8.皇妃になんてなるものですか
「ち、ちがうんです。これには複雑な事情があってですね……! 結婚は何かの間違いなんですっ」
「そうなのですか? わたくしどもは聖剣を抜いた方を未来の妃殿下として、丁重にお迎えせよと仰せつかっておりますが」
エリダは上品に微笑む。
「私、聖剣を陛下にお返ししたらここから出ていきますので、どうぞおかまいなく」
「かしこまりました……? ですが、祝賀会にご出席する準備を進めよと、皇太后陛下より命じられておりますので、そちらを進めてまいりますね」
疑問形で了承しつつ、エリダは己の使命を全うしようとしていた。
どこの馬の骨ともわからないような娘の言い分より、皇帝の母親の命令の方が絶対なのだろう。
――あの『冷血皇帝』のお母さんかぁ、こわい人なのかな。
ここでゴネてもいいことはなさそうだと、リンネアは抵抗を諦める。
「湯浴みの準備ができたようでございますから、あちらへまいりましょう。それからお支度に取り掛かります」
「はい……」
エリダに促されて浴室へ向かうと、そこには大きな浴槽があり、すでに湯が張られている。
浴槽の縁には金色の装飾が施されていて、細かいところまで贅が尽くされていた。
普段、川で水浴びをするか、布を濡らして体を拭くくらいしか経験のないリンネアにとって、溢れるほどの湯に浸かるのは贅沢すぎる。
髪の毛からつま先まで、たっぷりの泡に包まれ、体を磨かれた。恥ずかしいというより、彼女たちのてきぱきとした仕事ぶりに感心しきりで、あっという間に湯浴みは終わってしまう。
「ところで祝賀会……ってなんのことですか?」
湯浴みを終え、蕩けるような肌触りのシルクのローブを羽織ったリンネアは、首を傾げた。
「建国祭にいらっしゃった貴人、要人の方々を招いての夜会になります」
エリダがにこりと微笑みながらリンネアの髪を拭いてくれる。
「そこに出席させられるんですか……?」
不安になりながらエリダの後をついていくと、そこはさきほど説明のあった両陛下の寝室という部屋だ。
――結婚したら、ここであの冷血漢と……?
リンネアは、何かを想像しかけて慌てて首を横振った。
――絶対、皇妃になんてなるものですか!
「あれっ? 私の服はどこに……?」
「それでしたらお洗濯に出しましたのでご安心ください。では祝賀会に間に合うように、急いでお支度してまいりますね」
エリダは大きなクローゼットを開き、中から一着のドレスを選んでベッドに広げる。深い青色のドレスだった。
「これを……着るの?」
リンネアは思わず後ずさってしまった。
パッと見ただけで、普段着ているものとは比べ物にならないほど上質だとわかる。
「はい。リンネア様の体型でしたら、少しお直しすればこちらで大丈夫かと思います。これから毎日お召しになる物は、仕立て職人を呼んで、ちゃんとサイズを合わせますので、ご心配なさないでくださいね」
心配しているのはそこじゃない。
ドレスなんて似合わないに決まっているし、ここでずっと暮らすつもりもないから、新しい服を作ってもらう必要もない。
「着替える前に少し御髪を整えますね」
エリダはそう言って、リンネアをドレッサーの前の丸椅子に座らせると、伸ばしっぱなしの前髪に軽快に鋏を入れていく。
こういうのは理髪師に頼むのではないかと思ったが、侍女とはなんでもできないといけないらしい。
「できましたよ。お顔周りの髪を結いあげて、耳飾りが見えるようにするとよさそうですね」
エリダは、他の侍女たちとすでに次の準備の相談をしている。
鏡をのぞくと、なんだかいつもの自分ではないような印象を受けた。家にある小さな鏡は曇っていたし、ひび割れていて、そもそもちゃんと見たことがないのだけど。
眉の上あたりで綺麗に揃えられた前髪、胡桃みたいに丸い青い目、あまり日の当たらない生活をしているせいか不健康そうな白い肌、自信のない表情――とてもではないが皇帝の隣に並んでいい人間ではない気がする。
「では、早速こちらにお召し替えを」
そう言って、侍女たちはローブを脱がせると、素早く下着やコルセットなどをリンネアの細い体に巻いていった。
「え……これ、もしかして、もう拷問が始まってる……の?」
あまりの窮屈さに息が止まりそうになり、涙すらせき止められる。
「何をおっしゃいますか。最初はきついかもしれませんが、だんだん慣れますから」
エリダはにっこりと笑いながら、非情にもさらにきゅっと締め上げてきた。
「ぐぇっ」
蛙が踏みつぶされたみたいな悲鳴が零れたが、エリダたちはおかまいなしにドレスを重ねていく。
――絶対、絶対、皇妃になんてなるものですか!
涙目のリンネアは、再び強い決意を胸に抱いたのだった。