第九十四章「お風呂場の大騒動」
春の柔らかな陽射しが差し込む午後、エマの工房では新しい入浴剤の開発が始まっていた。月詠みの花のエッセンスを活用した癒しの入浴剤。それは、マリーお婆さんから贈られた古い調合書を参考に始めた小さな挑戦だった。
「よし、これで月詠みのエッセンスと、ラベンダーの香りが溶け合うはず……」
工房の風呂場で、エマは慎重に材料を計り取っていく。祝福の雫で浄化された水に、月詠みの花から抽出したエッセンスを三滴。そこへラベンダーの精油を加え……。
突然、風呂桶から淡い紫色の泡が湧き上がった。
「あれ? これは……!」
泡は瞬く間に膨らみ、風呂場一面に広がり始める。エマが慌てて止めようとするも、泡は勢いを増すばかり。
「どうしよう……!」
風呂場のドアを開けた瞬間、泡は廊下へと溢れ出した。紫色の泡の波が、まるで生き物のように工房内を埋め尽くしていく。
「エマ! 何かあった?」
物音を聞きつけて、陶芸家アンナが駆けつけてきた。
「アンナ、ごめんなさい! 入浴剤の調合を間違えちゃって……」
説明する暇もなく、泡は玄関から外へと溢れ出す。通りがかった村人たちが目を丸くする中、紫色の泡は石畳の通りを埋め尽くしていった。
「まあ、これは……!」
ガラス職人のルーカスが駆けつけ、思わず笑みがこぼれる。
「なんだか、お祭りみたいだね」
泡に触れた村人たちの表情が、次々と和らいでいく。不思議な香りと共に、心地よい温もりが体中に広がっていくのを感じる。
「エマ、この泡……なんだか気持ちいいわ」
アンナが微笑みながら言う。触れた場所から、疲れが溶けていくような感覚が広がっていた。
「本当だ……」
エマも泡に触れてみる。月詠みの花の力が、思いがけない形で現れたようだった。
やがて、マリーお婆さんがゆっくりと歩いてきた。
「まあまあ、随分と賑やかな実験になったようねぇ」
そう言って、マリーお婆さんは泡に手を伸ばす。
「これは……祝福の力が溢れ出したのね。時には、計画通りにいかないことの方が、新しい発見につながるものよ」
泡は徐々に消えていったが、触れた人々の心に心地よい余韻を残していった。
「エマ、この感じ、商品化できないかしら?」
アンナが提案する。
「そうね。でも、今度は爆発しない作り方を考えないと……」
エマの言葉に、集まった村人たちから温かな笑い声が広がった。
夕暮れ時、工房の掃除を手伝ってくれた仲間たちとお茶を飲みながら、エマは思った。失敗も、時には新しい発見の種になる。そして何より、困ったときに集まってくれる仲間がいることの幸せを。
「次は、もっと素敵な入浴剤を作るわ。でも、爆発するのは勘弁ね」
アンナの冗談に、再び笑い声が響く。窓の外では、夕陽に照らされた月詠みの花が、静かに微笑んでいるかのようだった。
後日、この騒動から生まれた「月詠みの癒し」という入浴剤は、光の谷の新名物となった。ただし、説明書には大きく注意書きが記されることとなった――「適量以上の使用は、思いがけない泡風呂パーティーの原因となります」




