嫌な記憶、お消しします
看板は出ていない。ただ、古びたビルの二階、郵便受けにだけ小さく貼られている──
《嫌な記憶、お消しします(催眠術専門)》
店内は観葉植物とアロマの香りに包まれ、リラクゼーションサロンのような落ち着いた空間だった。
男は落ち着きなく椅子に座り、そわそわと腕組みをしている。
「……で、つまり、まとめてお願いすると、おいくらになりますかね?」
提出された記憶の一覧は以下の通りだった。
・彼女に振られた夜の出来事
・クレーマーに延々怒鳴られた接客業時代のワンシーン
・小学生の頃、発表会でズボンを濡らした“事故”の記憶 など数点
店主は手元のカルテを見ながら淡々と答える。
「この内容でしたら……12,000円です」
「えー、高くないですか? これ、たかが記憶でしょ? しかも、嫌な記憶なんて誰にでもあるし、こんなもん消すのに1万円超えって……ぼったくりじゃないの?」
「これは催眠術による記憶誘導と再構成を組み合わせた施術でして、比較的安全な方法の中では、かなり精度が高いものです」
「でもさあ、これ本当に効果あるの? SNSで見たってだけなんだけど、レビューも半信半疑って感じだったし……ねぇ、ほら、ネット価格とかないの?」
男は椅子にふんぞり返り、あからさまに値切る姿勢を見せる。
「私はこの技術を習得するために、インドで五年間、瞑想と神経心理学を学びました。日本ではさらに六年、臨床で検証を重ねています」
店主は声を荒げず、淡々と事実を述べた。
「……ですが、初回ということですし、今回は特別に8,000円でお受けします。ただし、料金は先払いでお願いしています」
「よっしゃ、最初からそうしてくれればいいんだよ。じゃ、よろしくね!」
男は財布を開き、満足げに現金を差し出す。
* * *
施術が始まり、店主の落ち着いた声が静かに室内に響く。
「目を閉じて、深呼吸を……私の声だけに意識を向けてください……」
──やがて、男は深い催眠状態に落ちていった。
* * *
数十分後。
「施術は終了しました。今、嫌な記憶はお有りですか?」
男はぼんやりとした顔で首をひねる。
「……いや、何も……スッキリしてますね。すげえ。これ、本当に効いてんだな……!」
店主は微笑み、礼を述べる。
「それは何よりです。では、お会計を──通常料金は12,000円ですが、今回は初回ということで8,000円で結構です」
男は嬉しそうに財布を開き、再び8,000円を支払った。
「安くなってよかった! いやー、こんなに効果あるなら、またお願いしたいくらいっすよ!」
上機嫌で帰っていく男の背中を、店主は静かに見送った。
──先ほど、先払いで一度8,000円を支払った記憶も、きれいさっぱり消えていた。