイルの中に、母の名前はあった。
エレオノーラ・クロムウェル。
閲覧記録は彼女が失踪したとされる日付で途絶えている。そして、彼女が最後に閲覧した本のタイトルは『時の理と境界の門について』
「時の、理……?」
その言葉にレオは心臓が掴まれたような感覚に陥った。まさか。自分のこの奇妙な現象と何か関係があるというのか。
その時、書架の影から話し声が聞こえてきた。
ドリアンの声だ。
「……ああ、間違いなくクロムウェルの血筋だ。だが、あいつは自分が何者か、何も分かっていないらしい」
「好都合ではないか。我々の計画にとって、あの『力』は邪魔だが、無自覚ならば御せるかもしれん」
知らない声との会話。計画? 力?
レオは息を殺してその場を離れた。
心臓が早鐘のように鳴っている。
母はこの学園で何かを調べていた。
それは「時」に関わる、危険な何かだ。
そしてドリアンたちはそのことを知っている。
自室に戻ったレオはもう一度、母からの手紙を読み返した。
『そこに、あなたが探すべき全ての答えがあります』
答えは母の失踪の理由だけではなかった。
それは、レオ・クロムウェルという存在そのものの謎に繋がっていた。
彼は自分の掌をもう一度見つめる。
平凡な人間だと思っていた自分。
モンスターたちの中で、無力だと信じていた自分。
だがこの手には、まだ誰も知らない、世界さえも止めてしまう秘密が眠っている。
「母さん……あなたは一体、何を僕に託したんだ?」
奇妙なモンスター学校での生活はまだ始まったばかり。
母の謎と自らの秘密が交差する危険で不思議な日々が今、幕を開けたのだった。
最近書けていなかったのでファンタジー作品の練習として……